2025年3月28日金曜日

作家の時間を通じて、子どもを見る

(全ての人物の名前は仮名です。障害特性や学習場面等にも、ある程度のフィクションが入っています)



作家の時間を通じて成長した夏彦くんと同級生たち

 卒業式が無事に終わりました。卒業生の夏彦くんが学んだ特別支援学級の黒板に、43センチに切ったリボンをさも意味ありげに貼り付けておきました。夏彦くんの最後の身体測定の身長から、1年生の4月に計測した身長を引き算した長さです。それを自分のおでこに貼り付けて下級生とふざけて遊ぶお兄さんは、卒業式でも普段通りに笑って教室の扉から旅立っていきました。卒業式が終わり夏彦くんがいない教室は、残った後輩が何事もなかったように朝の会を送っています。夏彦くんの机には、彼の幾つもの忘れ物が彼の代わりに座っています。


 前回、作家の時間の閉じ方で紹介した夏彦くんに贈る言葉は、卒業式を迎える教室の掲示物として、素晴らしいものになりました。一人ひとりの言葉と写真は、夏彦くんの目に映る学校の風景を想像したものになりました。特別支援学級の子どもたちは他者視点が苦手ですが、彼らなりに十分に活用して作られているように思います。ちょっとズレた感じもまた、彼らの持ち味が生かされた作品になりました。普段、自己表現の場として作家の時間を大切にしてきましたが、明確な相手のいる作家の時間もまた、子どもたちの個性が光る素敵な時間になりました。

https://wwletter.blogspot.com/2025/03/blog-post.html


 夏彦くん自身は、豊かな書き手として成長し、卒業していきました。夏彦くんは、「名探偵シリーズ」のようなタッチの推理小説が好きで、ミルキー杉山のような登場人物が出てきて、謎を解決する物語を自分でもよく書いていました。また、自動車が好きで、好きな車種などを紹介する作品も書きました。後輩やその保護者からファンレターをもらったり、学校司書の先生から褒めてもらったりして喜び、自分の可能性を探究してきました。作家の時間は、確実に彼を成長させてきました。読み書きを教える一教師として、本当に嬉しいことです。


作家の時間を通じて、子どもを見る


 さて、今回は、作家の時間で大切になる「子どもを見る」という視点について書こうと思います。私はこのテーマが好きです。作家の時間を続けている理由は、まさに「子どもをもっと知ることができるから」という点に尽きると思います。


作家の時間と箱庭療法


 私は学生時代に箱庭について学んだことがありました。箱庭とは、砂の入った箱に人形や動植物、建物などを自由に配置して、無意識の表現を通じて自己理解を深めたり、心理的な安定を図ったりする、心理療法の一つです。子どもたちは楽しそうに気持ち良い砂の感触を味わったり、好きなように人形や家具を並べて、子どもたちなりの物語を作り始めたりします。やっぱり、なかなか作り出せない子がいたり、ずっと砂の感触を味わうだけの活動になったりする子もいて、ただ、それを別に否定するわけでもなく、カウンセラー(私のゼミの先生)は一緒に同じようなことをしたり、言語化したりしていたことを思い出します。


 私は作家の時間に箱庭療法と似た感覚を覚えます。


 多くの子どもたちは、お話作りやお絵描きが大好きです。原稿用紙や自由帳、今はタブレットかもしれませんが、そこに人形や建物を配置していくかのように、思いつくままに物語を紡ぎ出していきます。中には、箱庭の砂の感触を楽しむ行動と同じように、鉛筆が白紙に美しく線を描く感触を体で味わう子もいます。書いては消して、書いては消してを繰り返す子や、まったく書かずに何かを考えて時間を過ごす子もいます。それでも、何かを作り出そうと悩んだり困ったりします。そうやって、自分と向き合おうとがんばります。

 箱庭と原稿用紙の違いはいろいろあるでしょうが、言葉を基本にして表現することや、箱庭よりも微調整や修正に手間がかかることが挙げられます。今はタブレットを使って作家の時間を行うことも多いでしょう。言葉の補助的な機能として絵や写真を活用しやすくなり、また、修正校正もしやすくなりました。より、箱庭の特徴に近い状況になっていると思います。(触感などの感覚を充足させることができるという点では、タブレットの作家の時間は劣っていると思います。大きな紙に自由に線を引いていく感覚はかけがえのない体験です)

 箱庭は支援者との信頼関係の上で成り立つものです。安心で安全な場であることを証明する存在が支援者であり、作った子どもの自己理解や気づきを、子どもに合うように言語化してあげたり、子ども自身が言語化できるように促したりする役割を果たします。

 同じように、作家の時間における先生の役割も、その役割を多分に担っていることだと思います。いきいきと表現する子どもたちだけでなく、悩みながら表現する子や表現しようとして消してしまう子でも、先生はしっかり見てあげたい。自分らしく完成できた子どもには、あなたの表現に心が動いたことを伝え、感謝し、一緒に祝えるような、そんな温かい関わりができたらと思います。また、いろいろな困難にぶつかってしまった子どもにも、次の表現活動のステップになるような励ましや、考え続けていた姿勢自体を認められたらと思います。

 たしかに、文章が誰かに伝わるように、目的や様式を理解し、きちんと書ける技術を指導することはもちろん大切です。国語という教科の上で実践している以上、適切に表現し正確に理解することは欠かせないことです。ですから、作家の時間を行う私を含めた全ての先生は、国語という教科への理解を深めていかなければなりません。

 しかし、技術の指導と同時に、子どもの表現を通じて子どもを認めるという視点を忘れてはいけません。かつての時代の先生が、それでも十分子どもとの関係作りができたのは、子どもたちの生活の中での他者との関係作りが多様で、先生以外の大人や社会との関係が十分に存在したからだと思います。家族や画面越しの他者との関係作りに終始してしまっている現代では、先生はもしかしたら唯一の社会との窓口となっている可能性があります。ともすれば、家族との愛着形成でさえ未熟な子どもも多くいるでしょうから、先生と子どもの関係作りはとても難しい時代になっているように思います。


自分を見られたくない子ども


 一方で実際に小学校高学年にもなると、「自分を見られたくない子ども」が確実に存在することも事実です。おそらくそれは、昔からそうでした。けれど、それがより早い時期に、顕著になっているように思います。もちろん、私自身もどうしたらよいか悩みながら、そのような子どもにも自己表現できる機会を作り続けていくようにしています。


