2026年5月30日土曜日

「ことば あのむだなもの」 ----吉原幸子の詩を読む----

 [時々、投稿をお願いしている吉沢先生に、今回の投稿をお願いしました。]

私は、詩を読んでいて、ドキッとする言葉、ハッとさせられる言葉に出会うことがあります。それも単に気の利いた表現とか目新しい言い回しとかではなく、その言葉について考えを巡らせることで、詩全体のテーマが見えてくる、そんな言葉です。


今回は、そのような視点から、吉原幸子氏★1の詩を読んでみたいと思います。次のような順で読んでいきます。

(1) 冒頭から順に読む

(2) 心に留まった言葉について考えを巡らせる

(3) 全体を読み直す

仔犬の墓★2

吉原幸子

 

地のなかに 仔犬はまるくなって お菓子の紙袋を前あしに抱いて 眠ってゐる

 

おまえがぴょんぴょんとびはねてゐるとき にんげんたちは知らん顔して とびつかれまいとわざと横むいたふりなんかしてゐたのに さうやって おまえがもうたべられなくなると 袋ごとお菓子を抱かせて 土をかけながら 泣いてやるのです

 

ゆるしておくれ わたしたちの身がってを おまへがあんなにとびはねるので 安心してゐたのよ それににんげんは ことば あのむだなもののためにいそがしかった おまへの病気を さびしい脱け毛を 知らなかった

 

しっぽといっしょにお尻までふってたおまへ なげたビスケットをどうしてもうけとめられなかった おふるの首わがゆるゆるだったおまへ 捨て犬でなくなってからたったひと月 あんなに いのちをよろこんでゐた はづかしいほどなめてくれた みつめてくれた おまへ 茶いろのやせっぽち

 

(1)

第1連。亡くなった犬を地面に葬る場面が描かれています。

第2連。その犬は、ぴょんぴょん飛び跳ねる元気な犬でした。しかし、周りの人たちは、飛びつかれるのが嫌で知らん顔をしていたことがわかります。

第3連。詩人は「ゆるしておくれ」と語りかけます。犬の元気な姿を見て安心してしまって注意を注ぐことがなく、その結果、犬が病気になって弱っていく兆しに気づかなかったのです。詩人は、それを「わたしたちの身がって」と言っています。

第4連。元気だった時の犬の思い出が語られます。その犬は、捨てられていたのを拾われて育てられ、それがひと月続いたのです。とても親しくなついていた犬だったのに、病気になっていたことに気づかず、死なせてしまったことを詩人は悔やんでいます。

 

(2)

 私の心に留まったのは、第3連の「それににんげんは ことば あのむだなもののためにいそがしかった」という一文です。

「ことば あのむだなもの」とは一体何を意味しているのでしょうか。一般的に考えれば、言葉が無駄なものだなんてとんでもない。人間が社会生活をおくる上で欠かせないものだと反論することもできます。しかし、詩人はあえて、「むだなもの」と言っているのです。

 

私が考えたことを書き出してみます。

○人間が、日常の生活のいろいろなことに忙しくて、犬に気を向けなかった、ということだろうか。

○犬は言葉を持たないが、人間は言葉を持っている。

○人間が言葉を操ることで犬よりも高等だと思っていることへの反省ではないだろうか。

○言葉を持たない犬について、いきいきと描かれているのに、言葉をもつ人間については、いきいきと描かれていない。

○言葉で詩を書いている詩人が、言葉を「むだなもの」と言うのは矛盾する感じがする。

 

(3)

再び全体を読み直して、私は第2連の「泣いてやるのです」という表現が気になりました。「泣いているのです」ではありません。上からの目線で犬を見て、体裁を整えている人間の姿が感じられます。

詩全体から伝わってくる犬の姿は、ストレートで生き生きしています。うれしくて飛び跳ねていたこと、人になついて、なめたり見つめたりしていた犬。けれども病気になって弱って死んでしまったのでした。

それに対して人間は、知らん顔をしたり、横を向いたふりをしたりして屈折しています。犬の死に対して、心から悲しむのではなく、ここでは泣いておこうという判断で「泣いてやる」のです。そこにあるのは、駆け引きやごまかしや体裁をととのえること言葉を使っている人間の姿ではないだろうか。そのように私は感じます。

 

このように考えを巡らせてきて、もう一度、読んでみました。「ゆるしておくれ わたしたちの身がってを」という表現が心に染み込んできました。犬に対して罪深いことをした、という詩人の気持ちが伝わってきました。

そして、言葉を「むだなもの」にしてきたのではないか、という詩人の自己批判も込められているように思います。

 

自分の心に留まったこと、一体どういうことなんだろうと疑問に思ったことについて、それを流してしまわずに、詩人が差し出す言葉に寄り添って丁寧に考えてみる。場合によっては、近しい人と感想を分かち合ってもいいかもしれません。それが詩を読むことの喜びにつながっていくのではないか、と思います。

 

1 吉原幸子(19322002)東京生まれ。


2 『現代詩文庫56  吉原幸子詩集』思潮社、1973年刊

 

2026年5月22日金曜日

生徒の書く気を引き出す: 本当にいる読者のために書く

 生徒たちが大量の文章を書くようになった本当の理由は、彼らが本物の読み手、つまり心からつながり/伝えたいと思える相手に向けて書く機会を与えられたときでした。

 

ほかの生徒への手紙を書くこと

2003年の冬、イラク戦争が始まる直前、私の中学生たちはイラクのインターナショナル・ハイスクールに通う英語が話せる高校生たちとペンパル交流をしていました。生徒たちは差し迫る戦争をとても心配しており、進行中の対立についてさまざまな視点を知りたいと思っていました。また、年上のペンパルに自分たちの書く力をアピールしたい気持ちも強く、メールの手紙を何度も書き直し、推敲し、完璧に仕上げようとしていました。

