2016年6月24日金曜日

夏休み中の読書量を維持する/増やす効果的な7つの方法


 「夏休みは、まだ一か月も先」、なんて言わないでください。「もう一か月先」なのです。
 1週間前では、時すでに遅しです。(何事も準備が大切で、それがなければ「すれ違い」の人生が続くだけ!です。)★
 夏休みに本を読み続けるか否かは、大人にも言えることですが、子どもたちの場合は一層顕著にその違いが表れるかもしれません。その意味では、学期中よりも影響が大きいぐらいです!

1 コンタクトを取り続ける。
登校日があるので、それをうまく使うことですが、それ以外に間が空く時のコンタクトの維持の仕方を考えておいてください。特に、学期中も読まない子たちは要チェックです。また、教師がすべてを自分でしなければとは考えずに、いかに親を巻き込むかが大事です。(休みの間の責任は親にありますから。もちろん、学期中もです! それほど親との連携は大切。★★)

2 一人ひとりにオススメの本や雑誌等を持ち帰らせる
 1学期の様子を踏まえて、その子にとってのベストの本や雑誌や漫画などを(教室の図書コーナーから)教師が選んで最低でも一冊(可能ならセットで)、夏休み前の最後の日に持ち帰らせる。(あるいは、数日前に。変更が可能なように。)理想は、それがその子の夏休み中の読書の出発点になるもの。
 アイディアとしては、家庭訪問を年初の忙しい時期にやらずに、夏休みの最初の時期にやってもいいのかも?(プール指導や登校日等がないなら) 家庭訪問と本などを届けることが一石二鳥でできるから。(アイディアとしては悪くありませんか? 暑すぎてダメ?)

3 地域の公立図書館で会う日を設定しておく
 2週間に一回ぐらい事前に設定した日に公立図書館で会うようにする。可能なら司書の助けも借りて、図書館の効果的な使い方、本の選び方、書くことの読むことのつながり、詩の読み方などのテーマを事前に決めておいてもいい。もちろん、最大の目的は、そこから数冊の本を持ち帰ってもらうこと。そして、頻繁に図書館に来られるようにすること。

4 たくさんの本を読む企画を子どもたちと考えて実行する
 個人で、あるいはチームで読んだ本の量を競うコンテストなど、子どもたちと事前に考えて、夏休みの間中実施する。大切なのは、本の冊数ではなく、読んだ結果であることも意識しながら。とにかく、教室以外の場で読むことの価値に気づいてもらうことが目的。

5 読むことの質を高めるためにブッククラブを実施する
 これは、今の時代は実際に会って行うか、ネットを介しても行える! ★★★

6 子どもたちにブログを書かせる
 読むことと書くことは連動している。もちろん、本の感想を書かせることに限定しないことが大切。要するには、昔の夏休みの宿題の定番だった(絵)日記の現代版。クラスの生徒たちだけの非公開ブログにしておけば、問題ないでしょう! それでも、ダメでしょうか?(これも、親の理解と協力が書かせないです。)

7 夏休みの間に行うプロジェクトを事前に計画し、そして実施する
 学期中に学んだことで膨らませたいこと、自分の好きなことでさらに追求したいこと、あるいは自分の弱点を補いたいことなどから、夏休みの間にプロジェクトとして事前に計画し、そして実行するのです。より詳しく知りたい方は、『リーディング・ワークショップ』の第13章「リーディング・プロジェクト」を参照してください。

 これらの方法のほとんどは、教師を含めた大人が率先してやれる/やるべきことだとは思われませんか?





★ この準備をしないで取り組めるものとして「夏休みの読書感想文」が存在し続けていると思いますが、その結果は多くの子どもたちに読むこと嫌いを作り出しているだけだと言うことを理解してください。大人も当たり前にすることでないものを、やらせてはまずいです。
★★ このテーマを模索したい方は、リーディング・ワークショップとライティング・ワークショップを親に体験してもらうために開発された『ペアレント・プロジェクト』を参照してください。
★★★ 具体的な効用ややり方については、『読書がさらに楽しくなるブッククラブ』を参考にしてください。