 以前、ブログに書いた篤くんは、その一人だと思います。

https://wwletter.blogspot.com/2024/03/blog-post_22.html

 手先が不器用で鉛筆やタブレットを操作するのもどうしても乱雑になってしまいます。そのような理由から、創作すること自体は大好きなのですが、自分の不器用さを隠すようにしてわざと乱雑に書いたり、文章をぐちゃぐちゃにしました。それを誰かに伝わるように整った文章にしてあげようとすると、とても嫌がりました。

 一時期、先生に見られることを非常に嫌がり、書くことをやめてしまったことがありました。振り返ると、確実に私の関わり方の悪いところが出てしまったように思います。彼が表現したいことと、私が表現させたいことの溝が気になり、それを埋めようとして、強引な働きかけになってしまったことが原因だったように思います。「どうせおれは書けない。書きたいものがない」と繰り返しました。

 特別支援学級は特別ではありません。本来どの子も特別であり、一般学級の子どもも自分の特別さを隠すようにして学習することができ、ことなきを得ています。そうすることができない子どもたちが、もしも不適応をおこしたとすれば、もしかしたら一つの手段として特別支援学級で学ぶようになることもあります。一般学級であっても、篤くんのような子どもはどこにでも存在し、できるだけ見られないように息を潜めているか、または、注目を浴びるような行動を意図的に取ろうとしてしまうことでしょう。


「自分を見られたくない子ども」の不安な気持ち


 子どもたちは、小学校高学年よりも前にたくさんの大人に認められ励まされ、そして叱られて、有能感や劣等感と出会います。エリクソンのライフサイクル論にもある通り、昔からそうだったように思います。しかし、他者や世間に適合した体験ばかりが、成功体験であることを学びとって育っている子どもが多くなっているように思います。保護者の思い、先生の意図、友達の雰囲気に自分を適応できたことが、子どもたちにとっての成功体験で、逆に自分勝手に行った活動や冒険(探索活動)、遊びの経験は少なく、基本的自尊感情や探究的な意欲が減退しています。いや、非常に格差が開いているという表現の方が適切かもしれません。

 「見られても大丈夫な子ども」と「見られるのがダメな子ども」の二極化は開く一方です。見られても大丈夫な子どもは、これまで認められてきた体験のおかげで、誰しもが自然に持っている「見られることへの不安」をコントロールすることができます。「見られるのがダメな子ども」は高学年になって、不安をコントロールすることができず、自己表現しないという選択になりがちです。他者の価値観に適合させることに失敗してきた経験などから、不安感情をコントロールする力が未発達なままになっているのかもしれません。人に見られることを避けるようにマスクやフードをしたり、逆に自分も他者を見ないようにスマホに集中したり、「自分を見られたくない子ども」は困難さに直面しています。


作家の時間は、「見られたくない子ども」が自分を見せるチャンスをつくる


 でも、私は「自分を見られたくない子ども」が不安をコントロールする力を成長させるチャンスはまだまだ学校の中に作れるように思います。作家の時間は、「見られたくない子ども」が出せたほんの少しの自分を、先生が認めてあげられるチャンスです。教科書や学校の狙いが強すぎる学習になると、それは他者の価値観に適合した自分になってしまいます。それができなくて失敗経験を積んだ子どもなのですから、同じことの繰り返しになってしまうでしょう。

 そうではなく、作家の時間の作品作りのように、自分の窓をわずかではあるけれど一生懸命開けるきっかけを、学習の中で作りたい。もしかしたらそれは本当の自分が無意識にさまざまに防衛を働かせて変化した姿かもしれません。もしそうであったとしても、子ども自身の表現として自分を見せられたことを、先生は認めて(ときとして遠くから見つめて)、感謝して、一緒に祝うことが、「見られたくない子ども」が自分を見られる不安と向き合い、それと上手に付き合えるきっかけになるかもしれません。

 作家の時間には、子どもたちの多様性を内包する仕組みが備わっています。自分だけでなく、クラスの友達が自分の個性を活かした表現を行うことができるので、自分の表現が他の友達の表現と逸脱して不安になってしまう経験は少なくてすみます。他の友達がその子らしい表現をしていることも、自己表現を促すきっかけになることでしょう。

 また、作家の時間に、表現しない自由を認めることは、そういった意味でも大切なことであるように思います。「見られたくない子ども」が強制的に何もかも見せなければならないのなら、それはハラスメントに近い行為のように思います。もちろん、それが教師という仕事が行う指導と紙一重であることは重々承知しています。私たちの仕事は、平均台の上をゆらゆら歩くような非常に難しい仕事なのだと思います。


 篤くんの自己表現


 篤くんは作家の時間を続けています、今でもわざと意味不明な文字列を書いたりして私は「それは出版できません!」と押し返すのですが、それでも自分の作品を出版したいという気持ちは復活して、テレビ画面に自分の書いたイラスト(かなり個性的)を映して、口頭で伝えています。「モンスターハンター」というゲームの敵キャラについてやりとりしたことをきっかけに、それを説明するような作品を作りました。(彼が口頭で話したことを私が代わりにタイプしてあげる方法で作りました)

 篤くんが「見られたくない」理由は、他の人と同じように綺麗に書けないし、それをやろうとすると自分の自分のできなさが形になって現れてしまい、自分の気持ちがそれに耐えられないからです。だから、故意に意味不明な文字列にしたり、過剰にぐちゃぐちゃなイラストを描いたりします。篤くんが変わっていくためには、まず最初にその表現方法を認めていくことだと思います。

 篤くんがそれでも自己表現を続けていることを、私たちは大切にしていこうと思っています。篤くんを社会が求める言葉が使えるように正そうと指導することは簡単ですが、それは今の彼にとっては残酷なことであり、篤くんの自分を表現する機会を実質的に奪うことなります。篤くんが自立的な学び手として豊かに生きるためには、自分を表現することが楽しい、他者と共有して嬉しいという感情を、大切に大切に育てていくことが必要となります。彼がいくら他者との関係を作ることが苦手だとしても、社会的な様式を習得させるという押し付けの善意で、自己表現を通じて相手と繋がる喜びを奪ってはいけません。学校という場であれば彼を社会の圧力から守ることもできます。私たちは、篤くんが一生懸命書いた作品を通じて彼を理解し、どんな作品でも認め(そして部分的には押し返し)感謝し、一緒に祝っていくことでしょう。篤くんの学ぼうとする気持ちを育んでいこうと思います。




(生成AIを使って、うちの子どもの写真をイラストにしてみました。おもしろいですね!)


