小学校の4年生の時、養護教諭の先生が、水戸サツヱさんの『幸島のサル』(実業之日本社、1971年:鉱脈社、1996年)という本を紹介してくれました。宮崎県の幸島という島で群れをつくっていたサルたちの観察記録です。刊行当時話題になった本だったことは後で知りましたが、サルに興味をもっていたわけでもないのに、この本を繰り返し読んだ記憶があります。サルのことをほとんど知らない私でしたが、自分の生んだ子ザルが亡くなったのに、その死骸をいつまでも抱えているメスのサルの姿や、群れの外側に追いやられる若いサルたちが、餌として砂浜にまかれたモミを海水で洗って食べたり(「砂金採取法」と名付けられていました)、やはり芋を海水で洗って塩味をつけたりしたりするところを、印象深く覚えています。
サルについて自分が知っていたことはほとんどありませんでした。母ザルの子ザルへの愛情や、餌を食べやすくする工夫をする若いサルたちの知恵を、ほんとうにあったことなのかと思いながら、読んでいました。そのあたりは繰り返し読んだので記憶に残っているのだとも思います。なぜ繰り返し読んだのか。自分と自分を取り巻く世界の何かと似ていると思ったからです。きっとこの本を書いた水戸さんが、観察したサルたちを自分と変わらない存在と考えていたからなのだと思います。200ページほどの長い本を読み通したのははじめてのことでしたが、それができたのは、少なくとも水戸さんが、自分の身内や友としてサルたちのことを捉え、描いて、私に伝えようとしてくれたからだと思います。「上から目線」で教えようとするのではなく、私の知らない世界として描き出して連れ込んでくれたからだと思います。
エリンさんは、ノンフィクションの読み書きについて、次のように書いています。
「教師自らが読んだり書いたりししたことから得た発見を活用することで、指導要領や教科書などに書かれてあることをはるかに超えた意味のある読み・書きの体験と学びの旅に、子どもたちを連れ出すことができるようになります。本書において、私はこれまでの経験と観察をもとにして、さまざまな理解の種類とその成果を定義し、説明してきましたが、それはけっして完璧なリストではありません。私の心からの願いは、読者がこの本を読んで、学校の内外での自分自身の知的探究を通して、自らのさまざまな理解の種類とその成果をつくり出していただくことです。私は、教師が子どもたちといっしょになって、人が理解するときに実際に何が起きるのか、話し合ってほしいと思います」(『理解するってどういうこと?』282ページ)
『幸島のサル』もノンフィクションですが、書き手の水戸さんが幸島のサルたちの生態に深く耳をすまし、サルたちの行動をわかろうとしてもがいた成果として生まれた「発見」が書かれています。だからこそ、それを読む私はそこに描かれたサルたちと頭のなかで友だちになっていたのかもしれません。子ども心に、幸島のサルたちのことが「自分事」になっていたのです。だから記憶に残ったのでしょう。
このような私の『幸島のサル』体験を説明してくれる言葉が、小鷹昌明さんの『非読書家のための読書論』(幻冬舎、2021年)のなかに書かれていました。小鷹さん自身がもともと読書家だったわけではないのですが、高校時代に友人から城山三郎さんの『素直な戦士たち』という本を貸してもらって読んだ時の経験が書かれています。
「受験を抱えた一家を描いた物語で、教育熱心な母親に育てられた長男がノイローゼになっていくような話でした。借りた手前もありましたが、意外にも、これを私は、受験シーズン真っただなかに読み、当時の日本の加熱する受験戦争に対してとても不快な気分になる一方で、自分事として読むことができました。(中略)だからと言って、これを契機に読書好きになったというわけではけっしてありませんでした。「本というものは、自分事として捉えられれば、ある程度読めるのだ」という気持ちが、少し芽生えただけでした。(『非読書家のための読書論』36ページ)
控えめに書かれてはいますが、「本というものは、自分事として捉えられれば、ある程度読めるのだ」という発見はとても大きなものだったのではないかと思います。
「面白くない本というものは、その本がよくない本だからというわけではけっしてなく、多くの場合、いまの自分に必要ないから興味が持てないのです。読書感想文の指定図書も、幅広いジャンルのなかから、まずは生徒自身で選ばせるというところからはじめれば、少しは違うかもしれません。
そのときの選ぶコツは、物語の主人公と自分との間に、共通点や似ているところがある本を選ぶということです。自分の好きなことや趣味をテーマにした本でもかまいません。」(『非読書家のための読書論』48ページ)
自分で「選ばせる」ということは、その本を読む行為が「自分事」になる、とても重要な行動です。「いまの自分」にとって必要なものを判断させることになるからです。「いまの自分」との共通点をもつものを選ぶという指摘も大切です。
また、「書くという運動能力を高めるには、読むという基礎体力作りから始めることが重要」と言う小鷹さんは「付箋を貼りながらの読書」の仕方をわかりやすく説明しています。
「書くことを前提にした読書において、付箋を貼る行動の目的はひとつ、「再アクセスを容易にする」ということです。ちょっと気になった表現、言い回しの鋭い文章、自分にとって新しい情報、普段使わないような言葉、なんでもいいのです。少しでも“己の琴線”に触れた箇所があれば、どんどん付箋を貼りながら読んでみてください。すごく、すごく簡単なことです。」(『非読書家のための読書論』71ページ)
「書くことを前提にした読書」はエッセイストならではの発想ですが、それは本を「自分事」にするためにも重要です。そのための付箋の使い方は、読書を能動的にしてくれますし、その本のどこが自分にとって大切なのか考える契機をもたらしてくれます。エリンさんも「小説やエッセイなどを読むのを中断して、それまで自分がもっていた考えや価値観を転換してくれたことについて書き出すとき、そういう中断なしに読んでしまう場合よりもずっと深いレベルの理解に入っていくのです」(『理解するってどういうこと?』282ページ)と言っています。「中断」(小鷹さんの「付箋を貼ること」もその一つだと考えます)することによって、今読んでいる自分にとって大切な箇所に幾度も繰り返しアクセスすることがその本を「自分事」にしてくれるのです。思い返してみると、小学生の私も、書くことや付箋を貼ることこそしませんでしたが、『幸島のサル』の自分にとって大事な箇所に何度もアクセスして考えていました。あの本を読みながら、実は自分の内部の何かを読み直していたのかもしれません。
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