ノンフィクションの読み書きはいつごろどのように教えていけばいいのか。このことは国語の授業に取り組んでいる人の悩ましい課題であると思います。『理解するってどういうこと?』のなかで、キーンさんが「ノンフィクション」について書いているのは主に第7章です。フィクションの読み書きでは伸びやかに学びを進めていた子どもたちがノンフィクションについては読むことでも書くことでもフィクションの同じようにはいかないということを論じた後、彼女は次のように書いています。
〈ノンフィクションを書くことについてもの、状況は読むことと同じくよくありません。ノンフィクションを書いてみるように子どもたちに求める場合、私たちは優れたノンフィクション・ライターの技(たとえば、興味をそそるような書き方や、多くの情報を提供するような書き方など)を学ぶことにあまり時間を費やしていません。私たちは、子どもたちにノンフィクションの根底にあるさまざまな構造を教えないままにしてしまいがちなのです。その結果として、単に時間軸で並べただけの要約や、子どもたちが使った元となる文章を最小限書き変える以上の文章はめったに生まれないのです。すでに研究は明らかにしてくれています。もし私たちが子どもたちにノンフィクションで読んだことを身につけ、活用してほしいと望むのであれば、私たちはノンフィクションの構造の直接指導を国語科だけでなく、各教科の指導に組み入れなければならないということです。〉(『理解するってどういうこと?』268ページ)
こう書いた後、エリンさんは「ノンフィクションを読む際の障害」についてその「障害」「説明」「事例」「教え方」を「言葉レベル」と「作品レベル」で大変コンパクトにまとめています(『理解するってどういうこと?』269~276ページ)。これは、日本では「説明的文章」の理解に関する問題です。上に引用した内容と合わせて考えると、エリンさんの考え方で重要なのは、これらを読むことの問題だけでなく、書くことの問題と合わせて考えて提案しているということです。「ノンフィクションの根底にあるさまざまな構造」つまり「説明的文章」の「根底にあるさまざまな構造」を教える必要性が指摘されていることです。
この読むことと書くこととをどのように連動させていくかということは、この「RW/WW便り」そのものの重要なテーマです。何をどのように書いてきたのかということが、何をどのように読むのか(理解するのか)を根底から支える、ということです。
ちょうど1年ほど前に「ノンフィクションを読み書きする意味」(2024年11月16日)でもこのことを考察しました。その時に取り上げた『論理的思考とは何か』(岩波新書、2024年)の筆者・渡邉雅子さんの近刊『共感の論理―日本から始まる教育革命―』(岩波新書、2025年)には、前著で四カ国の「作文教育」の分析によって示されていた「論理的」の四つの型(「経済」「政治」「法技術」「社会」)に基づく教育の在り方が具体的に示されています。渡邉さんの言う「論理的」の四つ目の型「社会」は日本の教育の特徴ですが、『共感の論理』ではこれを「共感的・縁起的利他主義」と呼び変えられています(渡邉さんは井筒俊彦氏に拠りながら「縁起」とは「すべてのものはそれぞれ他に依存し、他との関係においてのみ、仮に自と現れているだけ」とする考え方だとしています)。
「日本の国語教育では、他者に共感することとともに、相手を理解することで「自己が変わること」が重視されている」(『共感の論理』109ページ)とする渡邉さんは「共感」をベースに「多元的思考」へと至る「段階的作文教育」「段階的読解教育」を唱えます。
〈社会原理を基盤としながら多元的な思考ができる教育を築くためのポイントは二つある。一つ目は、子どもが社会の一員として必要な認知的、規範的、道徳的ルールを身につける社会化(socialization)が最も効果的に行われる小学校低学年で、共感的な読解と感想文の執筆を通して共感的利他主義をしっかりと育むことである。二つ目は、各学校段階に応じて重点的に教える作文様式を、発達段階に合わせて段階的に移行させる「段階的作文教育」を導入し、多元的思考を育てることである。このような方針により、初等教育では利他主義を情緒的に内面化させて人格形成の基盤を築く。そして中等教育では、データや事実を根拠に実証的に論証する力、抽象的な概念を使って立場を明確にする力、さらには仮説を立てて検証する力を、それぞれの作文様式を通して体系的に学ぶ。こうした様式の論理を理解し、思考と表現の技術として自在に使いこなせるようにするのである。初等教育ではリテラシーの文化的側面を、中等教育ではその技術的な側面を重点的に習得させるのである。〉(『共感の論理』117~118ページ)
もちろん、渡邉さんの主張は、小学校でもっぱら「共感的」な作文や読解を行って中学校以上ではそれをすっかりやめて抽象的・技術的な面を中心にした作文や読解に移行するというものではありません。「段階的作文教育」「段階的読解教育」を詳しく説明した後、次のように言っています。
〈このように、年齢や発達段階に応じて異なる読解の技術を見につけることは、多元的な思考力を育てる第一歩となり、具体から抽象へと思考の発達を導く。〉(『共感の論理』151ページ)
どのような作文にも読解にも「共感的」な側面と抽象的・技術的側面はあります。その二つの側面のうち、低学年では「共感的」側面を強調し、高学年から中学校・高校と進むにつれて、抽象的・技術的側面の割合を増やしていくことで「多元的思考力」が育まれていく、そのような連続体のようなものを想定した学習指導が「具体から抽象へと思考の発達を導く」のだとわたくしは捉えました。
渡邉さんの主張する「段階的作文教育」「段階的読解教育」(この二つはセットです)を通して、学習者はエリンさんの言う「ノンフィクションの根底にあるさまざまな構造」に接していくことになるのだと思います。『共感の論理』巻末の「コラム 文章の目的と様式を意識させる訓練」は、ノンフィクションだけでなくフィクションも含めてその「根底にあるさまざまな構造」を子どもたちに教えるための具体的アイディアです。「共感」をベースにしながら、描写したり、物語ったり、説明したり、説得しようとしたりする文章を、私たちは国語の授業のなかで書いてきました。その営みのなかでフィクション・ノンフィクションの根底にある構造に気づくようにすること。「共感」から「多元的思考」に至るそのような学習指導を進めることは、人が「ノンフィクション」を含めた読み書きにも喜びを見出すきっかけになると考えます。
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