そして返事が届くと、生徒たちはさらに意欲を高め、説明や描写をたっぷり盛り込んだ長く丁寧な手紙を書くようになりました――しかも文法・スペル・表記の誤りは一つもありませんでした。

 私はいつも、生徒たちが「ほかの子どもに手紙を書く」ときに強く動機づけられることを実感してきました。市内の子どもたちだけでなく、他都市や海外の子どもたちともつながる方法をたくさん試してきました。

また、生徒たちは政治家、作家、俳優、家族、これから入学してくる生徒など、さまざまな相手に手紙を書くことも大好きでした。亡くなった家族や、今は生活の中にいない家族に宛てて手紙を書く生徒もいました。

手紙には、個人的でありながら形が整っていて、対話を招き、返事を待つ感じがある。 その形式が、子どもたちの筆を自然と動かしていました。

 

情報を伝えるために書くこと

生徒たちを文章に向かわせるもう一つの方法は、「情報を必要としている読み手」、つまり生徒が「教えることのできる相手」を用意することでした。たとえば、かつて生徒たちは鳥インフルエンザのような公衆衛生上の懸念について調べ、誤解を解き、正しい情報を伝えるパンフレットを作成しました。これらは地域で話されている複数の言語に翻訳され、コミュニティーセンターで配布されました。

大人たちはその情報を喜び、生徒たちを称賛しました。生徒たちは、自分が役に立てたこと、価値ある存在だと感じ、知識をわかりやすくまとめて伝えることに強い意欲をもつようになりました。

 

家族の歴史を共有すること

別の課題では、生徒たちは自分たちの出身国や文化的背景にある儀式や伝統について、家族にインタビューしました。その情報をもとに短いエッセイを書き、それらを一冊の本にまとめてコピーし、家族に配布しました。

生徒たちは、自分の文章が家族や文化、伝統を表しているのを見て誇りを感じました。そして、もっと書く力を伸ばしたいという意欲を強くもつようになりました。

 

秘密のスパイス

教師として、私だけしか読まないような作文課題を出すことはほとんどありませんでした。書く課題には必ず「読み手」を設定していました。最低でも、生徒同士が互いの文章を読み合うようにしていました。お互いから前向きなフィードバックをもらうと、生徒たちはまた書きたいという気持ちになったのです。

生徒の書く意欲を引き出す秘密は、実は「読み手の存在」だった――そんな当たり前のことに気づいたのでした。けれど、よく考えれば私自身も同じです。誰かが自分の文章を読んでくれて、その人に影響を与えたり、心を動かしたり、これまでなかった考えや感情を呼び起こしたりするかもしれない――その想像こそが、私を強く書く気にさせます。

もし誰にも読まれないと分かっていたら、私は書くでしょうか。たぶん書くとは思います。書くことは、自分の考えや気持ちを整理する助けになるからです。でも、書き直したり、推敲したりして、ぐちゃぐちゃの下書きを磨き上げることは、おそらくしないでしょう。私がそれをするのは、読み手がいると知っていて、その読み手にちゃんと読んでもらいたいからなのです。

 

 あなたはどのようにして生徒の書く意欲を高めてきましたか? どのような読み手を設定してきましたか? 生徒たちはどのように自分の文章を共有していますか? ぜひ、あなたの実践を教えてください。

 

出典・https://www.edutopia.org/blog/motivating-student-writers-audience-elena-aguilar

(この記事は、『教師のためのアート・オブ・コーチング』の著者エリーナ・アギラさんによって2011年2月18日に書かれた記事です。この記事やhttps://wwletter.blogspot.com/search?q=%E3%82%A2%E3%82%AE%E3%83%A9%E2%80%95の記事から、彼女がコーチになる前は、ライティング・ワークショップとリーディング・ワークショップの実践者だったことが分かります。)

2026年5月16日土曜日

書くための本から学ぶ読むためのヒント

『理解するってどういうこと?』の第9章の後半には「理解することで得られる成果」がまとめられています(表9.1347348ページ)。七つの理解のための方法によって私たちが経験する「成果」が、フィクション・ノンフィクションそれぞれ18ずつ掲げられ、「理解する」ことの何が私たちにとって「いいこと」になるのかということを示してくれます。その最初に掲げられているのは「書くために学ぶこと」。フィクションの場合は「すばらしい作家や詩人たちから学ぶ能力、作家の目で彼らの作品を読み、「作家の技」を自分の作品に取り入れる能力」が得られることが「理解のための方法」を使う「成果」だと書かれています。

 先日読んだチャック・パラニューク(池田真紀子訳)『創作のルール―最初の一行で読者を引きつける技法―』(早川書房、2026年)は、整備工から作家となったパラニュークさん自身が、書くことを通して手に入れた「作家の技」をわかりやすい言葉で余すところなく語った本でした。て読者を引きつけるために何が大切なのかということを、自身の創作経験にもとづいて述べた本です。

この本には、パラニュークさんが師と仰ぐ作家トム・スパンバウアーのレッスンで学んだ言葉が随所に引かれます。スパンバウアーの言葉を引いたあと、パラニュークさん自身のエピソードが語られ、そのうえで「きみがぼくの生徒なら・・・」と続く語り方は、とてもわかりやすいものです。たとえば次のように。