2025年3月22日土曜日

自分の時間をコントロールする

 ジョン・B・トンプソン著(久保美代子訳)『ブック・ウォーズ―デジタル革命と本の未来―』(みすず書房、2025年)という興味をそそるタイトルの本を読みました。ブック・ウォーズ。本についての戦争という意味です。現代に至る出版形態の変化・変容についてその多くのページが割かれています。

映画にもなったアンディ・ウィアーの『火星の人』(小野田和子訳、ハヤカワ文庫SF2015年)が、はじめは個人ブログで連載されたものであったけれども、ネットで話題になっていることが編集者の目にとまって公刊され、多くの読者を獲得し、映画化され、それもヒットしたことでさらに多くの人に行き渡ったというくだりは、現代における出版事情の一端を示しています。トンプソンさんが強調するのは、そうした現代における読み手と書き手の近さです。

「新たな世界では、読者は単なる読み手ではない。読んだ小説にコメントし、そのコメントを著者とほかの読者の両方に示すことができる。そしてさらに重要なのは、読み手も書き手になれるということである。」(『ブック・ウォーズ』520ページ)

 ウィアーももともと「読み手」でした。その彼が自らの生んだ物語によってベストセラーの書き手になるということは、シンデレラ・ストーリーというだけでなく、トンプソンの言う読み手・書き手の近さを象徴することです。

 ところが現代社会は多忙で、2024622日に取り上げた三宅香帆さんの『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(集英社新書、2024年)では、自分の時間を自分でマネジメントできなくなる状況が指摘されていました。そういった現代の読者の直面する難しい状況をどうすればいいのか。トンプソンさんは次のように述べています。

「現在の世界は、すばやい応答を求めるメールやメッセージの畳みかけるような通知音によって、つねにさまざまな方向に注意を逸らされる。読書によって私たちは、気を逸らされる浅瀬から出て、より深みのある世界に没入できるのだ。(中略)多くの人が生活が加速し、自分の時間がますます減っていると感じている世界で、読書は加速のサイクルから抜けでて、時間をふたたびコントロールできるようになるひとつの方法になる。」(『ブック・ウォース』620621ページ)

 その通り!では「時間をふたたびコントロールする」には具体的にどうすればいいのか。エリンさんは『理解するってどういうこと?』の第3章で。ヴァン・ゴッホの言葉を引用した後に、次のように言っています。

「情熱的な激しさで学ぶこと、周りがおぼろげな背景に退いてしまったかのような常態で学ぶこと、それが熱烈に学ぶということなのです。魅了され、心を奪われ、没頭させられるということもまた、熱烈に学ぶことであり、生きることなのです。熱烈な学びは、新たな本や文章やアイディアや興味関心から引き出される、たまたま生に応じた状況や予期せぬ結果として生み出されるものではありません。私たちにコントロールできないような何かがあるというわけではないのです。学習者は、熱烈になることを選択することができます。私たちは、自分自身に挑戦することや、常識的な解が存在しない難題や好奇心をそそる問題を選択することができるのです。情熱を持って理解したいという欲求に駆り立てるときには、特にです。

 しかし、年少の子どもたち、苦しい生活のなかにいる子どもたち、年齢を問わず、熱心になれない子どもたちがみな、熱烈な学習者になることができるのか、と不思議に思われるかもしれません。でも、疑いもなく、子どもたちは熱烈に学ぼうと決めることができるのです。もし、子どもたちが魅了される、心奪われる、没頭する、決意する、そして夢中になるといったことはどうすることなのかわかればです。もし、持続性と情熱をもって学ぶことがどのようなものであり、どのように感じられるかということを、実際に説明し示してくれる多様なモデルを持っているならばです。」(『理解するってどういうこと?』7576ページ)

 そして、エリンさんは「学校であっても家庭であっても、私たちは自分たちにとってとても重要なことを学ぶときには、完全に我を忘れるという経験をするのです」と言っています(『理解するってどういうこと?』102ページ)。エリンさんが言っていることは「子どもたち」のことだけではなく、現代の読者すべてにあてはまることのように思われてなりません。

 もちろん、読む時間を増やすことは容易なことではありません。しかし、エリンさんがの言う「完全に我を忘れて」世界を「熱烈に」理解することは、時間の長さの問題ではないのです。何かを「熱烈に学ぶ」ということ、熱烈に理解しようとすること、それができるかどうかということが、トンプソンさんの言う「加速のサイクルから抜けでて、時間をふたたびコントロールできるようになるひとつの方法」であることは確かです。『火星の人』を読んでいる時の私は我を忘れていました。ウィアーの物語に「魅了」され、「心奪われ」「没頭」し、「夢中」になって、自分の時間を「コントロール」していました。

 夢中になれる本と環境をどのように見いだすことができるのか。この世界を「熱烈に」理解する意思をどれだけ保つことができるのか。それが、トンプソンさんが活写する「ブック・ウォーズ」の時代に生きるための、シンプルでありながら確かな「方法」だと言えるのかもしれません。

 

2025年3月14日金曜日

「共有の時間」から「リフレクション」の時間へ (その3)~対話における「双方が変わる覚悟」

 「『共有の時間』から『リフレクション』の時間へ」[その1]は「子どもにバトンを渡し、リヴィジョン(推敲、書き直し、考え直し)に繋がる時間へ」(2025年1月11日投稿)、[その2]は「『グローバルな問い』の役割」(2025年2月14日投稿)でした。今回は[その3]です。

 前回の[その2]では、読み書きのワークショップでの学びを、「グローバルな問い」を活用して、他教科、社会で起こっていること、社会正義/公平性等の概念につなげていくことを考えました。その際、[その3]で、さらに考えてみたいと思ったのが、「社会正義は大切なので努力します」的な、教師が喜びそうな模範解答に生徒を誘導することを、どうすれば避けられるのかでした。

 このことに関わり、この間、何度も読み直していたのが、2024年8月17日の投稿「沈黙と対話」で紹介されていた、桑野隆氏の『生きることとしてのダイアローグ―バフチン対話思想のエッセンス―』(岩波書店、2021年)でした。少し時間をあけて読み直し、自分のこれまでのメモを見ていると、 「… 対話するからには、双方ともいままでとはちがう自分へと変わる覚悟も欠かせないのです」(89ページ)を、2回メモしていることに気づきました。私にとっては、教師の誘導を避ける鍵が、「双方が変わる覚悟」にあるように思いました。

 一見、誘導的にならないような「問い」を設定しても、「双方が変わる覚悟」がなければ、教師は変わらないままで終わることになります。そうなると、教師が良いと思っていることを押し付ける教条主義につながる危険もありそうです。

 興味深いことに、バフチンは、教条主義だけでなく相対主義も、「対話的ではない」と否定しています。相対主義については、バフチンのポリフォニーについて説明しているところで、桑野氏は次のように記しています。少し長いのですが引用します。