2016年6月17日金曜日

「共感」という宝物

 他者の「心」を読み取る能力(心の理論)は、物語や小説を読む前提となる能力なのか、それとも物語や小説を読むことで育つ能力のか、どちらでもあってどちらかではないのか、という込み入ったことを考えあぐねているときに出会ったのが、フランス・ドゥ・ヴァール著『共感の時代へ―動物行動学が教えてくれること―』(柴田裕之訳/西田利貞解説、紀伊國屋書店、2010年〈原著2009年〉)でした。ドゥ・ヴァールは動物行動学者・霊長類学者で原著刊行時、米国アトランタ市のエモリー大学心理学部教授です。
 『共感の時代へ』の目次は次の通り。
はじめに/第1章 右も左も生物学/第2章 もう一つのダー ウィン主義/ 第3章 体に語る体/第4章 他者の身になる/第5章 部屋の中のゾウ/ 第6章 公平にやろう/第7章 歪んだ材木
 オランダの動物園でのチンパンジー、マカクザル、ボノボなどの豊かで詳細な観察を通して、著者ドゥ・ヴァールが見いだした知見が、わかりやすい実例とともに示されていきます。「共感」の本ですから、「共感」とはどのようなことかについての考えも随所に書かれています。一カ所だけ、引用します。
 つまり、共感は哺乳類の系統と同じくらい古い起源を持つものの重要な部分だと私は思っている。共感は一億年以上も前からある脳の領域を働かせる。この能力は、運動の模倣や情動伝染とともに、遠い昔に発達し、その後の進化によって次々に新たな層が加えられ、ついに私たちの祖先は他者が感じることを感じるばかりか、他者が何を望んだり必要としたりしているかを理解するまでになったのだ。この能力全体は、ロシアの入れ子型細工の人形マトリョーシカのような造りになっているように思える。その核となるいちばん内側には、多数の生き物と共有する、自動化されたプロセスがあり、その外側を幾重にも層が取り巻き、このプロセスの照準や及ぶ範囲を調整している。ただし、すべての種がすべての層を備えているわけではない。他者の視点を獲得する種は数えるほどしかない。私たちはその達人だ。だが、この人形の最も精巧な層でさえ、原始的な核の部分と今なおしっかり結びついている。(『共感の時代へ』293~294ページ)
 「共感」能力は進化に伴って次第に高次なものに成長してきたのですね。「情動感染」のように他者の感情とぴったり符合する多くの生き物に共通の傾向が核となって、進化の過程で、他者への気遣いや、他者の視点を取得するといった、より高度で精巧な能力が次々に加わったというのです。「マトリョーシュカ」のたとえはそのような「共感」の多層性のことを言っています。少なくとも人間の「共感」能力は「マトリョーシュカ」構造を備えていると言うのです。こうした考えをもとに、ドゥ・ヴァールは人間が生まれながらにして手に入れている一番大切な「道具」とは「他者とつながりを持ち、他者を理解し、相手の立場に立つ能力」としての「共感」能力だと主張しています(『共感の時代へ』316ページ)。
 逆に言うと、いくら可能性としては「マトリョーシュカ」構造が備わっていると言っても、「他者への気遣い」や「他者の視点の取得」のような高次で精巧な共感能力は、それを使う機会を見つけて、使うことができたならそれが何かを指さしてあげないと、繰り返し使うようになれないことにもなりはしないでしょうか。
