2019年6月21日金曜日

読書は人生の再読




 『理解するってどういうこと?』の第9章では「感情と記憶」という理解の種類が取り上げられています。

「感情的な関連づけが行われると、理解は豊かなものとなる。私たちは美しいと感じることを再度経験したくなり、学習に喜びが含まれているとよりよく理解できる。創造的な活動をするなかで、私たちは光り輝くもの、記憶に残るもの、他の人たちに意味のあるものをつくろうとする。最終的に、私たちがしっかりと考えて発見したことは強力で、長持ちするものとなる。こうして、記憶に残る。」(339ページ)

柳広司さんの『二度読んだ本を三度読む』(岩波新書、2019年)はこの「感情と記憶」という理解の種類についての本です。

 わたくしも読んだことのあるいくつかの本のことが出てきます。扱われているのはほとんど小説です。『月と六ペンス』(サマセット・モーム)『それから』(夏目漱石)『怪談』(小泉八雲)『シャーロック・ホームズの冒険』(コナン・ドイル)『ガリヴァー旅行記』(ジョナサン・スウィフト)『山月記』(中島敦)『カラマーゾフの兄弟』(フョードル・ドストエフスキー)『細雪』(谷崎潤一郎)『紙屋町さくらホテル』(井上ひさし)『夜間飛行』(サン=テグジュベリ)『動物農場』(ジョージ・オーウェル)『ろまん燈籠』(太宰治)『龍馬がゆく』(司馬遼太郎)『スローカーブを、もう一球』(山極淳司)『ソクラテスの弁明』(プラトン)『兎の眼』(灰谷健次郎)『キング・リア』(W・シェイクスピア)『イギリス人の患者』(M・オンダーチェ)……どうですか? 何冊読みましたか? そして何冊再読していますか? なんて、この本でそういうことは問題になりません。一言で言えば、著者である柳さんの再発見の過程が書かれている、とでも言えるでしょうか。

 たとえば夏目漱石の『それから』を『こころ』と対比した次のような文章は、再読・三読したうえでのことですから、どこか確信めいた響きがあります。

「読書体験が人々を魅了する理由の一つに「打ち明け話的特性」がある。文字を眼で追い、物語と一対一で向き合うことで、読者はあたかも「ここだけの話だが……」と著者に耳元で囁かれているような気になる。「君だけに打ち明けるのだが……」と、自分が特権的な立場にいる錯覚を覚えさせる。太宰治はこの特性を最大限利用した小説家だ。
 『こころ』の高評価も、このメディア特性に支えられている。
 何しろ主人公の「私」が謎めいた「先生」と出会い(徹頭徹尾「先生」らしくないが、呼び名が「先生」)、先生が誰にも漏らさずにいた内面の秘密を、最期に私だけに明かしてくれるのだ。ある種の読書好きにはこたえられない展開だろう。
 漱石は、書こうと思えば、いくらでも「打ち明け話的」に書くことができる。
 だが、『それから』では小説メディアが持つこの利点を敢えて捨てて書いている。作品は少しも「打ち明け話的」な感じがしない。耳元で囁かれている気がしない。
 『こころ』が目の前の「私」に囁きかける小説だとすれば、『それから』は語りかける相手をもっと遠くに設定している。「広い世界」の「不特定多数」に向かって言葉が発せられている。」(18ページ)

 ここには、柳さんの漱石作品への見解が明瞭に示されています。「不自然」「作り物」「失敗作」と言われた『それから』が、どうしてそのような低い評価に甘んじなければならなかったのかということが、再読の過程で掘り下げられていくのです。わたくしも久しぶりに『それから』を引っ張り出して読んでみました。徹頭徹尾「打ち明け話的」ではありません。むしろ『夢十夜』が近い。読者としては放り出されたような気持ちになって、落ち着きません。冒頭からして「誰かが慌ただしく門前を駈けて行く足音がした時、代助の頭の中には、大きな俎下駄が空から、ぶら下っていた」です。「私はその人を常に先生と呼んでいた。だからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない」と始まる『こころ』とは、三人称と一人称の違いばかりでなく、そこで想定されている読者像も大違いです。こんなに違うということを、わたくしは柳さんの本に促されて両作品を改めて読み(国語の教師の端くれですので、何度も読んでいますが)、再認識しました。
  柳さんが本書「あとがき」で使っている言葉を借りると、再読することによって、「年齢を重ねた者なりの読書の仕方」とその先の「新しい世界」の発見が確かに起こります。それは「感情と記憶」という理解の種類の成果でもあります。二度読んだ本を三度読むことで営まれる「理解」は、もちろんその本のより深い解釈は新たな発見ということでしょうが、それがすべてではありません。きっと自分とは何者かということの理解も営まれるはずです。柳さんは本書を次のように締めくくります。

「本(小説、戯曲、物語、言葉)は、あたかも鏡のように自分自身の姿を写し出し、遙か遠くの世界をかいま見せてくれる。自分と、遠くの世界を繋いでくれる。
 つくづく面白いものだと思います。」(207ページ)

 もはやここで柳さんは再読ということを言っていません。「本」と「読書」の面白さをこのように表現しているのです。すなわち、読書行為そのものが、本を「鏡」にすることであり、また本を遠くの世界を「かいま見せ」「繋いでくれる」いわば遠眼鏡にすることだと伝えているのではないでしょうか。だからこそ、初めて読んでもそれは既に自分の人生を再読することになっているし、本を再読・三読することは人生を意味づける営みになっているのかもしれませんね。人はなぜ本を読むのかという問いへの答え方の一つが示されています。

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