 「今日では、相対主義を好意的にとらえる傾向が強くなってきています。ほかのひとの価値観を認め、『いろいろあってもいいんじゃないか』という立場は、一見したところデモクラティックです。けれども本当にそうなのでしょうか。<差異>をそのままにしておくことは、じっさいには<差別>から目をふさぐことにもなりかねません。<差異>どうしの対話が必要ではないでしょうか。『みんなちがって、みんないい』や『ナンバーワンではなくオンリーワン』は、集団主義や『世間』から脱出する出発点としてはいいのですが、そこにとどまることなく、ちがっているものどうしの出会い、対話も欠かせません。

 いまのわたしたちにとっては、 『消極的』相対主義こそ、『独裁的』教条主義以上におそるべき主義ではないでしょうか。」(43-44ページ)

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 「双方が変わる覚悟」に関わり、桑野氏は次のようにも記しています。

「対話する両者のあいだにあらたな意味が生まれるという意味での<創造的対話>の重要性については、おおくの方が賛同できると思いますが、そのさい、『自己がすでにいだいている見解や立場を変える、あるいは放棄する可能性を排除してはならない』としたら、どうでしょうか。

 やはり対話はさけたほうがよさそうだ、とおもうひともいるかもしれません。けれども、こうした対話こそががほんとうは実りおおいのです」(108-109ページ)

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 『生きることとしてのダイアローグ―バフチン対話思想のエッセンス―』で、桑野氏は、氏にとってのバフチンは、「まず第一に、わたしたちをとりまくさまざまな問題をかんがえるさいの拠り所」(160ページ)であるととしています。

 私は『生きることとしてのダイアローグ―バフチン対話思想のエッセンス―』を、「リフレクションの時間での教師の誘導を避ける」以外の、さまざまなことに関連させながら、読んでいることに気づきました。さまざまな問題について視点を与えてくれました。

 バフチンを初めて読んだのは、大学院時代です。「難しい!」と思いつつも、強く強く惹きつけられました。そんな感覚を思い出しながら、当時と現在の、断片的な理解をつなぎ合わせつつ格闘?するような時間で、それも面白かったです。

2025年3月7日金曜日

「文字なし絵本」という、優れた教材

  現在、シンガポールのインターナショナル・スクール★1 で英語(日本の国語)と社会科を教えているケリー先生の実践を紹介します。

◆ ◆ ◆

 絵本はもはや小学校入学前の児童に限定されるものではありません。小学校の教師はもちろん、中学校の教師たちも、絵本がすべての学習者にとって受け入れやすく、テキストを素早く共有する方法として便利であり、あらゆるテーマに対応する絵本があるため、とても重宝しています。なかでも、私のお気に入りは文字のない絵本です。

私は授業で文字のない絵本を使うと、生徒たちをさらに深く考えさせることができるので好きです。なぜなら、生徒がすべての読解を自分で行えるからです。また、文字のない絵本が提供する、自由さと解釈の幅の広さが私は大好きです。

文字のない絵本は、「一人ひとりをいかす教え方」★2 にも役立ちます。生徒一人ひとりが自分のレベルでテキストに取り組むことができるのです。まだスキルを学んでいる段階の生徒にも取り組みやすいですし、もっと深く掘り下げていける生徒には素晴らしい挑戦と深みを提供します。

 文字のない絵本が、私の教育実践を向上させている4つの方法を紹介します。

1. 推測のスキルを向上させるのに最適

推測は、生徒が読むテキスト(本や文章)を理解し、より深く探究する際に重要な読解スキルの一つ★3 です。文字のない絵本は何が起こっているのかを意図的に文章で説明しないため、生徒はイラストに注意深く目を向ける必要があります。話し合いの際は、自分の推測を見たものから得た証拠を使って説明し合います。

文字のない絵本には、詳しい絵が描かれており、じっくりと観察することを促します。推測するスキルに最適な指導用テキストの一例は、Rogerio Coelho作の『Boat of Dreams(夢が詰まった船)』★4 です。この絵本は複雑なプロットをもっており、簡単には説明できず、議論の余地が多い内容です。なので、生徒たちは(大人も!)イラストを使って自分の考えを支持しながら、その解釈や理解をつくり出すのに長い時間をかけることができるでしょう。

2. 語彙(言葉)の使用を強化する

生徒は、文字がない絵本のプロットを再話し、学んでいる語彙を使うことに挑戦できます。さらに難易度を上げるために、生徒は物語に直接関連しない語彙(言葉)リストを使うこともできます。例えば、Daniel Miyares の『That Neighbor Kid(近所のあの子)』という、隣の男の子と一緒にツリーハウスを作る話を再話する際に、どれだけ多くの科学用語を使えるか挑戦することができます。これまで習った語彙リストを使わせることで、その語彙の意味を強化することができます。

さらに、この活動を発展させるために、生徒に「本にあったらいいなと思うイラストは何か、そしてその理由は?」と尋ねることもできます。この活動で、文字のないテキストと語彙(言葉)とのつながりを深めることができます。

3.描写的な文章を書くためのインスピレーションを得る

文字がない絵本は、クラスで描写的な文章を書くためのきっかけになります。書くアイディアを思いつくのが困難な生徒にとって、プロット、設定、キャラクターはすでにイラストによって提供されているので、生徒たちはストーリーを美しい言葉や対話で埋めることができます。

書く指導をする教師に人気のあるクリス・ヴァン・オールズバーグの『ハリス・バーディックの謎』★5 は、14枚の無関係なイラストと、それぞれに付けられた一行のテキスト(文章)が特徴です。これらの絵とキャプションは魅力的で、読者がその周りに物語を創りたくなるような刺激を与えます。私は教室の中にそのイラストをいくつか貼り、生徒たちに自分が魅力を感じる絵の前に座って、物語を書かせるようにしています。同じ絵が異なる人々に異なるインスピレーションを与えるのを見て、生徒たちはいつも楽しんでいます。★6

4.英語を学んでいる生徒の言語スキルの向上

英語を学んでいる生徒がスキルを向上するために使える文字がない絵本はたくさんあります。そのなかでも最も効果的な絵本は、年間を通して繰り返し参照でき、話し合いに詳細と深みを加えることができます。Anne-Margot Ramstein Matthias Aregui の『Before After(前と後)』は、クラスの図書館に加える価値のある一冊です。

この本は、簡単な見開きページに描かれたテーマ(材料とケーキ)から始まり、次第により複雑なテーマ(時間の流れ、都市開発など)に進んでいきます。この本は、授業の導入として使うことができますし、生徒たちが自分自身の「前」と「後」のイラストを作成し、それを説明し合うという授業の一環としても使うことができます。

絵本の選択

どの文字のない絵本を使うかは、どうやって決めるか? 幸いなことに、絵本をざっと見て、授業内容やクラスの子どもたちに適したものを選ぶのに時間はかかりません。使い勝手がいい絵本のタイトルをいくつか紹介します。

・『漂流物』デイヴィッド・ウィーズナー作 (この人も、文字なし絵本の作家です!)