 『理解するってどういうこと?』の第9章には、エリンさんと小学校3年生の黒人の子どもたちが『ルビー・ブリッジスの物語』(ロバート・コールズ著、未邦訳)を一緒に読んで話し合うシーンが描かれています。「関連づける」という理解のための方法に焦点化したミニレッスンの一コマです(『理解するってどういうこと?』350~355ページ)。ルビー・ブリッジスはアメリカで、はじめて白人の小学校に通った少女ですが(アーネスト・ヘミングウェイが彼女の勇気に賛辞を贈ったことも有名ですし、あの、ノーマン・ロックウェルも彼女の登校の姿を描いています)、この本はそのときのことを物語風に書いたものです。
 このミニレッスンでは「関連づける」ことで何がわかったかということが話し合われているのですが、主人公ルビーと自分が知っていることや体験したこととを「関連づける」ことによって子どもたちからはいろいろな発言が出されます。初めは出すつもりでなかったらしい「共感」という言葉を、エリンさんが持ち出すのは子どもたちの発言が減ってきた頃でした。3年生にはむずかしいかもしれないけれど、今ならわかると思って教えています。
 「共感とは、みんなが他の誰かの経験を理解するだけでなくて、それを本当に共有することです。みんなは、他の人が話したことを、自分の力で感じたり知ったりしていました。みんなの心臓はしっかりと記憶するたびにドキドキして、自分もまったく同じだと感じたら、みんな頭のなかに自分の生活の一コマを思い起こしました。それが、読むときにみんなが経験することのできる一番大切なことのひとつなのです。自分の頭と心でそんなふうに感じるとき、みんなは確実にその本を理解できているのです。これは特別で、とても大切な体験なのです。共感とはこういうものだってみんなが言えるぐらいに、わかりやすく説明できましたか?」
 すぐに子どもたちは答えてくれました。レイモンドが待ちきれずに発言しました。「わかる、わかる、わかる。この本のあそこのところに自分がいて、自分がその子で、自分が本のなかにいて。で、作家は自分のことについて書いてるって感じることでしょう!」
 子どもたちの能力はすごいです。彼らはしっかり理解しました。共感とはどういうことなのかを。8歳の子どもたちですが、わかったのです。
 「そのとおりです、レイモンド。それが共感です。」
 デヴォンテが言いました。「別の本で共感したことがあります。ずっと昔の二人の女の子についての本で、さくが出てきます。白人のこどもたちはそれを乗り越えちゃダメで、黒人の子どもたちもそれを乗り越えちゃダメなんだけど、その二人の女の子はその上に昇ってすわってた―――」
 「ジャクリーン・ウッドソンの『むこうがわのあのこ』ね」と私。
 「うん、『むこうがわのあのこ』だよ」と彼。「僕は共感だ。」
 「『僕は共感した』、ね」と私は少し言い直しました。
                     (『理解するってどういうこと?』353~354ページ)
 デュ・ヴァールの「共感」の定義とは言葉こそ違いますが、レイモンドは、『ルビー・ブリッジスの物語』の主人公と自らを「関連づけ」る学習を通して、「共感」を「この本のあそこのところに自分がいて、自分がその子で、自分が本のなかにいて。で、作家は自分のことについて書いてるって感じることでしょう!」と、自分の言葉で見事に定義づけています。「他者とつながりを持ち、他者を理解し、相手の立場に立つ能力」とはどういう力なのかということについてのすばらしい説明です。それを、自分と周りの子たちとエリンさんに聞かせているのです。
 デュ・ヴァールの本とエリンさんのミニレッスンは物語や小説をなぜ私たちが読むのかということや、なぜ私たちが学ぶのかということの一つの回答を示しています。「共感」能力の成長は、理解のための方法のどれかを使いながら、物語や小説をひたすら読んで考えることで得られる宝物なのです。

