2024年12月21日土曜日

共感力

  この『RW/WW便り』に書き始めてちょうど10年になりますが、「共感」について幾度も話題にしてきました。理解することができたという実感を覚える時に「共感」はとても大事なことだと考えるからです。『理解するってどういうこと?』の347ページにある「表9.1 理解することで得られる成果」にも(おもにフィクションの理解について)「共感」だけで「共感全般」「登場人物への共感」「舞台設定への共感」「登場人物の葛藤への共感」「作者への共感」という五種類の「成果」が挙げられています。

 しかし、共感することがなぜ大事なことなのでしょうか。

 山極壽一さんの『共感革命―社交する人類の進化と未来―』(河出新書、2023年)には、人類が約七万年前に言葉を獲得したときに起こった「認知革命」以前に、「共感」による革命を経験して仲間とつながることを可能にしたことが、人類史上最大の革命だったのではないか、ということが論じられています。

 まず、山極さんは「共感力」の起源と言葉との関係を次のように説明しています。

「言葉を獲得する以前の、意味を持たない音楽的な声と、音楽的な踊れる身体への変化によって、共鳴する身体ができる。この身体の共鳴こそが人間の共感力の始まりで、そこから音楽的な声は子守歌となり、やがて言葉へと変化する。人間はそうやって共感力を高めながら、社会の規模を拡大していったのではないか。」(『共感革命』11ページ)

そして人間は「言葉」を手に入れ「認知革命」を起こすのですが、「言葉」の何がよかったのでしょうか。

「恐らく自分が経験していないことを他人の言葉によって伝えられるネットワークができたことが大きかったのだろう。会話によって、自分では見ていないものをあたかも見たかのように実感できる。そうやって人と人、やがて集団同士がつながれるようになった。

 また言葉によって計画性も生まれた。言葉がないと計画は立てられない。例えば、数日のうちにこの山の上で落ち合おう、というような約束は、言葉を持っていない時代にはできなかった。」(『共感革命』78ページ)

 お互いがつながるネットワークができたこと、「自分では見ていないものをあたかも見たかのように実感できる」ようになったこと、そして「計画性」が生まれたこと、が挙げられています。「自分で見ていないものをあたかも見たかのように実感できる」ようになったこととは、すなわち「虚構」をつくることが可能になったことでもあります。それは素晴らしいことではありますが、危うさも生み出します。山極さんは次のように言います。

「戦争の起源にあるのは言葉の持つ類推、比喩、アナロジーだ。言葉は世界を、集団の外と内を切り分けた。集団の仲間を思いやるがゆえに集団の外に敵をつくっていく、狩猟採集による移動生活の時代は、お互い違う場所へ移動していけば取り合いにはならなかった。ところが農耕牧畜によって定住が必要となり土地にしがみつくようになる。自分たちの共同体が努力して得た利益を守ろうとし、外の人たちを敵視するようになる。敵視は言葉によって顕在化する。オオカミのように陰険なやつだと、人間ではないものになぞらえる。このアナロジーによって簡単に相手を敵視できるようになり、本来なら敵ではないはずの人間を敵とみなすようになった。」(『共感革命』136137ページ)

 人間は「言葉」によって「本来なら敵でないはずの人間を敵とみなす」というわけです。考えてみれば、昔話にあらわれる「鬼」も「言葉」によって生み出されたものです。この、「言葉」が集団の内・外の切り分けと「敵視」を生み出す事態をどのように回避することができるのか。山極さんは「人と人、人と自然のつながりを再認識することが必要だ」と言い、「共感力」を「同調や共鳴という身体の働きから得る能力」だと再定義した上で、次のように述べています。

「主人公になったつもりで小説を読めば、物語内の出来事を追体験することになるし、ドラマを見て感激したり怒ったりすることでも共感力は培われる。共感力は何かに憑依する能力でもあるのだ。」(『共感革命』198ページ)