・『ジャーニー 女の子とまほうのマーカー』 Aaron Becker(旅の3部作の1作目)

・『The lion & the mouseJerry Pinkney

・『Float Daniel Miyares

・『Bluebird Bob Staake

・『The Farmer and the ClownMarla Frazee

・『ズーム』Istvan Banyai(続編もあり)

・『PoolJihyeon Lee

・『アライバル』Shaun Tan(日本で多数出版されています)

・『MirrorJeannie Baker(『森と海のであうところ』が日本で出版されています)

・『Free the LinesClayton Junior

 あなた自身も、お気に入りの文字のない絵本を含めて、授業での使い勝手がいい絵本をぜひ探してみてください★7。また、絵本探しを楽しむだけでなく、ぜひ、その活用の仕方を考えることも楽しみ、そしてその結果(あるいはプロセス)を教えてください!

 

★1 日本にあるインターナショナル・スクールも同じですが、各国にあるインターナショナル・スクールはIB(インターナショナル・バカロレア)やリーディングやライティング・ワークショップの実践を含めて、世界基準で最先端の取り組みをしています。

★2 生徒は各自、そのもっている知識、情報、体験、興味関心、こだわり、読み/読解のスキル、学び方や学ぶスピード、レディネス等々が違います。それらの違いを踏まえた教え方として開発されたのが「一人ひとりをいかす教え方」です。『ようこそ、一人ひとりをいかす教室へ』『一斉授業をハックする』『教育のプロがすすめる選択する学び』などを参照してください。

★3 「推測する」以外の読むスキルは、関連づける、質問する、イメージを描く、何が大切かを見極める、解釈する、読みながら修正するなどです。これらの身につけ方/練習の仕方については、『「読む力」はこうしてつける』と『理解するってどういうこと?』が参考になります。(※『「読む力」はこうしてつける』の巻末には、これらのスキルを練習する際に使える文字なし絵本を含めた絵本のリストが多数紹介されています。)

★4 この記事で紹介されている絵本は、文字がないか、あっても最低限なので、日本の出版社が出したものではなく、海外の出版社が出したものでも使えます。

★5 クリス・ヴァン・オールズバーグの他の絵本も、すてきな文字のないものばかりです。

★6 実際のこの絵本から、刊行25周年記念にスティーブン・キング、ルイス・サッカー、ロイス・ローリーなどの著名な作家たちの物語が収録されている本が出されました。『ハリス・バーディック年代記 14のものすごいものがたり』です。

★7 「文字がない絵本」や「文字なし絵本」で検索すると、たくさんの対象となる絵本が見つかるはずですし、公立図書館などの司書さんにも尋ねてみてください。

出典: https://www.middleweb.com/37177/4-ways-to-teach-with-wordless-picture-books/

2025年3月1日土曜日

祝って、眺めて、次の子どもにバトンをわたす 〜作家の時間の閉じ方アイデア集〜

(全ての人物の名前は仮名です。学習場面にも、ある程度のフィクションが入っています)



 1年生が植えたチューリップの球根はまだ何の変化もありません。にこにこ笑顔のチューリップが4つ並んだプレートは、いまかいまかとチューリップの芽生えを待っているかのようです。

 さて、特別支援学級の作家の時間もクライマックスを迎えています。今年度は、「卒業生に贈る言葉」というユニットを計画しました。

 このブログで連載しているいつもの教室では、3月に卒業する夏彦くんが、一人黙々と卒業制作の木工ケース作りに取り組んでいます。私は夏彦くんをまだ2年生だった頃から見ていますが、一年間じっくり関わったのは今年が初めてでした。夏彦くんは成長し6年生になり、なんと栽培委員会の委員長に立候補し、一年間見事やり遂げました。リーダーシップに長けた6年生です。もちろん、特別支援学級のみんなからも信頼は厚く(ちょっとナイーブなところもありますが)、優しいお兄さんとして学校生活を送りました。彼に贈る言葉というのが、今回のテーマです。

 特別支援学級に在籍する子どもはこだわりが強く、自分の書きたいものへのこだわりも相当です。いくら夏彦くんのためといえど、自分の作家の時間に書きたいものを諦めて、夏彦くんのために時間を使うということは、彼らにとっては大きな試練でした。しかし、夏彦くんが大きな存在だったこともあり、これはチャンスであると考えています。大切な人のために、真剣に考え、言葉をつないでいきます。どんな言葉が紡ぎ出されるか、これからが楽しみです。



作家の時間を「閉じる」とき、どんなことをしたらよい?


 さて、1年間作家の時間に取り組んで、4月に始めた作家の時間を3月にどのように閉じたらよいかと、思いあぐねている先生も多くいると思います。今回は、作家の時間の閉じ方について、考えていこうと思います。

 作家の時間を新しく始めたい先生のために書いた記事もあります。ぜひ来年度から挑戦したい先生は、こちらのリンクを参照してください。

https://wwletter.blogspot.com/2024/04/blog-post_26.html


 1、これまでの作品を集めて個人全集を作る


 図工などの作品を返却せずに年度末まで保管しておいて、貯まった絵をつなぎ合わせて作品集を作る実践をされている方もいるのではないでしょうか? この作品集の作家の時間への応用が、この「全集作り」です。完成まで行き着いた原稿、未完の原稿、作家ノートなどもすべてを綴じて表紙をつけて、手渡します。製本テープや表紙用にちょっといい紙なんかを用意すると、子どもの気分も高まるでしょう。

 僕の場合は、ただ返すのではなく、ギャラリーウォーク(机上のブックスタンドに作品を立てて、美術館風に仕立て、付箋紙のメッセージを貼る)で付箋に「いいねメッセージ」をつける時間を用意していました。この取り組みで子どもの中には、自分の成長を感じられる言葉も出てきます。そのような自分への気づきを認め、変化できたことを祝います。


 2、ポートフォリオに入れる


 全集の中から一つだけ取り出して、ポートフォリオに入れます。私は作家の時間に限らず、学校生活全体でポートフォリオを作っているので、今年度も作った作家の作品からお気に入りの作品をポートフォリオに入れていました。おうちの方が書く「がんばったねカード」を用意し、ポートフォリオの最後のページに入れたこともありました。今はキャリア・パスポートが似たような役割を担っていますが、子どもたちのエイジェンシー(自分の取り組んだ学習を自分のものとして捉え大切にする意志)で比較すると、キャリア・パスポートとは格段に子どもの喜び具合が違います。


