小川哲さんの『ゲームの王国』(ハヤカワ文庫, 2019年:早川書房から2017年に刊行された単行本の文庫化)の上巻を読み終えて、下巻を読み始めたとき、きっとこの小説の下巻は面白くなる、一気に読み終えることができるかもしれないという予感がありました。もちろん、上下巻ともに400ページ超。上巻を読むのには骨が折れて一週間かかりました。にもかかわらず下巻はわずか半日で読み終えることができたのです。しかも、時間を忘れて。
なぜこのようなことが起きてしまうのかということが謎でした。
電車の待ち時間で入った書店で平積みになっていた、新井久幸『書きたい人のためのミステリ入門』(新潮選書、2020年)という本を手に取りました。「小説新潮」の編集長をなさっていた人の手によるミステリの「作家の技」についての本。冒頭に「読むと書くとは表裏一体。書き手が特に意識したり、苦労したりするポイントを知れば、読書は飛躍的に楽しくなる」(『書きたい人のためのミステリ入門』5ページ)とありました。「読むと書くとは表裏一体」というフレーズに魅力を覚え、購入して電車のなかで読み始めました。
もちろん、ミステリを書くつもりでこの本を手にしたわけではありません。ミステリを書かない、いやそもそも小説を書かない人にとっても、意味づけのための発見法をもたらしてくれる本らしいので、読み手として意味をつくり出すためのきっかけを与えてくれるだろうし、『ゲームの王国』を読むなかで抱いたささやかな「謎」についても何かを教えてくれるのではないかという予感がありました。
新井さんは次のように言っています。
普段の読書の際、「自分だったらこの謎をどう処理するか」と考えてみるのは大事な訓練だ。もっと面白くする方法を思い付いたら、アレンジを加えれば、いつか使える時がくるかもしれない。そうでなくとも、どこが面白くて、どうして物足りないと感じたのか分析することは、作品作りに大いに役立つ。/これは書き手だけでなく、編集者に代表されるような読み手にも言える。(『書きたい人のためのミステリ入門』38ページ)
『書きたい人のためのミステリ入門』は、さすがにベテランの編集者の手によるものであるだけに、夥しい数のミステリのじつに的確な道案内になっていて、この本とカゴを手にして図書館や書店の書棚をチェックしてまわりたくなるような思いに駆られます。そのところは我慢しながら読み進めると、終わり近くに次のような一節がありました。
およそどんな小説にも、大なり小なり「謎」の要素がある。殺人事件ではなくとも、「あの人はなぜあんなことを言うんだろう」とか「彼女はどうして、他でもないあの男が好きなんだろう」とか、物語を牽引する力は、「なぜ」「どうして」であることが多い。その答えを知りたいと思う気持ちが、ページをめくらせるのだ。/また、物語を盛り上げるには、クライマックスに何らかのカタルシスがあった方が良い。バラバラに思えていたエピソードが呼応して、「そうだったのか!」と組み上がった時の快感はひとしおだ。驚きや発見と一緒になることで、感情や感動は幾重にも増幅する。/これらはすべて、ミステリでは絶対的に必要とされるものだ。物語を貫く大きく明確な謎と、ラストでの伏線の回収の論理的な解決。ミステリを書き切るには、最後にすべての辻褄を合わせる、高い抽象論理構築能力が要求される。(『書きたい人のためのミステリ入門』, 210~211ページ)
なるほどわたくしは『ゲームの王国』の下巻に入ったところで「「そうだったのか!」と組み上がった時の快感」を覚えていたのです。そして、下巻を読み進めながら、幾度もこのような「快感」を覚え続けたわけでした。
「読むと書くとは表裏一体」として、新井さんがミステリについて述べたことは、『理解するってどういうこと?』のなかでエリンさんが「家屋建築」の比喩を使って「作品構造」や「作家の技」を知ることに触れた次の一節と重なって見えます。
実際に自分が読んでいる作品の構造を「見る」ことはできませんが、構造はその本の輪郭をかたちづくっていきます。優れた読者たちは、作品を読み進むにしたがってその構造を感じ取り、そうして得た感覚をもとに効果的な予測を立てることができます。再び家屋建築の例を使って言うなら、ダイニングルームから別の部屋へと歩いている人がいたとすれば、典型的な家のレイアウトからすると、その向かう先は寝室よりもキッチンである確立が高いでしょう。フィクションでは、登場人物や舞台設定について書いてあることから、当然その後には何らかの対立や衝突があらわれるだろうと予測することができます。読者がその作品構造を「見る」ことはありませんが、それを感じることはできます。「聞く」と言えるかもしれません。作品構造の指導とは、この見えないものを見えるようにして、読者がその文章自体の内容と構造をツールとして、理解を深め、自らの思考を変更し、これまで持っていた知識や考えや感じたことを修正するために使うことができるようにすることです。(『理解するってどういうこと?』261~263ページ)
もしかすると私は『ゲームの王国』の「作品構造」と小川さんの「作家の技」を「見る」「聞く」ことが可能になり、そのことで書き手への信をこしらえて、「見えないものを見えるようにして」彼の小説を読み進め、この小説の後半に没頭することになるかもしれないという予感をつくってしまったのかもしれません。『ゲームの王国』上巻では書き手の立場から読む読み手にはとてもなれずにもがいていたわたくしが、下巻に入ったところで、おそらく書き手の立場から読む読み手(authorial readerというのでしょうか?)になり、作品構造を感じ、「聞く」ことができ、それを「ツール」にして読み進めることができるようになったのではないかと思われます。
ちなみに、小川哲さん自身による『ゲームの王国』「あとがき」には、次のようなことが書かれていて、読み手として励まされました。
本書の節々に、まだアマチュアだった僕が、暗闇の中で何かを見つけようと格闘した痕跡が残っていました。そしてその格闘は、登場人物たちや物語の力を借り、時として僕の実力を超えた次元に到達していました。そういった意味で、本書にはかけがえのない価値があります。一人の人間が、その瞬間にしか想像しえない物語を、その瞬間を逃せば二度と語られることがないであろう物語を、全身全霊を尽くして書き残すこと。世界のどこかに現れた一瞬の光を紙に焼きつけて、永遠に保存すること。小説における一番の奇跡とは、そういうものだと思っています。(『ゲームの王国』下, 422ページ)
「読むと書くとは表裏一体」という新井さんの言葉を裏づける一節でもあります。小川さんの言う「格闘」は、最後まで読み終えた一人の読み手であるわたくしのものでもあったと思うからです。「世界のどこかに現れた一瞬の光」をわたくしも内面に刻むことができたと思えたからです。
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