 こうした小説やドラマの受容の過程で、山極さんの言う「共感力」を育てるために、エリンさんが次のように言う働きかけが大切になると考えます。

「たとえば、理解のための方法の一つを教えるとき、教師は自分の推測したことを考え聞かせして、その上で、その推測によって自分が(たとえば)その登場人物にどのようにして共感できるようになったか、つまり登場人物の置かれた状況と自分の状況とはかなり違っていて、いかにその人物の感じ方に共感する助けになったかを考え聞かせる、という次の段階に進むのです。こうして、私たちは徐々に、子どもたちが自分で行った推測だけでなく、そうした推測が、その理解のための方法を使わなければ理解できなかったどういうことを理解させてくれたのかを共有するように、求めることができるでしょう。それを繰り返すことで、それまでになかった成果が示されたら、子どもたちはこのモデルに付け加えることができるようになります。」(『理解するってどういうこと?』350ページ)

 理解のための方法(関連づける、質問する、イメージを描く、推測する、何が大切か見極める、解釈する、修正しながら意味を捉える)の一つを使って自分がどのように登場人物や舞台設定や登場人物の抱える葛藤や作者に共感できるようになったのかということや、子どもたちが同じようにやって得たことを共有することは、理解するとはどういうことかを実感するためにも、「共感力」を育てていくためにも大切なことです。そのような場面でどのような「同調や共鳴」が引き起こされるかをお互いに見つめ、聴き入ることが、相手に共鳴し、その気持ちを推し量ることや、友だちが登場人物の感じ方に共感するときに頭のなかや心のなかで何が起こっているのかということにみんなで目を向け、共有することができるのです。共感するとはどういうことで、それがなぜ自分たちにとって大切なのかということを知ることができるのです。

2024年12月13日金曜日

書き手の「声」が溢れ出す、書くことについての本

  読後の第一印象は「・・・」。うまく言葉になりませんでした。著者の「声」にたじろぎ、思わず一歩、後ずさり。でも、時間の経過とともに、いろいろな箇所を思い出し、パラパラ読み直す中で、結果として、書くことについて、たくさん背中を押してくれる。そんな本に出合いました。プロの書き手であり、ライティング講座も担当しているアン・ラモットの本 『ひとつずつ、ひとつずつ 〜「書く」ことで人は癒される』(パンローリング、2013年)(★1)です。「私の講座の生徒がものを書くことやもっとうまく書くことを学びたいと言うのなら、これまで私が自分の役に立ったと思うすべてを伝えられるし、私にとって毎日書くことが何を意味するのかをお話できる。これまでに出版された素晴らしい小説作法本には書かれていそうにない、小さなヒントを教えることもできる」(30ページ)とあります。随所に著者の体験や感情が織り込まれ、書くことに関わる著者の極めて個人的な記述に溢れています。著者の紆余曲折?の人生が、かなりの迫力で迫ってくるので、最初は、ちょっと引いてしまいました(★2)。

 ところが、読み終わってからしばらく経つと、「確かにそうだよね」と思い出す箇所が多く、読み直したくなるのです。例えば、推敲の段階で、削除することについて、以下のような文が出てきます。

 「あなたは目を上げて窓の外をもう一度眺める。そして、机の上を指でとんとん叩き始める。そうだ、最初の三ページ分はもうどうもいい。ボツにしてしまおう。

 その三ページは、この四ページ目にたどりつくために書く必要があったのだ」(←この行はゴシックになっています)(47ページ)

 「六ページ目の最後の段落の最後の行に、あなたが満足できる何かが発見できるかもしれない」「そして、その前の五ページ半を書かなければ、その何かを見つけることは絶対になかった」(65ページ)。

→ 書いても、書いても、削除することが多いと、せっかく書いたことは何だったのだろうと、暗い気持ちになることがあります。しかし、上のような文を読むと、「削除する」ことの価値が伝わってくるので、ほっとするのです。

 「削除すること」は、推敲や修正の過程でできることとして、他のライティング関係の本でも、多々言及されています。「削除すること」以外でも、この本で語られているアドバイスの中には、「アドバイスの要点」自体は、それほど目新しくないものも、少なからず、登場します。

 例えば、「ヘタクソな第一稿」という題名のセクションがあります。お粗末な第一稿があるからこそ、「まあまあな第二稿も、傑作といえる第三稿も生まれるというもの」(63ページ)ということで、最初から完璧な原稿を書こうとするのではなくて、まずは書き散らすことが勧められています。