2016年6月10日金曜日

「自立した読み手」を育てる!


プロジェクト・ワークショップで『読書家の時間』の実践をし、その本の執筆に向けて努力をしていた2010年9月4日のミーティングの時にメンバーで「自立した読み手とは?」をテーマにブレイン・ストーミングをし、それを整理した結果が以下の6項目でした。

リーディング・ワークショップ(=読書家の時間)は、これらを意識するだけでなく、実現するために運営されています。学校を卒業してからも生涯にわたって読み続ける自立的な読み手を育てることが何よりも大切だと捉えているからです。

それに対して、通常の国語の授業★で、これら6つの項目の一つでも押さえられているでしょうか? 目的にすら上がっているでしょうか? おそらくそれが、読まない人を育てている結果になっているのではないでしょうか? (さらに言えば、読むのが嫌いな子どもたちや、読むのが下手な子どもたちをつくり出している原因?

 「読み手」を「書き手」に変えても同じことができます。
 その結果は、ライティング・ワークショップ(=作家の時間)と通常の作文教育の違いを浮き彫りにしてくれます。

 さらには、「学び手」に置き換えても同じことができます。★★
 これだと、すべての教科で行っている授業と、あるべき姿とのギャップが浮き彫りになります。
 そして、その過程では、教える側の教師のあり方も問われることになります。
 「果たして、それらを自分はモデルで子どもたちに示せているだろうか?」という大切な問いが浮かびますから。
 そうなんです、教師に求められているのは、教材研究をがんばってすることなどではないのです。★★★自分が読み手や書き手としてのいいモデルを子どもたちにどれだけ示せているか、の方がはるかに教育的効果は大きいですから。


★ 読解教育の授業だけでなく、朝読や図書の時間とさえ比較できてしまうのではないでしょうか?
★★ もちろん、「自立した科学者」(理科)「自立した数学者」(算数・数学)「自立した市民」(社会)等に絞った形でのブレイン・ストーミングも可能ですし、やる価値は大いにあります。
 プロジェクト・ワークショップのメンバーが考えた「自立した学び手」の項目をお知りになりたい方は、pro.workshop@gmail.comに連絡ください。

★★★ 教材研究アプローチのおかしさだけでなく、教員研修(校内研究)のあり方のおかしさにも気づかせてくれます。(このブレイン・ストーミングをしないと、これらのおかしさに気づけない状態が続くことを意味します!)そして、あるべき姿も浮かび上がってきます。


2016年6月3日金曜日

「素敵で大事な『作者の権利』10か条」

 前回5月27日のRWWW便りでは、「熟読の呪縛」★から逃れる一つの方法として、例えばペナック先生の「読者の権利10箇条」のような、呪縛を解くようなスローガン(?)を子どもたちに伝えることを紹介しました。

 読者(読み手)の権利があれば、作者(書き手)の権利があってもよさそうなものです、と思っ
ていたら、タイミングよく、数日前に「作者の権利10か条」が、ある人のブログで紹介されていました。イギリスのナショナル・ライティング・プロジェクトUKが2011年に作成したものだそうです。

 そのブログには「これは素敵&大事!『作者の権利』10か条」という題がついていますが、たしかに素敵な権利です。

 今回は、そのブログの作成者の了承を得て、そのブログから「作者の権利10か
条」を中心に紹介します。(詳しくはブログ http://askoma.info/2016/05/29/3086 をご覧ください。)

 まずはブログで紹介されていた作者(書き手)の権利10か条は以下です。

•  書いたものを見せない権利
•  書き直したり、消したりする権利
•  どこででも書ける権利
•  信頼できる読者を得る権利
•  書いている途中で迷って、どこに行くかわからなくなる権利
•  書いたものを捨てる権利
•  考える時間をとる権利
•  他の作者から借りてくる権利
•  実験をしたり、ルールを破ったりする権利
•  パソコンを使ったり、絵を描いたり、紙とペンで書いたりする権利

 皆さんはどの権利が印象に残りますか? 

 私は個人的には
「•  書いている途中で迷って、どこに行くかわからなくなる権利 」



「•  実験をしたり、ルールを破ったりする権利 」が好きです。

 何か作り出す過程は、私には試行錯誤なので、それを権利して保障されるのは嬉しいです。

(← そして、その過程を経て、何かを創り出せたときは、とても嬉しいです!)

 上で紹介したブログ作成者のページ http://askoma.info/2016/05/29/3086 に飛ぶと、この10か条についての、ブログ作成者のコメントも読めます。

 また、この10か条の権利はイラスト付きでポスターになっているらしく、上のブログでは、そのポスターの写真も見れます。

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 ブログ作成者は、大学院の研究室のドアでこのポスターを見かけたらしいのですが、「このポ
スターを研究室の扉に貼っている先生への興味もむくむくと」とも書かれています。

➡ 職員室や教室のちょっとしたスペースに何を貼るのか、それを見た人から、思いがけない、つながりが生まれることもあるかも、と「作者の権利10か条」のブログを読みつつ、そんなことも考えたりしました。

 こんなふうに、あることを書きながらふと思いついたことを書くことは、「あることを書きながら、
少し横道に逸れることを書く権利??」かもしれません。

➡ 子どもたちに、追加したい権利を聞いてみてもいいかもしれない、とも思いました。

 また、追加した権利について話し合うことで、「権利としては存在しても、いい文章を書くことにはつながらないかもしれないね」等のコメントが出るかもしれません。もしかすると、「いい文とは?」を考えるきっかけになるかもしれません。

 今日は、途中で横道に逸れつつも、「作者の権利」の紹介でした。

★ 「熟読の呪縛」については、5月20日のRWWW便りで紹介されている本『遅読家のための読書術』に登場しますので、詳しくは5月20日のRWWW便りをお読みください。