2020年2月22日土曜日

作者は賭ける・読者は意味をつくり出す




 J.K.ローリングのハリー・ポッターシリーズの本も長い間よく読まれていますが、それ以前から多くの読者を獲得しているハイ・ファンタジーに『ゲド戦記』シリーズがあります。その最初の巻で、シリーズの中心人物ゲドの少年時代を描いた『影との戦い』(清水真砂子訳、岩波書店)は、中学校国語教科書にも一部が取り上げられたことがありました。作者のアーシュラ・ル=グウィンは20181月に亡くなるまで多彩で旺盛な執筆活動を続けました。私が最初に読んだル=グウィンの本は、両性具有の人々(ゲセン人)のいきるジェンダーのない、二元的な価値観の強くはない社会を描いた『闇の左手』(小尾芙紗訳、ハヤカワ文庫、1978年)でした。『影との戦い』もそうですが、『闇の左手』もまた、強烈なフィクションでありながら、いやフィクションであるからこそ、読者である私を取り巻く人間と社会の特徴を否が応でも意識せざるをえません。ゲセン人の社会を理解するためには、自分のいきる社会を一旦突き放さないといけなくなります。自分が当たり前と思っていたことをずいぶんと見直さなくては理解ができません。

 そのル=グウィンが晩年に「ブログ」を始めますが、そこで発表した文章などをまとめた本が『暇なんかないわ 大切なことを考えるのに忙しくて-ル=グウィンのエッセイ』(谷垣暁美訳、河出書房新社、20201月)です。何でも、ブログを始めるきっかけとなったのは、ポルトガルのノーベル賞作家のジョゼ・サラマーゴのブログだったとのこと。サラマーゴ『白の闇雨沢泰訳、NHK出版、2001年・・・20203月に河出文庫版が出るそうです!)』は私も感銘を受けた小説だったので、思わぬつながりにびっくりです。この本も、エリンさんの『理解するってどういうこと?』と同じように、わかること(理解すること)について大切なことが書かれています。

 たとえば、老年について私たちはどういうことがわかっているでしょう。



「記憶力が健全で思考が活発なら、年寄りの知恵は、驚くべき奥行きと幅を持つ理解力を含むものだろう。知識を集めることに以前より時間をかけることができ、比較や判断に習熟する時間もある。その知識は知的なものかもしれないし、実際的なもの、あるいは、感情にかかわるものであるかもしれない。(中略)/しかし、長生きによってもたらされるこのような生の豊かさは、瞬発力と持久力の減少という脅威にさらされている。知的な対処機構がいかにうまく埋め合わせをするにしても、身体のあちこちの部分の大小の故障が活動を制限し始める。その一方で、記憶力は過剰な負担や抜け落ちに苦しむ。これらの損傷や制限によって、老年における生は次第に衰え、縮小する。そんなことはない、と言っても無駄である。実際にそうなのだから。」(32ページ)



 詩人ロバート・フロストの詩に出てくるカマドムシクイという鳥の発する「衰えて残り少ないものをなんとしよう」という問いに正面から向き合うことが必要だとル=グウィンは言います。「あの問いにはたくさんの答えがある。ちゃんと向き合いさえすれば「衰えて残り少ないもの」の使い道はたくさんある」と言うのです。この見方です。この「衰えて残り少ないもの」にを直視し向き合おうという率直な見方に、いつの間にか還暦を目前にしている自分のどこかを励まされていることに気づくのです。これからの自分の理解の仕方の一つだと思いました。

 もちろん、本や文章の理解の仕方についても大切なことを言っています。「読者からの質問」について物語作者の立場から述べた一節には次のようにあります。



「この本の意味は何ですか? この本のこの出来事の意味は? この物語の意味は? 何を意味しているのか教えてください。

 でも、それは私の仕事じゃないの。あなたの仕事よ。

 私は自分の物語が自分にとって何を意味するのか、少なくとも部分的には知っている。同じ物語が、あなたにとってはまったく違うものを意味することは大いにありうる。そして、1970年にその物語を書いたときに、それが私にとって意味していたことは、1990年にそれが私にとった意味したいたこととも、2011年の今、意味していることとも、まったく異なるかもしれない。誰にとってによせ、それが2022年に意味するであろうことは、1995年に意味していたことと、ずいぶん異なっているだろう。その物語がオレゴン州でもつ意味は、イスタンブールでは理解不可能かもしれない。しかも、その物語がイスタンブールで、作者の私が意図しようもなかった意味を獲得することだってあるかもしれないのだ……。

 (中略)

 書くことは、危険な賭けだ。保証は何もない。一か八かでやってみなくてはならない。私は喜んで賭ける。そうすることが大好きだから。そういうわけで、私の書いたものは読み間違えられ、誤った受け取られ方、誤った解釈をされるだろう――別に構いはしない。それが本物である限り、無視され、抹消され、読まれないこと以外のあらゆる試練に耐えて生き延びるだろう。

 あなたにとって「何を意味するか」は、あくまでもあなたにとっての意味だ。それが自分にとって何を意味するのか見定め難いときに、書いた私に訊きたくなる気持ちはわからなくもない。だけど訊かないでほしい。」(62-63ページ)



 書いた人がその文章の意味のすべてを知っているわけではなく、読者が「作者の私が意図しようもなかった意味」を手に入れることすらあるかもしれないという言葉は、もちろん逃げではありません。むしろ逆です。読者への強いリスペクトを表明しているのです。読んでいる文章が「自分にとって何を意味するのか」ということを考えることは、読者だけにできるかけがえのない大切な理解の仕事であり、書いた人にはけっして触れることのできないことです。自分の仕事を読者自ら放棄しないでほしいと言っているのです。ル=グウィンは「説明し、何を意味しているか、どういう理由で、どういう仕方で、そういう意味のことを意味するのか、話し合う」ことが「いいこと」だと言っています。それが意味をつくり出すことだからです。見事に、エリンさんが『理解するってどういうこと?』で言っていることと合致します。

 「衰えて残り少ないもの」にきちんと向き合い、その使い道についてしっかり考えることも、「衰えて残り少ないもの」の、他ならぬ自分にとっての意味をつくり出すことだから重要なのです。

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