→  この本の特徴は、著者独自の体験とセットとなっているところです。「私の場合ーーフードライターだった時の話」(65ページ〜)というセクションで、著者の「もがき」が記されます。著者が、覚悟?を決めて、ヘタクソな第一稿に取り組み、そしてまあまあの第二稿への移る過程が詳しく語られます。以下、一部、抜粋します。

「けれど、この仕事を何年続けても、毎回、必ずパニックに襲われた。だって見出しのあとのリード文を書いてみても、ゾッとするほどへたくそな文章が一つ二つできるだけなんだもの。消しては書き直し、また失敗し、また全部消しているうち、絶望と不安が頭をもたげ、そのうちレントゲン検査用の防護エプロンみたいに胸の辺りまで覆いはじめる。

 私は観念して、もうダメだと思う。今度こそ立ち直れない。もう書けない。ダメになったんだ。一巻の終わり。昔やっていたタイピストの仕事に戻らなきゃだめかもしれない。いや、それすらもおそらく無理だ」(66ページ)

(→ こんな感じで、著者の「もがき」がしばらく続いた後に、以下のような文が登場します。)

「そこから出てくる答えは必ず、どうしようもなくヘタクソな第一稿を書くほかないというもの。例えば、さあ最初の段落を書くのよ、といった答え。そして、どうせ誰の目にも触れないんだからいいのよって励まされる。

 そこからは、自分を抑える手綱をゆるめて書きはじめる。自分がタイプライターになったみたいに、指の動くままに任せる。

 それでもやっぱり書き上がったものはひどい。」(66-67ページ)。

(→ いかにヘタクソなのかが、しばらく描写されて、ようやく以下の文が登場します。)

 「それでも、次の日にはまた机に向かい、カラーペンを片手に昨日の原稿を読み直し、削れる部分をばっさり削り、ニページ目あたりにリードに使える文章が潜んでいるのを発見し、おしゃれな結論になるよう頭を働かせ、その結果、第二稿ができあがる」(68ページ)

 「誰かに原稿を読んでもらう」というアドバイスについても、「誰かに原稿を読んでもらう」というセクション(241-254ページ)は、「まわりの人から正直な感想をもらおう」「私の原稿を読んでくれる人たち」「読んでくれる相手を見つける方法」「ひどいことを言うヤツには…」という構成になっています。誰かに原稿を読んでもらうこと自体に新しさはないかもしれませんが、ここも、著者の体験がしっかり織り込まれます。

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 この本を読みつつ、最初は苦手意識を持った彼女の人生の様々な記述ですが、「自分の経験を吟味して伝える」ことが、彼女のスタイルだと、だんだん納得してきました。それは、彼女にとっては、書くことと生きることが切り離せないからだろうとも思います。邦題には、「『書く』ことで人は癒される」という副題がついていますが、英語の原題は、Bird by Bird: Some Instructions on Writing and Life (Anne Lamott, 1995, Knopf Doubleday Publishing Group)★3で、直訳すると、「鳥1匹ずつ〜書くことと生きることについてのいくつかのインストラクション」という感じです。「鳥を1匹ずつ」という表現は、3ヶ月前に鳥のことを調べる宿題が出ていたにもかかわらず、提出日の前日になってもまだできていなくて、半ベソをかいていた、当時10歳のお兄さんのエピソードに由来しているようです。お父さんが、お兄さんに次のように言っています。

「ひとつずつ、ひとつずつ片づけていくんだよ。最初から、一羽ずつね」(←このセリフはゴシックになっています)(60ページ)。

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 ラモット氏の本で、もう1冊、邦訳が出ています。『赤ちゃん使用説明書』(白水社, 1996年)。この本は彼女の子育て記録です。『ひとつずつ、ひとつずつ 〜「書く」ことで人は癒される』によると、「見つかった育児本は申し分のない合理的な内容」だったものの、自分が直面している現実にはあまり助けにならなかったこと、また、子どもが生後八ヶ月で、親友が病気になり、親友を失うことについて真実を書いた面白い本があったらどれほど心強かったかと思ったことが、執筆のきっかけらしいです。自分と子どもと親友のため、また、この二人みたいな知り合いがいる人のために、二つの物語を一つの物語として書こうと思ったとのことです(273-274ページ)。