「トム・スパンバウアーは僕らにいつもこう言い聞かせた。「言葉は人間の第一言語ではない」

 きみが僕の生徒なら、きみ自身が毎日使っている、言葉を伴わないちょっとした身ぶりのリストを創りなさいと言うだろう。親指を立てるしぐさ。親指と人差し指で作る“OK”のサイン。思い出そうとして拳を額に軽く打ちつける動作。胸に手を当てたりもするだろう。ヒッチハイカーと同じように親指を立てても、その向きによててゃ「失せろ」の意味になる。(中略)きみが僕のせいとなら、そういうハンドシグナルを最低でも五十種類は挙げよと言うだろう。リストを作ってみれば、どれほど多彩な身ぶりを会話文に挿入できるか、つねに意識できるようになる。」(『創作のルール』33ページ)

 

 「言葉を伴わないちょっとした身振り」を「五十種類」挙げるというのは大変なことですが、これは私たちが意識的にあるいは無意識のうちに使う「身振り」を、自分のものでも他のひとのものでも思いだし、意識することになります。パラニュークさんの「きみが僕の生徒なら」の「生徒」は作家を志望する人ということなのですが、「言葉は人間の第一言語ではない」というフレーズは、作家の卵のための言葉に限りません。もう少し広く、人が人をわかろうとする時にとても大切なフレーズでもあると、私は思いました。このような記述が『創作のルール』の魅力です。「書くために学ぶ」ことではありますが、それはこの世界を「理解するために学ぶ」ことでもあるようです。

 本書中程からの「緊張」という章の冒頭では次のように書かれています。

「未完成のものに耐えられなければならない。書きかけの初稿であれ、登場人物の前に立ちはだかるできごとであれ、書きかけの原稿について、トム・スパンバウアーはよくこう言っていた。「未解決のものと長く向き合えば向き合うほど、それは自ずと美しい解決に向かう」(中略)きみが僕の生徒なら、緊張に対して抱くその居心地の悪さは理解できると僕は言うだろう。だがフィクションを書けば、自分の裁量のもと、しだいに高まっていく対立を体験できる。フィクションを書くことは、現実における緊張や対立に対処する助けにもなる。」(『創作のルール』107108ページ)

 「創作」論ですから、作家志望の読者に向けての言葉です。が、「未解決のもの」と長く向き合うことは、現実に生きていれば誰しもが経験すること。だからこそ、そうすることが「現実における緊張や対立に対処する助けにもなる」というふうに考えることもできます。こういうところは「創作」論にとどまらないと感じるのは私だけでしょうか。未解決のものと向き合ってそれにどのように対処するかに思い悩み「緊張」をおぼえることは、人生ではよくあることです。未解決な問題の解決策を試行錯誤することは、これから先の生き方を幾通りも考えざるを得ないことでもあります。言葉にするかどうかは人によって様々ですが、それは頭のなかでフィクションを書いては消し、書いては消しするようなもの。パラニュークさんの言葉はそのようにいかすこともできます。

 映画化もされた『ファイト・クラブ』や『サバイバー』『チョーク!』等、多くのベストセラーを生み出したストーリーテラーの書いた創作法の本(例に挙げられているエピソードの一つひとつが短い小説のようでもあります!)には、本や文章を理解するためのヒントになるところも少なくありません。

 

 「きみの書くものに、だらだらと当てもなく進み、挙げ句に尻すぼみになってしまう傾向があるなら、僕はこう尋ねるだろう。「きみの時計は何だ?」そして「きみの銃はどこにある?」」(『創作のルール』p.111

 

 パラニュークさんの言う「時計」とは「決められた期限に物語を強制的に終わらせ、その長さを制限するようなあらゆる要素」のことで、「銃」とは「序盤で導入されたあとは隠して、観客が忘れていることを期待する」もので「引き抜かれた瞬間、物語を一気にクライマックスへと押し上げる」もののことで、アントン・チェーホフの「第一幕で登場人物が銃を抽斗に入れたなら、最終幕でかならずそれを取り出さなくてはならない」という言葉に由来するものだそうです。よく「伏線回収」と言われるものに近いです。

「時計」は物語の時間を制限して緊張を高めます。「時計」が示されると読者はいつ何が起こり、どのような終わるのかを予測することができます。先行きに対する期待感とともに物語がどのような舞台で進んでいくのかということに一種の安心感を得ることができるでしょうから、かえって物語に没頭しやすくなります。プレビュー型の映画ではよく見られることです。「銃」の方は序盤で示された後は隠されてどこかの時点で引き抜かれるものですから、読者に「驚き」をもたらすものになります。

パラニュークさんはおびただしいほどの映画や小説の実例を取り上げて「時間」と「銃」を説明していくのですが、自分が読んでいる本や文章について「「時計」は何だ?」「「銃」はどう仕込まれているのか?」と問いかけてみることが、その本や文章を理解するためのすばらしいヒントになるのだと気づきました。書くための本から私が読むために学んだたくさんのことの、ほんの一つです。

 

2026年5月8日金曜日

生徒が読むのを好きになる12の方法

 読むことを好きになる心を育てるには、まず「読む理由」を与え、生徒が本にワクワクできるようにすることから始まります。

 

1.  読んだ体験をふり返る。

私たちは、楽しいと感じたり、価値があると思ったりすることしか続けません。子どもが「学びがあった」「物語に夢中になれた」といった前向きな読みの体験をしたときには、その体験を言葉にできるよう導きましょう。どんなふうに感じたのか、何が良かったのかを考えたり話したりすることで、「本を読むことは自分にとって良いものだ」という実感が心に刻まれ、また読んでみようという気持ちにつながります。

 