 3、本屋を開く


 作家の作品を廊下や図書室に並べて、本屋を開きます。私は年度末にこれをやったことはないですが、ユニットの最後に廊下に並べてみんなで祝ったことがあります。学年でノンフィクション・ユニットに取り組んでいたときに行いました。長い廊下に色鮮やかな表紙が並び、本当の書店に引けを取らない豪華な書店になりました。また、ペア学年のクラスと協力して同時に書店を開き、お互いの書店を訪問しあったこともあります。年度末に限らず、ユニットの閉めにも効果的な方法の一つです。


閉めるときには「祝う」・「眺める」


 ここまで書いた閉じ方のアイデアに共通する考え方は、「祝う」こと「眺める」ことです。

 「祝う」という感覚は、日本の学校文化ではまだまだ発展途上な感覚かもしれません。ライティング・ワークショップに関する英語の本の中には、お菓子を持ち寄って祝ったり、家族も学校にきて一緒に祝ったりする情景が描かれています。それほど、祝うということが重要視されているということでしょう。「祝う」は、評価される環境の中では生まれにくい感覚ですし、書くことを苦役と捉えていると成立しません。やりがいのあることを達成したときに、みんなで同じような気持ちになって、満足感を共有します。もちろん、誰もが満足な出来栄えになるとは限りません。けれど、それも一緒に分かち合い、次の作品づくりへのエネルギーに変えていけるような機会を、祝うという行為から生み出します。自分で決めて、自分で取り組んだ学習が、結果はどうあれ一つ形になったということは、本当に喜ばしいことです。「がんばったね」「ありがとう」と、子どもを心の底から認められる機会になることでしょう。

 「眺める」とは、自分の書いたもの全体を俯瞰してみるということです。自分の変化に気づき、次の成長へのゴールを探すことになります。3月は作家の時間を閉じて、自分の作品を綴じるときになります。走り続ける作家は、立ち止まることを疎み、ともすると自分を省みる機会をつくりにくいかもしれません。ユニットの切れ目はもちろんですが、常設的な作家の時間を続けていたとしても、夏休み前、冬休み前、年度末と、しっかり区切りを設けてあげることも、作家の時間には大切なように思います。


 ※私の作家の時間は、特設型ユニット(詩や表現など)をつく作ったとしても、子どもたちは自由創作の場である常設型の作家の時間を年間を通して続けています




来年度の作家の時間で学ぶ子どもたちに向けて


 私がかつて行っていた年度末の大切な活動の一つに、来年度の作家の時間に取り組む子どもたちのために行う活動があります。これもいくつかのバリエーションがあります。


 1、来年度の子どもたちのために、手紙を書く


 「・作家の時間の一番の思い出」「・作家の時間での苦労や失敗」「・作家の時間のマル秘テクニック」など、黒板にアイデアを書いておいて、来年度の作家の時間で学ぶ新しい作家たちのために、手紙を書いてもらいました。相手のために書いているようで、実は自分の振り返りになるという仕掛けでしたが、本当に次の作家の時間を実践する子どもたちに読ませることができました。(もちろん、作家の時間を体験する前に読むので、うまく捉えられない子が多いですが、それでも楽しみ!という気持ちは高まります)


 2、グループ・インタビューを録音する


 まだ録画など気軽にできなかった頃の実践です。手紙を書くのではなく、来年度の子どもたちのために、グループインタビューを録音しました。子どもたちは先生が前にいるにもかかわらず、割と本音で作家の時間の「よいところ」「気をつけるべきポイント」など、話し合ってくれました。「先生は教えすぎるので注意!」とたしなめられたこともありました。手紙を書くときよりも、より本音が出るので、子どもたちのリアルな感想を聞くことができました。

 生の声には、文字情報にはない不思議なパワーがあります。本当に楽しんでいる子どもの声の力は、他の子どもを動かしていきます。


 3、作家ノートをもらう


 良いノートを書いている子などには、その作家ノートを頼んでもらっていました。作家ノートはその子どもの個性が詰まっていて、こちらの研究材料になりますし、子どもたちが見れば、楽しそうなエネルギーに満ちたノートなので、ワクワク感が高まります。また、作家ノートの取り方で悩んでいる子には、(例えば、ぐちゃぐちゃでもいいんだ!など)とても参考になりました。ただし、作家ノートは思い出のノートなので、先生にあげたくないという子もいますので、ちゃんと子どもの声を聞く必要があります。


子どもの生の実践は、子どもに響く 


 先生の「作家の時間は楽しいよー」よりも、子どもが創り出すことを楽しんだ作品、作家ノート、インタビュー、手紙などは、本当に強力です。子どもの声は、子どもの心に響くからです。子どもたちの学習成果は、次の子どもたちの教材になっていきます。その教材群やカリキュラム、支援の経験が蓄積して、教師の厚みとなっていくように思います。今年度、作家の時間にチャレンジした先生方は、来年度に向けて、大きな一歩を踏み出せるアドバンテージを得ています。子どもたちのリアルな実践を蓄積して、次の子どもたちにバトンを届けていきましょう。




先生自身も「祝って」、「眺めて」、「バトンをわたす」を忘れずに


 一年間、お疲れ様でした。作家の時間に勇気を持って取り組めた先生も、もしくはいろいろあって取り組めなかった先生も、大変なご苦労があったことと思います。まずは、ここまでやれた自分を「祝って」あげてください。もちろん、「眺める」につながるよい祝い方ができると、より良いと思います。来年はどんな作家の時間をしたいですか? 今のうちに、メモやブログに書き留めておいたり、来年度の学年が決まり次第、3月のうちに年間計画を作ったりするのもよいかもしれません。また、良い実践仲間がいたら、一緒に計画を作るのもとても楽しいことです。

 作家の時間のバトンを渡せる先生もつくれるといいですね。「早くいきたければ一人で、遠くまで行きたければみんなで」のような諺もあります。一緒にやれたらいろいろなアイデアをもち合えますし、一緒の職場ならば、喜び合うこともできます。

 自立的な学び手を育てるために、作家の時間はあります。自立的な学び手には、子どもだけでなく、先生であるあなた自身も含まれていることを、忘れないでください。


(写真は長野県 湯の丸高原や烏帽子岳周辺の風景です。一人で行けば早く行けますが、一緒に行けば遠くまで行けます。)