 また2017年には「人生と執筆から学んだ12の真実」というタイトルのTEDトークを行なっています。私が最初にらモット氏のことを知ったのは、このTEDトークからでした。彼女の本を読んだ後に、TEDトークを見直すと、自分に中にストンと落ちる部分が増えてくる感じです。 https://www.ted.com/talks/anne_lamott_12_truths_i_learned_from_life_and_writing?subtitle=ja

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★1 私が持っているのはKindle版で、ページ数もKindle版で表示されているものです。

★2 私が一番、引いてしまった箇所は「プロット・トリートメント」で、151ページから10ページにわたって描かれる著者の「もがき」の体験です。最終的には「今度はうまくいった。編集者が送ってくれた最後の前払金で、おばに借りたお金を返し、最終稿を書き上げるまでの生活費にした」(159ページ)、「そして本は次の秋に出版され、私の書いた小説としてはもっともたくさん売れた」(160ページ)となります。でも、その過程での編集者とのやりとりと深い絶望感、お酒、コカイン、軽い鬱等々は、壮絶です。

★3 英語版も、私が持っているのはKindle版でのこの本の25年記念版です。その中に以下の文章が出てきます。

"Bird by bird, buddy. Just take it bird by bird." (17ページ)

2024年12月11日水曜日

作者の力はわずか2~3割程度。読者が7割の力をもっている!

そう確信をもっているのは、小説家で最近『源氏物語』の現代訳を完成させた角田光代さん。

 

NHKラジオ 聴き逃し「まんまる 角田光代と源氏物語」

https://www.nhk.or.jp/radio/player/ondemand.html?p=GNWPP74MG4_03_4110881

の残り14.15~13.00分で聞くことができます。

20241218()午後0:55配信終了)

 

そのダイジェストは、以下のような内容です。

「作者の力は、あまり関係ない。本は売れたり、売れなかったり、5年後に残ったり、残らなかったりする。作者がどれだけ一生懸命に書いても、その書物に、作者は2~3割しか関われない。残りは、受け取る側の読み手が、どうやって読むか、どう読み解くか、そして、面白いもの読んだよと読み継いでいくか。読み手の力の方がはるかに大きい!」

2024年12月6日金曜日

読む力をつけること と 一人ひとりの生徒のアイデンティティー

 あなたは、生徒たちに読む力をつけていますか?

 「読む力」って、いったい、どういう力でしょうか?★

 教科書教材を順番に扱っていけば、読む力は自然に着くのでしょうか?★★

 どうも、「そうではない」ということで生まれたのがリーディング・ワークショップ=読書家の時間でした。

 

 読む力をつける(「自立した読み手」になる)際に、何よりも大切なのは、「自分にピッタリの本や読み物を選べる能力」のようです。これがないと、学校を卒業してからも、読み続けることは、ほぼありませんから。もちろん、自分が気にいる本や読み物ばかりを読んでいて、読む力がつくのかという疑問が湧くことでしょう。そこで、自分のピッタリの本や読み物に出会うために、いろいろなテーマや作家やジャンルの本を試したり、それらに関する情報を集めたり、人に聞いたりする方法を身につけることも極めて大事です。自分一人だけでは、なかなか輪が広がりませんから。内容理解も深まりませんし。★★★

 ちなみに、これを選書能力と言いますが、国語教育で選書能力は扱っていません。おそらく、生涯にわたって読み続ける際に最も大切な能力かもしれません。

 

 選書能力のコアの部分は生徒一人ひとりの興味関心やこだわり=アイデンティティー(自分自身の特性や個性、あるいは自分の存在を確認する特徴的な性質)ということになろうかと思います。それが、自分と手に取る本や読む物とのピッタリ度に一番影響を与える要因でしょうから。

 そういうこととは一切関係なく、どこかの誰かが「いい」と判断したものが厳選(?)されて並んでいるのが教科書です。そして、自分の興味関心やこだわり=アイデンティティーとは関係なく読まされるのが国語の授業です。そんな状態で、身につく学びや、読む力が鍛えられることは期待できるでしょうか?

