他者の「心」を読み取る能力(心の理論)は、物語や小説を読む前提となる能力なのか、それとも物語や小説を読むことで育つ能力のか、どちらでもあってどちらかではないのか、という込み入ったことを考えあぐねているときに出会ったのが、フランス・ドゥ・ヴァール著『共感の時代へ―動物行動学が教えてくれること―』(柴田裕之訳/西田利貞解説、紀伊國屋書店、2010年〈原著2009年〉)でした。ドゥ・ヴァールは動物行動学者・霊長類学者で原著刊行時、米国アトランタ市のエモリー大学心理学部教授です。
『共感の時代へ』の目次は次の通り。
はじめに/第1章 右も左も生物学/第2章 もう一つのダー ウィン主義/ 第3章 体に語る体/第4章 他者の身になる/第5章 部屋の中のゾウ/ 第6章 公平にやろう/第7章 歪んだ材木
オランダの動物園でのチンパンジー、マカクザル、ボノボなどの豊かで詳細な観察を通して、著者ドゥ・ヴァールが見いだした知見が、わかりやすい実例とともに示されていきます。「共感」の本ですから、「共感」とはどのようなことかについての考えも随所に書かれています。一カ所だけ、引用します。
つまり、共感は哺乳類の系統と同じくらい古い起源を持つものの重要な部分だと私は思っている。共感は一億年以上も前からある脳の領域を働かせる。この能力は、運動の模倣や情動伝染とともに、遠い昔に発達し、その後の進化によって次々に新たな層が加えられ、ついに私たちの祖先は他者が感じることを感じるばかりか、他者が何を望んだり必要としたりしているかを理解するまでになったのだ。この能力全体は、ロシアの入れ子型細工の人形マトリョーシカのような造りになっているように思える。その核となるいちばん内側には、多数の生き物と共有する、自動化されたプロセスがあり、その外側を幾重にも層が取り巻き、このプロセスの照準や及ぶ範囲を調整している。ただし、すべての種がすべての層を備えているわけではない。他者の視点を獲得する種は数えるほどしかない。私たちはその達人だ。だが、この人形の最も精巧な層でさえ、原始的な核の部分と今なおしっかり結びついている。(『共感の時代へ』293~294ページ)
「共感」能力は進化に伴って次第に高次なものに成長してきたのですね。「情動感染」のように他者の感情とぴったり符合する多くの生き物に共通の傾向が核となって、進化の過程で、他者への気遣いや、他者の視点を取得するといった、より高度で精巧な能力が次々に加わったというのです。「マトリョーシュカ」のたとえはそのような「共感」の多層性のことを言っています。少なくとも人間の「共感」能力は「マトリョーシュカ」構造を備えていると言うのです。こうした考えをもとに、ドゥ・ヴァールは人間が生まれながらにして手に入れている一番大切な「道具」とは「他者とつながりを持ち、他者を理解し、相手の立場に立つ能力」としての「共感」能力だと主張しています(『共感の時代へ』316ページ)。
逆に言うと、いくら可能性としては「マトリョーシュカ」構造が備わっていると言っても、「他者への気遣い」や「他者の視点の取得」のような高次で精巧な共感能力は、それを使う機会を見つけて、使うことができたならそれが何かを指さしてあげないと、繰り返し使うようになれないことにもなりはしないでしょうか。
『理解するってどういうこと?』の第9章には、エリンさんと小学校3年生の黒人の子どもたちが『ルビー・ブリッジスの物語』(ロバート・コールズ著、未邦訳)を一緒に読んで話し合うシーンが描かれています。「関連づける」という理解のための方法に焦点化したミニレッスンの一コマです(『理解するってどういうこと?』350~355ページ)。ルビー・ブリッジスはアメリカで、はじめて白人の小学校に通った少女ですが(アーネスト・ヘミングウェイが彼女の勇気に賛辞を贈ったことも有名ですし、あの、ノーマン・ロックウェルも彼女の登校の姿を描いています)、この本はそのときのことを物語風に書いたものです。
このミニレッスンでは「関連づける」ことで何がわかったかということが話し合われているのですが、主人公ルビーと自分が知っていることや体験したこととを「関連づける」ことによって子どもたちからはいろいろな発言が出されます。初めは出すつもりでなかったらしい「共感」という言葉を、エリンさんが持ち出すのは子どもたちの発言が減ってきた頃でした。3年生にはむずかしいかもしれないけれど、今ならわかると思って教えています。
「共感とは、みんなが他の誰かの経験を理解するだけでなくて、それを本当に共有することです。みんなは、他の人が話したことを、自分の力で感じたり知ったりしていました。みんなの心臓はしっかりと記憶するたびにドキドキして、自分もまったく同じだと感じたら、みんな頭のなかに自分の生活の一コマを思い起こしました。それが、読むときにみんなが経験することのできる一番大切なことのひとつなのです。自分の頭と心でそんなふうに感じるとき、みんなは確実にその本を理解できているのです。これは特別で、とても大切な体験なのです。共感とはこういうものだってみんなが言えるぐらいに、わかりやすく説明できましたか?」
すぐに子どもたちは答えてくれました。レイモンドが待ちきれずに発言しました。「わかる、わかる、わかる。この本のあそこのところに自分がいて、自分がその子で、自分が本のなかにいて。で、作家は自分のことについて書いてるって感じることでしょう!」
子どもたちの能力はすごいです。彼らはしっかり理解しました。共感とはどういうことなのかを。8歳の子どもたちですが、わかったのです。
「そのとおりです、レイモンド。それが共感です。」
デヴォンテが言いました。「別の本で共感したことがあります。ずっと昔の二人の女の子についての本で、さくが出てきます。白人のこどもたちはそれを乗り越えちゃダメで、黒人の子どもたちもそれを乗り越えちゃダメなんだけど、その二人の女の子はその上に昇ってすわってた―――」
「ジャクリーン・ウッドソンの『むこうがわのあのこ』ね」と私。
「うん、『むこうがわのあのこ』だよ」と彼。「僕は共感だ。」
「『僕は共感した』、ね」と私は少し言い直しました。
(『理解するってどういうこと?』353~354ページ)
デュ・ヴァールの「共感」の定義とは言葉こそ違いますが、レイモンドは、『ルビー・ブリッジスの物語』の主人公と自らを「関連づけ」る学習を通して、「共感」を「この本のあそこのところに自分がいて、自分がその子で、自分が本のなかにいて。で、作家は自分のことについて書いてるって感じることでしょう!」と、自分の言葉で見事に定義づけています。「他者とつながりを持ち、他者を理解し、相手の立場に立つ能力」とはどういう力なのかということについてのすばらしい説明です。それを、自分と周りの子たちとエリンさんに聞かせているのです。
デュ・ヴァールの本とエリンさんのミニレッスンは物語や小説をなぜ私たちが読むのかということや、なぜ私たちが学ぶのかということの一つの回答を示しています。「共感」能力の成長は、理解のための方法のどれかを使いながら、物語や小説をひたすら読んで考えることで得られる宝物なのです。
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