2021年5月21日金曜日

わかろうとする愛について

 『理解するってどういうこと?』の第9章に、「共感する」という理解の種類についてのエリンさんと黒人の子どもたちとの会話があります。白人の学校に初めて通ったルビーという黒人の女の子のことを描いた『ルビー・ブリッジスの物語』をめぐって、子どもの一人デヴォンテとのエリンさんのやりとりの一部です。

 

「ルビーがただ黒人だというだけで、彼女の周りの人たちは彼女を嫌っていたと僕は思うよ。」

待てと、私は自分に言い聞かせました。自分がいま話してはならないのです。

「ルビーにとっては、僕は未来に生きてるんだけど、僕のお兄さんのようなよく知っている誰かは、ルビーの感じたことがわかるって思う。白人たちがルビーのことを嫌っているみたいなことね、時々黒人はまだ、うーん、よくわかんないけど、白人がね僕たちのような人みんなを、好きかどうか、うーん、ほんとに好きかどうか? 先生は?」

私にはわかりません。わかりっこないのです。一人の白人として、私にはぜったいにわかりません。私は心が張り裂けそうなのですが、これは私には理解不能な領域の共感なのです。私が共感したいと思ってみても、彼らが何を感じているのかと想像しようと努力してみても、レイモンドやデヴォンテやサマンサと同じように深く理解することはけっしてできないのです。(『理解するってどういうこと?』334335ページ)

 

 「共感」はエリンさんが明らかにした理解の種類の一つですが、ここで彼女は「理解不能な領域の共感」があると言っています。とても大切なことです。わかるとはどういうことかを知るための、共通の言葉の一つが「共感」なのですが、それをもってしても「理解不能な領域」があることをわかることを、ここでのエリンさんは言っていると思われます。「わかる」とは何かがわかるために重要な認識が示されています。

 鷲田清一さんの『わかりやすいはわかりにくい?――臨床哲学講座』(ちくま新書8322010年)の次のような一節と共通しています。

 

 言葉というのは不思議なもので、交わせば交わすほどたがいの違いが際立ってくる。たがいに理解しあうということ、相手のことがわかるということは、相手と同じ気持ちになることだと思っているひとが多い。しかしそれは理解ではなく合唱みたいなものであって、同じものを見ていても感じることがこんなにも違うのかというふうに、違いを思い知らされることが、ほんとうの意味での理解ではないかと思う。(『わかりやすいはわかりにくい?』127から128ページ)

 

 エリンさんは、デヴォンテと「同じ気持ちにはなる」ことはできないと言っています。「合唱」のようにして「わかるよ」などとけっして言えないことを自覚しています。自分との「違いを思い知らされる」という経験をしているのです。

 鷲田さんは上に引用した少し後の箇所で、次のように言っています。

 

 こうして一つ、たしかなことが見えてくる。他者の理解とは、他者と一つの考えを共有する、あるいは他者と同じ気持ちになることではないということだ。むしろ、苦しい問題が発生しているまさにその場所にともに居合わせ、そこから逃げないということだ。

 こういう交わりにおいて、言葉を果てしなく交わすなかで、同じ気持ちになるどころか、逆に両者の差異がさまざまの微細な点で際立ってくる。「ああ、このひとはこういうときこんなふうに感じ、こんなふうに惑うのか」と、細部において、ますます自分との違いを思い知ることになる、それが他者を理解するということなのである。そして差異を思い知らされつつ、それでも相手をもっと理解しようとしてその場に居つづけること、そこにはじめてほんとうのコミュニケーションが生まれるのではないかと思う。このことはもっと大きな社会的次元においても、つまり現代社会の多文化化のなかで起こるさまざまな葛藤や衝突のなかでも、同じように言えるはずだ。(『わかりやすいはわかりにくい?』130ページ)

 

 エリンさんはデヴォンテたちの言葉が出てくるまで待っていました。「待つことに耐えさえすれば、待ってがっかりされたことはないのです」と思いながら。鷲田さんの言葉を借りれば「相手をもっと理解しようとしてその場に居つづけ」たのです。「その場にともに居合わせ、そこから逃げない」でいたからこそ、デヴォンテにこう言うことができたのです。

 

「デヴォンテ、私にはわかりっこないのよ、完全に共感することはできないの」と彼に言いました。「でも、どれほどあなたがたが共感したのかということは、この心で感じることができるの。」(『理解するってどういうこと?』355ページ)

 

 「理解する」ということは、その場に居続け、待ちながら、その人たちと自分との「違いを思い知る」ことであり、そのことを受けとめてもなお、もっと相手の考えを心で感じるためにその場に居続けようとすることだと、二人の言葉は教えてくれます。安易に「わかるよ」「わかった」と言うよりも、そうした「わかろうとする愛」こそ私たちには必要だと伝えているのです。

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