2025年2月22日土曜日

自分の「声」を育てる

 アントン・チェーホフに、私自身それほどこだわりはなかったのですが、なぜかチェーホフを扱った本を先月に続いて読むことになりました。キリン・ナラヤン著(波佐間逸博訳・梅屋潔訳『文章に生きる―チェーホフと、エスノグラフィーを書く―』(新曜社、2025年)で、『理解するってどういうこと?』と同じく新曜社から今年のはじめに出た本です。

 「エスノグラフィー」は、一般的に「民族誌」と訳される言葉です。著者のナラヤンはインド出身でアメリカの大学で教えている人類学者。その人の本のタイトルがなぜ『文章に生きる』なのかと思って読み進めると、この翻訳書タイトルの意味がよくわかりました。5章構成でそれぞれ「ストーリーとセオリー」「場所」「人」「声」自分」と見出しが付けられています。冒頭の「本書にようこそ 文章に生きる」には次のように書かれていました。

 「書くことを通して、生きるという営みに対する共感が自然に育っていくし、人の認識は正確な言葉の選択によって鍛えられていきます。自分のイメージや洞察を遠くの読者まで届けることができるかもしれません。この本には、ライティング・エクササイズが含まれています。これらは、自己の内面を深く掘り下げていく思考と、自分の考えや感情を他者に伝える技術を同時に鍛えます。」(『文章に生きる』ixページ)

  一文目と二文目に、本書が『文章に生きる』と題された理由が書かれています。「生きるという営みに対する共感」という言葉になるほどと思いながら、昔読んだチェーホフの短編「牡蠣」のことを思い出していました。この小説に登場する少年の並外れた想像力にはとても強い印象が残っています(『新訳 チェーホフ短編集』沼野充義訳,、集英社、2010年ほかで読めます)。その根底に私が感じたのも「生きるという営みに対する共感」だったからです(ただ、『文章に生きる』には「牡蠣」のことは出てきません。むしろ村上春樹『1Q84』を連想させる『サハリン島』のことがたくさん出てきます。)。

 三文目にある「ライティング・エクササイズ」はむしろ『文章に生きる』の最大な特徴だと言っていいでしょう。最初の三つだけ「エクササイズ」を引用させてください。

 「「私がいちばん書きたいのは・・・・・・」につづく文章を五分以上書き続けてください。」

「作品の中で使おうかなと考えている素材を思い浮かべ、その中からぱっと目に浮かぶ二、三のイメージをざっと書き留めてみましょう。少なくとも五分間は書き続けてください。」

「「私が一番読みたいものは・・・・・・」に続く文章を書きましょう(二分以上)。」

(『文章に生きる』911ページ)

  最低12分間で、自分が書こうとする文章の骨格が見えてきます。エッセイでも小説でも論文でも、書こうとする人の意思が具体的に表現されるところがとても大切に思います。そしてこの「エクササイズ」で書いた文章を、当の書き手が何度も読み直すことができ、それを変換していくことができるというのも重要です。

 「自分の声を育てる」という一節も私の印象に残りました。早朝にたった一音を繰り返し練習し「自分の声を見つけるのが何より大切なんだ」と説いたヒンドゥスターニー・クラシックの名歌手シーラ・ダールの言葉を引いた後に、ナラヤンさんは次のように書いています。

 「私はこの一節を何度も読み返しながら、完璧な音の線を、開かれたコミュニケーションの流れとして考えてみました。ただひたむきな練習だけが、自己の認識を強化することだけが、線を、「探究すべき領域」にまで拡張することを可能にします。ヒンドゥスターニー・クラシック歌手の孤独な音の探求は、作家たちが個々に実践している、外部の要求から個人の時間を守るためのルーティーンを思い起こさせます。(中略=引用者)私の場合、トレーニングとしてできるだけ毎朝、ノートに手書きで少なくとも一ページの文章を書いています(いつもちゃんとできるわけではないです)。ノートにはどんなことを書いてもかまいません。なにしろ自分自身と向き合うための方法なのです。この孤独で内面的な書き込み練習は思考、イメージ、感情、物語を整理するのに役に立っていると私は感じます。日々めくるめく渦のように変動する内的テーマにしっくりとなじむ言葉を見つけるトレーニングは、よりのびやかで自信に満ちた声を鍛え、他の人に向けて文章を書くための声をもたらしてくれていると実感しています。」(『文章に生きる』161162ページ)

  この引用後半に書かれているナラヤンさんの「ルーティーン」のことを読むと、エリンさんが書いた次の一節のことが思い出されます。

「ガレアーノの文章を読んだその夜に、私はこの短い一節を書きました。その夜私は大きな助成金の申請書を書くはずでした。翌日が申請書の締め切り日で、その準備のために何時間も集中する必要があるとわかっていました。しかし、この本に誘いこまれて読み終えると、私はこの文章を書かないではいられなかったのです。この文章を読んでいるあいだの自分の思考を忘れたくなかったからです。申請書作成の責任感は頭の片隅に押しやって、音楽をかけ、ガレアーノと自分自身の言葉に没頭しました。後悔などしていません。結局、助成金の申請書も書き上げ、自分の思考を書き上げる時間も手に入れましたが、それから6年経ってみると、私の宝物になったのは、後者のほうでした。何年もあとになってネルーダについてこうして書くことなど思ってもいませんでしたが、ガレアーノのエッセイとこのノートを読み返して、この詩人についてより深く理解することができたのです。時間をどう使うか、私たちは毎日判断をしています。そして私は思うのです。何がもっとも長く残るのでしょうか。毎週一人が費やすほんのわずかな貴重な時間に自分が焦点をあてるべき価値のあるものとはいったい何なのでしょうか? 何を「招き入れ」、何が私たちをほんとうに換えてくれ、行動を起こさせ、共感の助けとなるのでしょうか?」(『理解するってどういうこと?』280281ページ)

  ナラヤンさんの言う「声」とは「書かれた言葉の背景に感じられる存在やメッセージ」(『文章に生きる』137ページ)のことです。エリンさんがここに書いていることは、ナラヤンさんの言う「よりのびやかで自信に満ちた声を鍛え」「他の人に向けて文章を書くための声」を見つけるためのエクササイズのことだったのではないでしょうか。それは、ネルーダという詩人や彼について書いた友人ガレアーノの言葉を深く理解するためのエクササイズでした。「自分の声を育てる」ことは、自分と他者と世界を深く理解することに確実につながります。『文章に生きる』は、そのような「理解の種類」を浮かび上がらせてくれる本でした。そして、「生きるという営みに対する共感」で貫かれたチェーホフの作品群がそれを伝える格好のモデルだということも教えてくれます。

 

