2020年8月22日土曜日

わかることはかわることなのだ

 

   エリンさんは『理解するってどういうこと?』を次のように結んでいます。

 

私たちが子どもたちに根気よく問いかけをし、彼らが答えてくれることに信頼を寄せてさえしれば、より深い、表面のレベルを超える考えがいつもあるのです。そしてジャミカ、理解しようとするあなたを支えることは、私たち大人たちがあなたの果てしない知性を信じて、あなたが世界に対してしっかりと考えて手に入れたすばらしい発見を共有しようとすることなのです。ジャミカ、あなたが理解するのを手助けするために、私たちは問いかけるだけでなくて、しっかり聞くことを約束します。(『理解するってどういうこと?』 358ページ)

 

『理解するってどういうこと?』は小学校2年生のジャミカという女の子の「でも、あなたがたの誰も、わかるってどういうことか教えてくれたことはなかったわ」という言葉に応答するために書かれた本でした。ですが、「わかる」とはかくかくしかじかのことだ、というふうにエリンさんは答えてはいません。むしろ「理解しようとするあなたを支える」ために大人である自分たちに何ができるのか、ということを突き詰めた言葉が上に引用したことがであると思います。「理解するのを手助け」するためには、「問いかける」ばかりでなく「しっかり聞くこと」がどれほど大切なのかというメッセージが伝わります。

 このくだりを読むたびに、私はエリンさんの言葉に頷きながら、「しっかり聞くこと」をともすれば忘れがちになる自らを反省してしまうのです。子どもに対してだけではなく、身の回りのすべての人の言動に接するときの自分をです。どうすれば「しっかり聞くこと」ができるのか。「しっかり聞くこと」がどのような「わかる」の姿をきりひらいていくのか。

 「オンライン」にも慣れてきた日常のなかで、久しぶりに大きめの本屋を訪れたところ、若松英輔さんの『14歳の教室 どう読みどう生きるか』(NHK出版、2020)に出会いました。筑波大学附属中学校の生徒さんたちを前にした話をまとめたものだそうです。若松さんの本はこのブログでも取り上げたことのある『種まく人』(亜紀書房)をはじめ、何冊か読んだことがあります。いろいろな本のなかに隠された知恵を、心に届く言葉で私たちに伝えてくれる文章につい引き込まれてしまうのです。「どう読みどう生きるか」という副題には読書家・若松さんの生き方そのものが凝縮されていると思います。たとえば、池田晶子『14歳からの哲学 考えるための教科書』を引きながら、若松さんは次のように書いています。

 

 分かったと思い込んでしまうことは、その人の分かるちからをどんどん小さくしていくんです。

 「分かる」という言葉を考えるうえで大事なのは、分からなかったことが、次第にわかってくるということです。それを頭ではなく身体で体感していくことです。この人の話していることは分からない。分からないけど何かがある。こういった感覚こそが、人間を豊かにする、と池田さんはいうのです。(『14歳の教室』22~23ページ)

 

若松さんは『14歳からの哲学』の要約をしているわけではありません。池田さんの文章を繰り返し引用しながら、池田さんの文章のなかに彼が見つけた大切なかけらを種子にして、「分かる」とはどういうことなのかを彼自身の言葉としてひらいていくのです。池田さんの文章とやりとりしながら、若松さんの言葉としてそれを紡ぎなおしていると言っていい。その紡ぎなおしのなかで、次のようなはっとさせられる言葉がうまれます。

 

 少し意地悪く聞こえるかもしれませんが、何かが本当に「わかる」ということは、その人が深いところで「変わる」ということです。むしろ、「変わって」いないのであれば、「分かって」いるのではなく「分かったつもり」でいるだけなのかもしれません。(『14歳の教室』59ページ)

 

 意地悪いどころか、とても手厳しい言葉であると思います。読む自分を振り返らざるを得ません。その本について、表面のレベルでしかとらえていないのであれば、それはいつまでも「分かったつもり」でしかないというのですから。どれほどの「分かったつもり」を自分が重ねているか、思わざるをえないのです。「読解」と言おうが「読書」と言おうが、読む自分が「変わって」いなければ、それは「分かったつもり」でいるだけなのですから。わかることはかわることなのだと、言葉遊びのように心に刻みたくなる部分です。

 田中美知太郎の『読書と思索』から出発して、若松さんは次のようなことも言っています。

 

 たとえば、皆さんがクラス全体で、あることを真剣に討議することになったとします。そしてそれがだんだんと深まって「対話」になっていったとします。

 そのときに皆さんは、人の発言だけに気を配っているだけでなく、何がいわれないのか、どんなことがいい得ないのかを感じながら、相手の言葉を受け、自分の言葉を発するのだと思います。皆さんにも、そういう経験があるかもしれませんが、大切なことほど、言葉になりにくいものだからです。

 会話が対話になるためには、相手のいわないこと、いわないで感じていることを、非言語的な「コトバ」として、みんなで感じ、支え合っていかなければなりません。

私たちは言葉として表されたものを額面通りに受け取ってしまいがちです。私たちが人と喧嘩するときや、相手とうまくいかないときというのは、その人の言葉しか聞いていないときです。

その人がいえないことを聞けなくなっているとき、私たちはその人のことを一方的に責めてしまう。あるいは自分が分かってもらえないと思って不満を募らせることもあるかもしれません。(『14歳の教室』151-152ページ)

 

「相手のいわないこと、いわないで感じていること」を「みんなで感じ、支え合」うことができたとき、理解がうまれるというのです。「しっかり聞く」の対象は「相手のいわないこと、いわないで感じていること」です。「問いかける」ばかりでは「その人がいえないこと」を聞くことができなくなってしまうのです。このくだりを読んで、エリンさんの言う「しっかり聞くこと」のもつ意味を掘り下げる手がかりを得た気がします。『理解するってどういうこと?』を読む私が少しだけですが「変わった」と言っていいのかもしれません。

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