2.  オーディオ・ブックを聴く。

オーディオ・ブックには、たくさんのメリットがあります。読むために必要な「機械的なスキル」★はいったん脇に置いて、物語の展開や登場人物、声のアクセントに集中でき、物語の世界に没頭できます。読むことに苦手意識のある子にとっては、これはご褒美のような体験です。年齢に合った本に時々アクセスできるようにする方法としても効果的で、読書への興味を引き出すきっかけになります。

 

3. 読む理由を見つける。

目的が見えないことを、私たちは進んでやろうとはしません。
子どもたちが「なぜ読むのか」を考える機会をつくればつくるほど、読書への主体的な関わりが高まります。私が中学校で教えていた頃、毎年最初の授業で「Why Read?(なぜ読むの?)」という活動をしていました。生徒たちに「読む理由」をできるだけたくさん挙げてもらうのです。これがとても楽しくて、クラス同士で「どちらが多く理由を出せるか」を軽く競わせると、6年生らしいエネルギーが湧き上がりました。出てきた理由は教室の壁に一年中掲示していました。

  →『「読む力」はこうしてつける』の41~45ページ

 

4. 言葉へのワクワクを生み出す。

子どもと一緒に読むとき、毎回ひとつかふたつ「ワクワクできる言葉」を見つけてあげましょう。新しい言葉でも、使ってみたいと思う言葉でも、あるいは使わないかもしれない言葉でも構いません。音の組み合わせが面白かったり、気持ちや場所をぴったり表す言葉を見つけたりする喜びを味わわせます。その言葉を声に出して繰り返し、いろいろな文脈で使ってみる。ただ遊ぶように、楽しむように扱えば十分です。一度の読書で取り上げる言葉は多すぎないように。ひとつかふたつで十分です。読書とは、つまるところ「言葉」の世界なのです。

 

5. 男の子が必要とするものを学ぶ。

私が中学校で読みの指導をしていた頃、マイケル・スミスとジェフリー・ウィルヘルムの Reading Don't Fix No Chevys を読んでから、読む教え方が劇的に変わりました。この本のアイディアを実践すると、男子生徒たちの読むことへの興味と理解が一気に高まったのです。同じアプローチは、私自身の息子を育てる中でも役立っています。要するに、ノンフィクションや実用的な内容のテキストをたくさん提供することです。これが彼らにとって「読んでみたい」と思える入り口になり、実際に息子にも効果がありました。

 

6. 教育的なグラフィック・ノベルを読む。

子どもたちには、教育的なグラフィック・ノベルを含む、さまざまなジャンルの本を提供しましょう。特に人気が高く、非常によく書かれている作品としては、

  • Resistance(ナチスに抵抗したフランスのレジスタンス運動を描いた三部作)
  • Boxers and Saints(ボクサー反乱を描いたジーン・ルエン・ヤンの三部作)★★

があります。私の息子は、これらの作品を何度も繰り返し読んでいます。

 

7. 本を何度も読む。

多くの幼い子どもは、同じ本を何度も読んでもらうことが大好きです。この習慣は、子どもが大きくなってからも続けてよいものです。年長の子どもにも、同じ本を繰り返し読むことを「許可」してあげましょう。そして、再読する中でどんな体験をしているのか尋ねてみます。

  • 今回はどんな新しい発見があった?
  • 前とはどんなふうに見え方が変わった?
  • 今回特に良いと思ったところはどこ?

こうした問いかけが、読む体験をより深く、豊かなものにしていきます。

 

8. 子どもたちの意見を聞く。

子どもたちに、「どうしたら読むのをもっと好きになれると思う?」と尋ねてみましょう。読むことを好きになるプロセスに、彼ら自身を「主体的な参加者」として巻き込むのです。何にワクワクするのか、どんなときに読むのが楽しいと感じるのかを聞いてみると、驚くほど多くのヒントが得られます。実際、次の提案は、私が12歳の息子に意見を聞いたときに出てきたものです。

 

9. 物語について話す。

読み聞かせや一緒に読んでいるとき、途中で立ち止まって「今何が起きている?」と話してみましょう。登場人物について語り合ったり、次に何が起こりそうか予想したり、他の経験や本とつなげたりするのも効果的です。これらは基本的な「理解するための方法」ですが、同時に子どもを物語の世界に深く引き込む方法でもあります。

 

10. 読み方そのものを教える。

私が6年生を教えていた頃、「どうすれば生徒が読むのを好きになるか」をテーマに3年間のアクションリサーチを行いました。その中で意外だったのは、生徒に「読み方そのもの」を具体的に教える必要があるという発見でした。物語の面白さや言葉の美しさ、登場人物の成長、ノンフィクションから得られる知識――それらを楽しむだけでは不十分だったのです。子どもたちは、とても難しいことを好きにはなれません。だからこそ、彼らの読書レベルを把握し、読むスキルの抜けを埋める支援をする必要がありました。

 

11. “読者としての姿を見せる。

教師や保護者は、子どもの前で実際に本を読みましょう。読書について話し、なぜ読むのかを語り、自分の生活や世界と読んだことを結びつけてみせます。読むことが生活を豊かにしていることを、具体的な場面で示すのです。たとえば、レシピを読んで料理を作るとき、家具を組み立てるとき、インターネットで疑問を調べるとき――「読む力」がどれほど役に立っているかを自然に伝えられます。

 

12. 読書に関わるお出かけをする。

図書館へ校外学習に行く(保護者なら週末に一緒に行く)。本屋さんに行って、ただぶらぶらしながら本を眺める。歩きながら、子どもと一緒に「何が目に留まる?」「どのタイトルが気になる?」「どんな表紙が好き?」と話してみましょう。本の裏表紙を読んだり、ページをめくったり、普段行かない棚に迷い込んだりして、読書の世界を「探検」します。宝探しゲームのようにしても楽しいです。