2025年2月14日金曜日

「共有の時間」から「リフレクション」の時間へ (その2)~「グローバルな問い」の役割

  今回は、2025年1月11日の投稿「『共有の時間』からリフレクション』の時間へ (その1)」に続く(その2)です。今回は、リフレクションの時間での「グローバルな問い」(global questions)の役割について、 前回(その1)と同じ本『The Literacy Studio』(★1)の、主にReflection の章(174-196ページ)から考えます。

 前回(その1)では、1) 他の子どもに教えることもリフレクションの時間の一つの選択肢であり、教える子どもにとっては知識やツールの定着となり、教えられる子どもにとっては新たな知識やツールの獲得となること、2) 読み書きにおける自分の学びを共有することで、これまでに自分が学んだことのリヴィジョン(書き直し、読み直し、考え直し)、つまり知識や視点の改変や再構築(★2)につながることを考えました。

 今日(その2)の「グローバルな問い」(global questions)は、自分の学びを、今読んでいる本や今書いている作品だけにとどまらず、他教科での学びや教室の外、あるいは社会正義や公平性といった概念の理解など、新たな地平に向かって後押ししてくれるというものです。

 私は、A) 短いリフレクションの時間に、どうやって「グローバルな問い」を活用できるのか、B) 社会正義や公平性と言われると、例えば「社会正義/公平性は大切、そのために自分ができることは?」のような、教師側になんらかの模範解答なり目指す方向があって、それに誘導するようにならないか、という質問を持ちながら、リフレクションの章を読みました。

 さて、著者のキーン氏は「グローバルな問い」とは、ウィギンズ とマクタイと「本質的な問い」(essential questions)(★3)の特徴と重なるだけでなく、さらに以下のような点があるとしています(181-182ページ)。

1) 読み書きを統合したワークショップ(lieracy studio)のどの部分においても、対話の支え(anchors)(★4)となる。

2) 学んだことを、社会正義や公平性という観点につなげる。

3) 生徒が発案することも多く、個人やグループでの探求につながる。

4) 他教科での関連する学びも含めて、生徒が教室の外の世界とつながるのを助ける。

5) 年間を通して、またカリキュラム全体を通しての学びにつながる。

6) リフレクションの焦点となるものを提供してくれる。

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 まず、A) 短いリフレクションの時間に、どうやって「グローバルな問い」を活用できるのか、です。上記「 1) 読み書きを統合したワークショップ(lieracy studio)のどの部分においても、対話の支え(anchors)となる」と「6) リフレクションの焦点となるものを提供してくれる」とあるように、「グローバルな問い」は、ある日のリフレクションの時間に唐突に、登場するものではありません。そうではなくて、現在学んでいることのポイントをおさえる印象ですから、短時間で可能となっているように思います。

 具体例で見ると、5年生の例(183ページ)では、「グローバルな問い」は「説得力のある文章やスピーチは、社会変化を引き起こしたり、それに対応するために、どのように使われてきたのか。社会変化を引き起こしたり、それに対応するために、どのように説得力のある文章を使うことができるのか」です。この問いは、「説得力のある文章」というジャンルを学ぶユニットの中で設定されています。

 3年生の教室(184-189ページ)での「グローバルな問い」の例は、「本(およびその他のメディア)や私たちが書くものは、どのように私たちの思考、感情、信念、行動に変化をもたらすのか?」となっています(183ページ)。

 子どもたちは、「どのように、本(読むこと)によって、考えや行動が変わるか、また、書くことによって、どのように書けば、読者の考えや行動を変えられるのか」という読み書きを統合した単元で学んでいる真っ最中です。

 3年生のこの事例はかなり詳しく紹介されています。このクラスを教えるラファエル先生は、本を読んでいる子どもの中に、最初に「こうだ」と思い込むと、それを変えることなく読み続ける子が少なからずいることに気づいていました。

 そこで、クラス全体に対して、読んでいる間に自分の考えが変わることについて、先生自らの「考え聞かせ」で教えたり、必要に応じて個別カンファランスや、小グループで教えたりしてきました(小グループに教えることは、この本では Invitational Group と呼ばれています)。

 「本(およびその他のメディア)や私たちが書くものは、どのように私たちの思考、感情、信念、行動に変化をもたらすのか?」という「グローバルな問い」が意識できるように、この問いは教室にも掲示(★5)されています。つまり、グローバルな問いは、学習中の単元と密接に関連していますし、リフレクションの時間以外(先生が全体に対して教える時間、それぞれがひたすら読み書きをする時間など)でも、意識され、学びのポイントとなっています。

 私が気になっていた2点目、「B) 社会正義や公平性と言われると、教師側に模範解答があって、それに誘導するようにならないか」です。これは、3年生の事例(184-189ページ)を見ていて、「そうならない」ようにできることがはっきりわかりました

 この事例では、結果的に子どもたちは、その日の学びを「他者理解のための共感」という概念につなげて学んでいるのですが、それは教師があらかじめ決めていたことでも、予想していたことでもありません。

→ とはいえ、教師の立ち位置や進め方によっては、誘導的に進めてしまう危険性がないとはいえません。この点は、(その3で)引き続き考えていきたいと思っています

 上記で説明されているように、「グローバルな問い」は、対話の支え(anchors)であり、リフレクションの焦点であって、どこかに導くような羅針盤ではありません。むしろ、常に学びを再構築し、生成していくための土台のように思いました。

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★1 Ellin Oliver Keene. The Literacy Studio: Redesigning the Workshop for Readers and Writers. Heinemann, 2022.

★2 リヴィジョン(書き直し、読み直し、考え直し)については、先週(2月2日)の投稿「修正を通じて、生徒たちに書く自信を育む」では、リヴィジョンの動詞であるrevise について「再構築」という言い方もされていて、次のような文が記されていました。

「修正は、生徒が書いている作品を「再構築(revise)」する重要な方法です。それは、一人ひとりの子どもが「自分の人生を再構築する/生き直す/自分自身をつくり出す」重要な段階と言い換えられますから、とても大切です」

→「再構築」と言われると、reconstruction や rebuild などの単語が浮かびます。でも、リヴィジョンで行なっていることは、新しく構築するためのやり直しですから、まさに「再構築(revise)」に向かうプロセスのように思います。

★3 ウィギンズ とマクタイについては、以下の訳書が出ています。

『理解をもたらすカリキュラム設計』 G. ウィギンズ、J. マクタイ、西岡加名恵訳、日本標準 2012年

★4 次の★5でも記すように、「錨、支え、拠り所」等々の意味がある、anchor という単語が気になっています。

★5 教室での掲示ですが、anchor charts(アンカー・チャート)と呼ばれています。学びのポイントや学びの軌跡が掲示され、そこに戻って学ぶこともあります。