「理解するための方法」の一つに「質問する」があります。
『理解するってどういうこと?』の第8章(310ページ~324ページ)には、クララという先生が行った「質問する」のミニ・レッスンの記録があります。クララ先生はこのミニ・レッスンのはじめの方で、7歳と8歳の子どもたちに次のように話しています。
〈今日は、読者がもっとよく理解するための方法のひとつの「質問する」を使うとき、頭のなかでどういうことが起こっているのかを、みんなに見せてあげます。もし一冊の本がこれまでの私たちの考えや信じていることを変えてくれそうなら、私たちはその本を深く理解する必要があります。(中略)質問は、その本をもっと深く理解できるようにしてくれる、ツールだということを私たちはもう知っていますね。読んでいる途中で質問をすればするほど、読み手はもっとうまく理解できるようになります。〉(『理解するってどういうこと?』311ページ)
クララ先生はこの後、ロバート・コールズの『ルビー・ブリッジスの物語』(未邦訳)を子どもたちに読み聞かせながら、時折それを止めながら自分の「頭のなか」で「どういうことが起こっているか」話します(「考え聞かせ」です)。ミニ・レッスンと言うには少々長くて、1時間ほどかかっていそうですが、「質問する」を使って「その本をもっと深く理解できる」ようになるようにするための緻密な働きかけがそこにはあって、ミニ・レッスンの後半では子どもたちからいい質問がたくさん出てきます。
では、「質問する」つまり「問い」が生まれる時には、頭のなかでどういうことが起こっているのでしょう。
今年9月に刊行された、安藤昭子さんの『問いの編集力―思考の「はじまり」を探究する―』(ディスカバー、2024年)ではそのことが探究されています。
〈「問い」はなんであれ、内面の了解と外側の世界とのズレから生じるものだ。既知(すでに知っていること)と未知(まだ知らないこと)が踵を接するところに問いのタネが潜んでいるのだとすれば、誰にも問うべき事柄は際限なくあるはずなのだ。ただ、与えられた問いに首尾よく答え続けるうちに、自分の内側から湧き出る問いは「問うまでもない」こととして処理される。そうして、問いの芽吹きがおこる柔らかな領域にはいつしか固く蓋がされてしまう。〉(『問いの編集力』10~11ページ)
そもそも読む行為は「既知」と「未知」とが「踵(きびす)を接する」ところで営まれるものですから、読む過程で様々な「問い」が読者の内部に生まれて然るべきです。他の人から「与えられた問い」ばかりに答えることを続けていると、そういうことをしなくなってしまう。安藤さんの言葉に従うと、「問い」を立てることはそれに抗うことになるでしょう。安藤さんはこの引用文に続けて〈「問う」という行為をつきつめて考えていけば、それは「情報」を「編集」することにほかならない〉と言っています。「問う」ことは、その「情報」を「編集」する「思考のプロセス」を活性化することにほかなりません。
安藤さんはこの本のなかで、自分の内側から「問い」を湧き出させる読みの方法を「探究的読書(Quest Reading)」と名づけています。「探究的読書」で重要なものは、自分の今の問題意識であり、手持ちの知識のその先に何を考えたいか、ということで、それを意識することで一冊の本の読み方が著しく積極的なものになるとされています。
〈そもそも本を読むというのは、一方的に情報を得るだけの行為ではないのだ。テキストで表現されたことと自分の想像力が「混ざり合う」、著者との相互編集活動だと思ったほうがいい。書き手がバラバラになりそうな思考をなんとかひとつの流れにのせて紡いでいく言葉に、読み手の想像力が「いいぞ!」と感心したり「そうか?」と疑義を唱えたり「ちょっと待てよ」とあらぬ方向に寄り道したりしながら、著者と読者の間に思索の可能性を切り開いていく行為なのだ。〉(『問いの編集力』119ページ)
読者の側が「白紙」の状態では読む行為は「著者との相互編集活動」になりません。手持ちの知識や問題意識に基づいた読者自身の「想像力」があった初めて「相互編集活動」になります。その「想像力」を駆使して「いいぞ!」「そうか?」「ちょっと待てよ」と考えていくことが、「質問する」という方法を使う頭のなかで起こっていることなのです。
本書にはいくつかの「練習問題」が置かれていて、実際に「問い」を生むためのヒントになるエクササイズになっています。その一つに「なぜなに変換」があります。
〈思い浮かぶものの中から何かに少し思いをめぐらせて、ほんのちょっとでも気になることがあれば、それを「なんで?」「それはなに?」などと思ってみる。いつもの風景を「なぜなに変換」してみよう。〉(『問いの編集力』173ページ「練習問題16」の一部)
そうです。いつもの見慣れた自分の周囲の風景のどこかに注目して「なぜなに変換」をしてみる、それを言葉にしてみることが「問う」「質問する」という行為なのです。それは日常の見慣れた風景に「驚き」を覚えることでもあります。そうです。「質問する」ときに頭のなかで起こるのは、そうした「驚き」で、これを安藤さんは「内発する問い」と呼んでいます。
安藤さんの〈自分の内面、また自分と世界が関わるところに、何より豊かな問いの宝庫がある〉(『問いの編集力』210ページ)という言葉を、ミニ・レッスンの終わり近くで、クララ先生がイーゼルに書き出した〈ときには、質問にすぐ答えようとしない方がいい。その代わり、しばらくのあいだ頭のなかに漂わせておく〉(『理解するってどういうこと?』323ページ)関わらせて考えてみると、「質問する」について新たな視点が生まれます。対象に対する「問い」や「質問」をつくることは、それを理解する上でとても大切な手がかりですが、生み出された「問い」や「質問」にすぐ答えるのではなくて、「しばらくのあいだ頭のなかに漂わせておく」ことによって、子どもたちが「自分の内面」や「自分と世界が関わるところ」をさらに見つめて考えることは、対象を理解する上でそれ以上に大切なことであるという視点です。
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