  • 切手収集の本を探してみよう
  • 古代ローマについての本を見つけよう
  • 自分と共通点のある人の回想録を探してみよう

こうした遊び心が、読書への興味を大きく広げます。

 

最後に

あなたの生徒やお子さんにとって、どんな方法が読むことを好きになるきっかけになりましたか。ぜひコメント欄で共有してください。

 

出典:https://www.edutopia.org/blog/12-ways-nurture-love-reading-elena-aguilar

(この記事は、『教師のためのアート・オブ・コーチング』の著者エリーナ・アギラ―さんによって2016年2月12日に書かれた記事です。4月10日の記事の続編的な位置づけです。)

 

★これは、4月10日に紹介した10番目に書いてある「読むスキル」の方です。本に没頭するためにはもう一つの「理解(解釈)のための方法」を使いこなさないと、楽しんで読むができません!

★★ このシリーズ2冊の邦訳はありません。代わるものとして、

・『はだしのゲン』(中沢啓治)

・『マンガで読むナチスの時代』シリーズ 汐文社

・学習まんが 世界の歴史シリーズ(3つぐらいの出版社から出ている)

『マンガ版 100de名著』シリーズ(NHK出版)

・『学習まんが人物館』シリーズ(小学館) などがあります。

2026年5月2日土曜日

本を読むということは本の中身を記憶することではない

  「ジャックと豆の木」のジャックが語り手で、時折『おとなしいめんどり』のめんどりが茶々を入れるかたちで進行していく、レイン・スミスとジョン・シェスカの『くさいくさいチーズぼうや&たくさんのおとぼけ話【新版】』(ほるぷ出版、2019年)という絵本を読んだことがあります。本の扉に「とびら」と大きくひらがなで書かれていたり、「謝辞」が逆さまに印刷されていたり、その後には昔話を換骨奪胎した話が並んでいます(ついでに言うとカバーの背表紙のところには、めんどりがぶつぶつ言う台詞が赤い字で書かれていますが、カバーをとってみると本体の背表紙は絵柄は同じでもめんどりの言葉はありません)。スミスの文もシェスカのイラストもまるで人を食ったようなつくりで、読み返すたびに意外性にうたれます。この絵本を読むということは、同時に自分が知っていた昔話や物語の記憶を振り返りながら、読書や物語についての自分の思い込みや当たり前としていたことを考え直すことになります。

ポストモダン絵本の代表格として論じられることもあるこの本を訳した青山南さんのエッセイ『本は眺めたり触ったりが楽しい』(阿部真理子絵、ちくま文庫、2023年:1997年に早川書房から刊行された『眺めたり触ったり』を文庫化したもの)を読みました。

 青山さんのこの本も『くさいくさいチーズぼうや&たくさんのおとぼけ話』と同じように「読書」についての私の思い込みや当たり前を考え直すきっかけをたくさんもたらしてくれます。私の印象に残った本書のエピソードのいくつかを取り上げてみます。

 

1)読書は著者と読者との共作行為

  米国の作家レイモンド・カーヴァーの「九つの短編と一つの詩」をもとにつくられた映画『ショート・カッツ』を観た後、青山さんはカーヴァー作品を読んだ際の記憶とあまりにも違っていることに戸惑い、この映画をつくったアルトマンという監督の文章を読みます。そのなかの「中身は変更可能なのだ」「問題は、登場人物たちがいったい何者であるか」であり「ピーナッツ・バター・サンドウィッチの作り方の話をしていようが、隣人の殺し方の話をしていようが、話の中身は、この人物たちの感情や行動ほどには、重要ではない」という言葉に出会います(もちろん英語で、でしょう)。この体験を元に青山さんは次のように言っています。

 「本を読むというのは、本の中身を、読んだじぶんの感想に合わせて、デフォルメすることなのかもしれない。中身を忘れても、あるいは間違って記憶しても、それはそれで立派な読書なのかもしれない。/『ショート・カッツ』はカーヴァーとの共作である、とアルトマンはいいきっている。読書とは、きっと、著者と読者との共作行為なのだ。」(『本は眺めたり触ったりが楽しい』177ページ)

 自分が面白く読み終えた本について、その感想を内容も含めて誰かに伝える時のことを思い出してみれば、多くの人が思い当たることなのではないでしょうか。そうでなければ、読んだ本の面白さはおそらく他の人に伝わりません。『ショート・カッツ』も観たことがなく、アルトマンの文章にも触れたことがない私にも、青山さんの言っている読書が「著者と読者との共作行為」だという言葉は強く響きます。

 

2)本を交替で朗読して共有することの意味

  この本の中程では声に出して読むこと(朗読)の意義が少し長く語られます。私も昔読んで印象に残っている『読書する女』のことも出てきて嬉しかったのですが、その部分の終わり近くで、760ページもあるトマス・ピンチョンの『重力の虹』という小説を、室外で80人が40時間かけて順番に朗読する「朗読会」についての「ニューヨーク・タイムズ」誌の記事に触れられていました。青山さんはその記事を書いた編集者の言葉を引用しています。「野外で集団で本を、とりわけ大作を朗読すること」の「良い点」についてです。

 1)読むことがだれの重荷にもならない。

2)作品を外気にさらすことで、作品の毒気が駆除される。

3)読書は陰気な室内活動だという考え方に異議を唱える。

4)現代小説に特有の孤絶の雰囲気が軽減される。

(『本は眺めたり触ったりが楽しい』160ページ)

