2023年2月3日金曜日

いわゆる(古典的?)文学作品とリーディング・ワークショップ  ~与えられる正解 vs 開かれた対話

 今日の投稿では、長年読み継がれてきた、いかにも教師が生徒に読んでほしいと思っているような文学作品をリーディング・ワークショップで取り上げることの価値と、どのように取り上げるかということについて書きます。

 文学専攻でもなく、文学について学んだ経験もない私は、文学と言われると、「自分には論じる資格も知識もない」と考えてしまい、その本についてアウトプットすることに萎縮してしまうことすらあります。そもそも「文学作品」の定義すらよくわかっていません。少し前にノーベル文学賞も受賞している作家ウィリアム・ゴールディングの「不朽の名作」という『蠅の王』(平井正穂翻訳、新潮社の30刷改版、1975年)を読みました。この時は、訳者の平井氏の解説を読み、「うわっ、この一つの名詞からここまで読み取るのか」と驚き、その差にほとんど打ちのめされ?、これは自分一人ではできない理解だとつくづく思いました。

 教師がもし、こういう作品について、背景知識や解釈を丁寧に説明するとどうなるでしょうか。自分が読みたいとも思わない本について、教師が伝えたい知識や解釈が一方的に「たくさん」語られると、「正解」を聞くだけになって退屈するかもしれません。あるいは、上記の私のように、感心して(打ちのめされて?)終わるかもしれません。

 『イン・ザ・ミドル』(アトウェル、三省堂、2018年)の著者のアトウェル氏は、文学が大好きな教師です。そして、教師になってしばらくの間は、生徒たちに「国語教師好みの文学作品を押しつけ」て、生徒たちは「私が選んだ文学作品の私が考えた解釈を、ただ受動的に受け取るだけ」でした(『イン・ザ・ミドル』43ページ)。

 ところが、リーディング・ワークショップを始めたアトウェル氏の教室は大きく変わります。『イン・ザ・ミドル』で描かれる教室の中で目にする本の幅というかジャンルの広さは、長い間ずっと気になっていました。

 『イン・ザ・ミドル』で登場する中学生たちは、比較的最近のヤングアダルト文学、例えば『ぼくとあいつと瀕死の彼女』(ジェス アンドルーズ、金原 瑞人訳、ポプラ社、2017年)や『さよならを待つふたりのために』ジョン・グリーン、金原 瑞人、竹内 茜訳、岩波書店、2013年)、またNASA技術者の自伝『ロケットボーイズ』(ホーマー・ヒッカム・ジュニア、武者圭子訳、草思社、2016年)など、いわゆる古典ではない本を、幅広いジャンルで、数多く読んでいます。

 同時に、読書記録や教師とのやりとりなどから、『蠅の王』『侍女の物語』(マーガレット・アトウッド、斎藤英治訳、早川書房、2001年)、『夜』(新版)(エリ・ヴィーゼル、村上光彦訳、みすず書房、2010年)のような、長年読み継がれてきた本の題名も散見されます。何を読むのかは生徒たちが自由に選べますし、合わない本は読むのをやめてもいいのにもかかわらず、です。「一定期間読み継がれてきた有名な作品」に対して、私が自分に対して勝手に作り出してしまうような苦手意識や高いハードルを感じることなく、アトウェルの教室の中学生たちは、読む本の選択肢のひとつとして、時には、楽しんでいるようです。

 このような作品に対して、リーディング・ワークショップを始める前と始めた後では、生徒の出会い方が大きく変わっています。

 ワークショップを始める前は「押し付けられたものの受動的な受け取り」です。

 リーディング・ワークショップを始めたあとは、(どの本でもそうですが)ある作品が大好きな教師(あるいは生徒)が、大好きな点やお薦めの理由をごくごく短時間のブックトークで語る、あるいは、ミニ・レッスンで短時間、一緒に探求や対話をする。時にはカンファランスやチェック・インで個別にその作品について、その生徒が必要としている知識をごく短く提供する。

 つまり、教師が提供する情報量がまず大幅に減っています。提供される情報も、「その時のクラスの大部分が必要とするもの」あるいは「個別カンファランスなどで、ある特定の生徒がその時点で必要なもの」に厳選されます。また、何よりも、教師が正解を押し付ける、閉じた会話や正解探しではなく、一緒に探求する余地があります。

 私が『蠅の王』の解説で得た知見に近いものが、もし、もし、ミニ・レッスンでの対話で、あるいは教師からの問いかけの中で導き出されれば、それはとても嬉しい時間ではないかと思います。その余地があるのがリーディン・ワークショップのように思います。

 こういう形で、長く読み継がれている文学作品に出合い、それらが自分の読書生活の一部になることの価値は大きいと思います。もちろん、対象学年にもよると思いますが、リーディング・ワークショップで紹介されない限り、出合う可能性が低い本たちかもしれないからです。

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(おまけ)

 私自身、『イン・ザ・ミドル』がきっかけで、『蠅の王』『侍女の物語』『夜』などを読みました。カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』(土屋政雄訳、早川書房、2008年)も『イン・ザ・ミドル』で読んでいる生徒がいたので興味を持ち、読みました。

 その結果は、『蠅の王』のあとは同じ著者の『通過儀礼』を読み、でもこれはちょっと私には難しかったです。『侍女の物語』の続編という『誓願』では、久しぶりに、読書で電車を乗り越し、同じ著者の本を、そのあと、数冊読みました。カズオ・イシグロも、『わたしを離さないで』に続けて『クララとお日さま』を読み、「時々読んでみたい作家」の一人となりました。

 最近、読んでいる途中から「なんだかとんでもないすごい本と出合ったかも」と思い始め、読了した本があります。『ストーナー』(ジョン・ウィリアムズ、東江一紀訳、作品社, 2014年)です。これも「最近の本」ではなく、最初に刊行されたのは半世紀前とのことです。(ただ、この本が注目を集めたのは比較的最近のようです。)

 読書を食事に例えると、いろいろな食感や印象の本があります。いわゆる(古典的)文学作品を食べなくても、十分栄養は摂れるかもしれませんが、長年読み継がれている本の味を知ることも、私は今頃になって、いいなあと思っています。


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