 

 そこで、リーディング・ワークショップ/読書家の時間で、まず最初にすることは、生徒一人ひとりの興味関心やこだわり=アイデンティティーを、教師が知ることです。これには、アンケートを使う場合が多いです。

 ひょっとしたら、リーディング・ワークショップを始めた人★★★★で、かつ一番長く取り組んでいたと思われる人のアンケート用紙が、『イン・ザ・ミドル』という本の123ページに掲載されていますので、ぜひご覧ください。(無料で見られるものとしては、作家の時間/読書家の時間のホームページ(何の予告もなく、Googleが閉鎖してしまいました!)に掲載されていたhttps://docs.google.com/document/d/1blBfsUIYT1RZBlLMsSOgasDuj5Ztp1PY/edit と

https://choiceliteracy.com/wp-content/uploads/2022/07/identity-survey_barnett-mills.pdf (翻訳ソフトで訳してください)があります。参考にしてください。

 

 リーディング・ワークショップ/読書家の時間を実践している人たちは、これらの情報を、読む授業をする際のもっとも大切な情報と位置づけています。国語の教科書ではありません! これらのアンケート(ないし場合によってはインタビュー)で得られる情報こそが、自分がする授業と生徒たちとの接点だと考えています。

 ちなみに、ライティング・ワークショップ/作家の時間でも、同じようなアンケートが鍵を握ります。そして、同じようなアンケートが他の教科でも。ぜひ、教科書中心の授業から、生徒中心の授業へ早く移行してください(教科書は、後者を助ける教材の一つであって、それを中心にしたままでは、いつまでたっても多くの生徒にはよく学べないまま、残らないまま、身につかないまま、教師は授業をした錯覚におちいったままが続いてしまいます)!


★そもそも、「読む力」とは何かを考えたことありましたか?

 ぜひ、これは探究していただきたいです。

 これを押さえたうえでないと、私のように12年間学校で国語を学んでも、読む力が全くつかないということが起こってしまいます。単に、国語の時間、教室のなかでおとなしく座っていた(実は、半分ぐらいは廊下に立たされていた!)記憶しか残っていないような残念なことが。12人の先生たちは、いろいろな教材を熱心に教えてくれていたのだと思いますが・・・私にとって、意味のあると思えたものはありませんでしたから、記憶に全く残っていませんし、読む力に役立っていたとも思えません。(ということは、あれだけたくさん過ごした国語の時間は、いったい何だったのでしょうか? 教師が給料を得るための奉仕活動? 教室/学校以外のところで悪さをしないための保育活動?)

★★全員の生徒が、同じ教材(たとえば、「ちいちゃんのかげおくり」や「スイミー」など)を扱えば、読む力はつくのでしょうか? いったい、どんな力をつけたいから、それらの教材を扱っているのでしょうか?

 「ちいちゃんのかげおりく」を扱わなければいけない際に、他の戦争と平和をテーマにした本(たとえば、『せんそうしない』『へいわとせんそう』『なぜ戦争はよくないか』『せかいでいちばんつよい国』『かわいそうなぞう』『ヒロシマ消えたかぞく』『へいわってどんなこと?』『ぼくがラーメンたべてるとき』など)の中から、(子ども一人ひとりが読み比べをして)自分の読みたい本を選んでじっくりと読んでもらい、気づいたことや感じたことを相互に紹介し合ったり(紹介の方法は多様な方が望ましい!)、同じ本を選んだ子たちとブッククラブをした方が、選書能力を踏まえた「読む力」を鍛える練習にならないでしょうか?

 同じことは、「スイミー」を扱う際にも言えます。レオ・レオニの他のたくさんの絵本のなかから選べるようにして、上記と同じことをした方が、選書能力を含めた「読む力」の練習になると思われませんか? 

★★★私たちは、そこに書いてあることを読むのではなく、その時点で自分が読みたいことや読めることしか読めません! 残りは、すべて通過してしまいます。従って、時と場所を違えたり、刺激を与えてくれる誰かと読んだりすると、読めるものも違ってきます。一人の人間ですら、そうですから、一斉授業で一つの教材を扱うというのは(しかも、それなりの解釈というか理解に向かって集約されるような国語の授業は)、いったいどういう意味があるのでしょうか?

★★★★ナンシー・アトウェルさんは、ライティング・ワークショップも一番最初から実践していた人です。ライティング・ワークショップが効果的なので、それを読むことに応用してリーディング・ワークショップもスタートさせました。かれこれ、40年前のことです。その40年弱の彼女の実践が詰まった本がIn the Middleの第3版を訳した『イン・ザ・ミドル』です。