  トマス・ピンチョンの小説を読み通すことができていない私にとっても、この言葉は新鮮なものでした。80人集めるのは難しいかもしれませんが、時にはこのようにして、ひとりではどうしても難しすぎて読み通すことのできない本を声に出して朗読し、共有することで、「読書」や「本」についての考え方を見直すことができるのかもしれません(まったく文脈は異なりますが、1960年代の日本で作家・椋鳩十が提唱した「母と子の二十分間読書」もこの編集者の言葉通りの特徴をもっていたと思います)。

 

3)読書の記憶違い

  青山さんが一時期ある週刊誌で自分が読んだ新しい本のことを紹介するコラムを担当した時のことも印象に残りました。そのようなコラムを週刊誌に連載することがいかに大変なことかは想像に難くないことです。しかし、そのコラムを書く際に、青山さんは「感動しっぱなしではなくて、自分の心の文脈のなかであわただしくも整理した」ため、取り上げた本ことが「どういう本だったか、わりあいくっきりと頭に浮かぶ」とも言っています。そして次のように述べています。

 「本がおもしろかったとき、そして、その本のことをしばらく覚えていたいときは、ぜったい、他人に話したほうがいい。くわしく話したほうがだんぜんいいが、相手が聞いてくれないときは、おもしろかったよ、と繰り返し言うだけでもいい。でも、そのさいも、どこどこがおもしろかった、と細部にかならず言及する。細部は、一度インプットされると、記憶としてしぶとく生き残るからだ。(中略)もちろん、それでも忘れる。でも、忘れたり、ひょいとおもいだしたりしているうちに、本を読むということは本の中身を記憶することではない、と実感するようになる。」(『本は眺めたり触ったりが楽しい』184ページ)

  いま私も、青山さんの『本は眺めたり触ったりが楽しい』を読んで「おもしろかった」箇所を引用しながら書いています。引用するのは、そこの箇所の青山さんの言葉が私の心に残ったからです。上に引用した文章の「細部は、一度インプットされると、記憶としてしぶとく生き残る」という言葉に共感を覚えたから引用してそれについて書いています。そして実は『本は眺めたり触ったりが楽しい』のなかで印象深かった「細部」とは「読書の記憶違い」についての青山さんのエピソードです。

 青山さんが高校生の頃に、駅から自宅まで帰る途中で雨が降り出して「雨宿り」に立ち寄った「貧弱な」書店で、アンドレ・ジッドの『贋金つくり』の文庫版の上巻を買ったということが本書の177ページには書かれています。それを書いたのが1990年代。ところが2000年代に書かれた「文庫版の追記」では、同じく高校生の時に雨宿りで立ち寄った「貧弱な」書店で偶然出会い購入した本はジョン・スタインベックの『怒りの葡萄』の文庫版ということになっています。青山さんによれば「なぜ記憶が変貌したのかはわからない」のだが、出会った状況の記憶はそのままに『贋金つくり』が『怒りの葡萄』に「上書き保存」されたのではないかということ。しかもそのいずれもその後の青山さんにとっては大切な小説となったわけで、「体内にしみ込んだと思った読書体験」が鮮明であったと書かれています。

 ジッドの小説もスタインベックの小説も青山さんにとっては「体内にしみ込んだと思った読書体験」を喚起したことは間違いないことです。青山さんは「「高校生」「いきなりの雨」「貧弱な本屋」というアイテムは変わっていない。また、そのときそこで一冊の本に出会ったという事実もまったく変わっていない」と書かれています。いずれの小説も青山さんにとっては生涯でまたとない「出会い」を経験した本であったからこその「記憶違い」で、きっとどちらも真実なのだと思います。いずれも「体内にしみこんだと思った読書体験」をしたからこそ、二つの「現実」が記述されたのではないかと私は思います。「本を読むということは本の中身を記憶することではない」のですから。

2026年4月24日金曜日

読書感想文よりもはるかに楽しくかつ意義のある10の活動

2回前(410日)の記事では、「生徒を読むこと好きにする10の方法」を紹介しました。今回はその流れを受けて、「読書感想文の代わりになる10の活動」を提案したいと思います。私は読書感想文が好きではありません。本の理解を示す方法として効果的だとは思えませんし、読書の楽しさや味わいを深める助けにもならないと感じています。

そこで、生徒が本の理解を示しながら、楽しんで取り組める活動について考えてみたいと思います。ここで紹介する活動は、さまざまな学び方の生徒に合うように、また書くこと以外の力も伸ばせるように意図して選んでいます。私は一つだけの方法を提示してやらせるのではなく、生徒に本へ反応する方法を選んでもらっていました。つまり、次のようなリストを渡し、その中から自分に合う方法を選んでよい、という形で進めていました。

 

  グラフィック・ノベルづくり

生徒に、本の一部を選んで場面を絵で表現してもらいます。たとえば、物語のはじめ・中・終わりを示す3場面を描いて、出来事の順序を理解しているかを見ることができます。または、主人公がどのように変化したかを示す3場面を描く方法もあります。舞台となる場所の描写が豊かな本であれば、物語の舞台を絵で表すように求めると、生徒がどれだけ細部をつかんでいるかがよく分かります。絵を描くことは、生徒が細部を思い出したり、探したりする助けにもなります。そのうえで、絵の根拠となる文章を抜き出したり、線を引いたりするよう求めることもできます。

 

2 別の結末をつくる

生徒に「筋が通った別の結末」を考えてもらう活動です。これは、登場人物や物語の展開をどれだけ理解しているかを示す強い証拠になります。小説が面白いのは、結末がどうなるか分からないところにあります。その作家の文体を踏まえつつ、そこから少し離れて自分の結末をつくることはとても難しく、読書力の高い生徒にとっては刺激的な挑戦になります。

 

  続編をつくる

続編づくりは、多くの子どもにとって楽しい活動になります。私たちも本を読み終えたとき、「もっと読みたい」と思うことがあります。続編を考えることは、「このあと何が起こるか」を予想する機会になります。ただし、続編には筋が通っている必要があり、テーマや物語の流れの一部がきちんとつながっていなければなりません。同じ本を読んだ他の生徒がいれば、その続編が「もっともらしいかどうか」を判断してもらうこともできます。生徒は数ページの短い続編でも、短い章でも、あるいは一冊分の長さでも書くことができます。

 

4 登場人物の日記を書く

たとえば、ハリー・ポッターに登場するスネイプ先生は日記に何を書くでしょうか? 生徒は好きな登場人物を選び、その人物が書いたと想定して日記を数ページ(あるいはもっと多く)書きます。『グレッグのダメ日記』(ジェフ・キニー/作、ポプラ社)が好きな生徒であれば、その作者の文体をまねて絵を入れることもできます。この課題は、生徒がその人物をどれだけ理解しているか、また個人的な語りの文体をどれだけつかんでいるかをよく示します。

 

5 モノローグ(ひとり語り)を書く

主要人物でも脇役でも、その人物は何を語りたいと思っているでしょうか。どんな口調で、どんな言い方をするでしょうか。生徒はさまざまな方向に発想を広げることができます。この活動は、生徒がその人物をどう理解しているかを示す方法であると同時に、話す技能を練習する機会にもなります。

 

6 トークショーを開く

同じ本を読んだ生徒が複数いる場合、クラス向けにトークショーを行うことができます。それぞれの生徒が登場人物の一人を担当し、番組の「司会者」が質問リストを用意します。質問は「どうしてその行動をしたのか説明できますか?」「どんな後悔がありますか?」など、より深い思考を促す内容にします。教師が聞いているだけで、生徒がどれだけ本を理解しているかを評価することができます。

 

 作者への手紙を書く

もし本に強く心を動かされた生徒がいれば、作者に手紙を書いてみたいと思うかもしれません。「この出来事は実際にあなたの身に起きたことなのですか?」など、もっと知りたいことがあるかもしれませんし、本を読んで感じたことや考えたことを伝えたい場合もあります。作者から返事が届くことも珍しくなく、それは子どもにとってとても刺激的な経験になります。この課題は、生徒が本とどのようにつながり、どのように反応したかを把握する助けになります。

 

8 クラスメイト向けの書評(紹介文)を書く

これは文章で書いてオンラインに投稿してもよいですし、教室で口頭で共有する形でも構いません。この活動は、生徒が意見を述べたり、説得力のある書き方を練習したりする機会になります。

 

9 新しい表紙をつくる

本の別の表紙をデザインする活動は、絵を描くことが好きな生徒にとってとても良い課題になります。紙や色鉛筆などの道具を使ってもよいですし、デジタルの技能や環境がある生徒はデジタルで作成しても構いません。この課題は、実は「説得」の要素を含んでいます。私たちは本の表紙から内容を判断しがちなので、生徒は「自分がその本について抱いた考えや気持ちを、どのように一枚の絵で表現するか」を考えることになります。

 

10 読書ガイドをつくる

小説の巻末には、読書会で使うための質問が載っていることがあります。読書ガイドづくりは難しい課題ですが、他の人の話し合いを自分が導けるという点で、好きな生徒もいます。よい質問をつくるためには、本を深く理解している必要があります。読書会(ブッククラブ)の活動がある場合、生徒がクラスメイトにこのガイドを提供することもできます。

 

 これは、読書感想文の代わりになる活動のすべてではありませんが、生徒が読んだ本にどう反応するかについて考えるきっかけになればうれしいです。生徒に読書感想文に代わるどんな活動をこれまで提案してきましたか? これから試してみたい活動はありますか? ぜひコメント欄で共有してください。

 

出典: https://www.edutopia.org/blog/book-report-alternatives-elena-aguilar

(この記事は、『教師のためのアート・オブ・コーチング』の著者エリーナ・アギラ―さんによって2013年2月19日に書かれた記事です。)

2026年4月18日土曜日

自らの人生の作者となる

  現代文学理論を柔軟に論じた『文学をめぐる理論と常識』(中地芳和・吉川一義訳、岩波書店、2007年)を著したアントワーヌ・コンパニョンさんの『文学は割に合う!』(本田貴久訳、作品社、2026年)を読みました。「文学」の社会的有用性を多角的に論じたエッセイ集ですが、理解することが人生にもたらすものを考えるヒントに満ちたものでした。

 本書第10章の冒頭で、コンパニョンさんはマルセル・プルーストの「恥じることなく、やや悪意をこめながら、あらゆる業界において、文学は、企業の社長たちが言うところの「競争力にある強み」をもたらすのだ」という主張を取り上げています。コンパニョンさんはその「強み」を「レトリュール letrure 」というフランス語で表現しています。「レトリュール」とは「文学的教養」のこと。モンテーニュの「察する読者」(書物のなかにそれまでの自分が思いもしなかった意味を発見する読者)という言葉を手がかりに、本書で探究するのは「『察するレトリュール』、あるいは文学的コンピテンシー」だとされています。

 「レトリュール」は「文学的教養」のことですが、それに「察する」が加えられると能動的な意味が出てきます。「察するリトリュール」とは「それまでの自分が思いもしなかった意味を発見する能力」のことです。この概念をもとにすると、幼い頃から様々な物語を読み聞かせてもらったり、自分で読んだりして、人が身につけるのは、本や文章のなかにそれまでには自分が思いもしなかった意味を発見する能力だと考えることができます。この概念は、物語を聴いたり、読んだりすることの人生における意義を考えさせてくれます。

 書物のなかにそれまでの自分が思いもしなかった意味を発見する読者になり、そういう「察するレトリュール」を手に入れるために必要なのは何か。

本書の第15章にはコンパニョンさんの14歳の頃の『赤と黒』(スタンダール)の読書体験がそれを教えてくれます。

 『赤と黒』のある場面で、ジュリアンは本を夢中になって読んでいるところを父親に見つかり、殴られて、読んでいた大切な本(セント・ヘレナ島に流刑になったナポレオンの言動を書記役が記録した『セントヘレナ日記抄』)は小川に落ちてしまいます。そして父親は「この怠け者め! 製材機を監視すべきなのに、こんなくだらない本を読んでいる場合か? 夜、坊さんのところで時間を無駄にするときに本を読めばいいだろう」となじられます。

 コンパニョンさんはこのくだりを読んでいた夜に「わたしはジュリアンの側に立ちました」と述べています。仕事に忙しい人であるこの父親ではなく、下層社会に生まれながらすべてを読書から学んだジュリアンの側に立ったということです。その後の『パルムの僧院』や『リシュアン・ルーヴェン』の読書体験を踏まえて、自らの読書体験が先程触れたプルーストの人生と文学をめぐる意見に大切な。

 

「文学が本当の人生であるかのように文学に生きるのではなく、モスカ伯爵やルーヴェン氏のように、ジュリアンやファブリスのように、文学であるかのように、小説でも書いているかのように人生をまっとうするということなのです。」(『文学は割に合う!』129ページ)

「文学が本当の人生であるかのように文学に生きる」ことと「小説でも書いているかのように人生をまっとうする」こととは、読者のスタンスとして大きく違います。前者は文学作品のなかに逃避することだと言えるかもしれませんが、後者は違います。読書で得たことを人生の大切な記憶としながら、それを手がかりにこの現実を生きることです。読んでいることが既に唯一無二の人生を送っているということです。本を読むことによって生き延びる経験(lived through experience)をするとはこのようなことを指すのでしょう。そしてこの経験は、エリンさんが「我を忘れて集中し、思考するという経験に没頭し、まわりの世界が消え」「多くのことを学ぼうとして懸命に」なり、「自分の限界を超えようとする」「熱烈な学び」という理解の種類(『理解するってどういうこと?』74ページ)の成果でもあると考えられます。

コンパニョンさんの言う「小説でも書いているかのように人生をまっとうする」とはどういうことか。次のような考察が為されています。

 

「ようするに、生きるとは自分の人生を書くことです。ここから、多くの自己啓発書に採用されることになる「人生の作者となる、自身を書くAuthoring Life, Self-Authoring」というタイトルが出てくるわけです。「語り」という意味での文学モデルは心理学にあふれるほどあり、「人生」は「書くこと」だLife as authoringと定義します。英語の「書くことauthoring」という語を訳す際には、もともと「作者author」という名詞が動詞となり、それが現在分詞となったこの語を、フランス語で同様の操作をして得られるautheurisationという造語でしか対応させることができません。とにもかくにも、人間の振る舞いはテクストとして、もっと正確に言えば物語として理解されます。そして〈自己self〉、〈わたし〉は、物語の作者による語りによって構成された人工物となるのです。」(『文学は割に合う!』165ページ)

 

もちろん『文学は割に合う!』では「一見一貫性のある語りだとしても、よくよく吟味すれば、複雑なテクストへと姿を変えないわけではないのです」とも述べられていて、構成された〈自己〉の表面的な一貫性を疑う目をもつことの重要性も語られています。〈自己〉を語る物語の表面的な一貫性を疑いながら「人生の作者となる」ことを後押ししてくれるのが、他ならぬ読書(とくに、文学の)だというのです。

たとえば、プルーストの『失われた時を求めて』に出てくる「コタール博士」という医者は「教養も気配りも品格」もない人物ですが、自分の思い通りにならない事態に遭遇した時に、自らの「恩師」が同様の事態に見舞われた時の記憶を思い出します。彼の発揮した「察するレトリュール」について次のように述べられています。

 

「「輝かしいキャリアを積んだ」恩師のひとりを思い出し、苦しいときこそ明るく振る舞うことは、人生を演じること、人生を物語や小説、ドタバタ劇のように生きることであり、これこそが教訓です。語り手がある魅力的な女性との会話の機会を逸して落胆したときに、アルベチーヌは「落ち着いて、またいつでも会えるから!」となぐさめまました。人生は繰り返しの連続であり、「またいつでも会える」のです。コタール博士にしても、用心のため左右をよく見てから通りを渡るたぐいの人間ですが、恩師の教訓のおかげで、それなりの出世をはたし、自由になりました。教養がある者は、自らの人生の作者となります。」(『文学は割に合う!』215ページ)

 

コンパニョンさんの言う「察するリトリュール」とは生き延びる経験を可能にする教養のことです。「コタール博士」のように、それまでの自分が思いもしなかった意味をもたらす「記憶」の源泉です。たとえ本に書かれてあることが虚構であっても、それを読んで得たことは人生を生き延びるための「記憶」になります。しかしそのような教養は単語帳を片っ端から覚えるようなことでは得られません。コンパニョンさんが『赤と黒』を夢中になって読んだような、「熱烈に学ぶ」経験の繰り返しこそが「察するリトリュール」を人が手にするために大切なことなのです。そのようにして、それまでの自分が思いもしなかった意味を発見することができるとすれば、人生は豊かになります。「自らの人生の作者」になることができます。