2026年10月31日土曜日

感情を表すのではなく、世界を描写する詩 〜長谷川龍生の詩「理髪店にて」を読む〜

 【時々、投稿をお願いしてきた吉沢先生に、以下の投稿をお願いしました。】

 詩というと、詩人の気持ちを言葉に託して表現するもの、と一般には思われています。事実、私がWWRW便りで紹介してきた詩の多くは、そのような詩です。

けれども、詩人が自分の気持ちを言葉に託すのではない詩があります。悲しい、寂しい、腹がたつといった感情が、詩の中に言葉として書かれていない詩です。「え? それでは何が書かれているの?」と疑問に思われるかもしれません。今回は、そのような詩について考えたいと思います。

 紹介するのは、長谷川龍生★1の「理髪店にて」★2という詩です。



理髪店にて

長谷川 龍生


しだいに

潜ってたら

巡艦鳥海の巨体は

青みどろに揺れる藻に包まれ

どうと横になっていた。

昭和七年だったかの竣工に

三菱長崎で見たものと変りなし

しかし二〇糎備砲は八門までなく

三糎高角などひとつもない

ひどくやられたものだ。

俺はざっと二千万と見積って

しだいに

上っていった。


新宿のある理髪店で

正面に篏った鏡の中の客が

そんな話をして剃首を後に折った。

なめらかだが光なみうつ西洋刃物が

彼の荒んだ黒い顔を滑っている。

滑っている理髪師の骨のある手は

いままさに彼の瞼の下に

斜めにかかった。



<詩の構成>

この詩は次のような構成になっています。

・第1連 男が海に潜って戦艦を見てきた話(男が語っている)

・第2連 その男が、理髪店で顔を剃ってもらっている光景(作者がそれ

を見ている)


男は、理髪店で散髪をしてもらいながら、理髪師と世間話をしているのでしょう。自分は海に潜って、戦艦を見てきた。太平洋戦争で沈められた「鳥海」という巡洋艦で、大砲もやられて、ひどいありさまだった、と言います。そして、その船が引き上げられて解体されたら、二千万円ぐらいの利益になるだろうと値踏みして、上がってきたのです。


 そんな話をしながら男は、理髪師に顔を剃ってもらっています。理髪師の持つ西洋刃物は、男の肌を滑って、今瞼の下に差し掛かっています。


第1連では、男が語る海の中の光景が、第2連では、理髪店で理髪師が男の肌に刃物を当てている光景が、描かれています。そこには、詩人の内面を表す言葉はありません。


<詩のもたらすイメージ>

 長谷川龍生は、自分の内面を表現する代わりに、自分の外側の世界を、的確に捉え、イメージを呼び起こす言葉を使っています。それが読者を詩の世界に引き摺り込んでいきます。


第1連では、「巨体」「青みどろ」「藻に包まれ」「どうと横になっていた」などの語が、海底の戦艦のイメージを伝えています。「俺はざっと二千万と見積もって」という言い方は、その男の風貌や雰囲気を感じさせます。


第2連では、「剃り首を後ろに折った」「光なみうつ西洋刃物」「荒んだ黒い顔」「骨のある手」「今まさに」「斜めにかかった」などの言葉が読者を理髪師の手元と西洋刃物に引きつけます。私は、映画でズームアップする映像を見ているような印象を持ちました。


<読者は何を感じるか>

では、この詩を読んで、読者は何を感じるでしょうか。

私は、第1連の廃墟とも言える戦艦の姿に不気味なものを感じました。そして、それを「二千万円」と値踏みする男の言葉に、ドキッとしました。


 第2連では、西洋刃物が男の瞼の下に差し掛かる場面に、息を呑むような緊迫感を感じました。理髪師に顔を剃ってもらうのは、多くの人が経験する、日常のありふれた光景です。それなのに、この詩の言葉に触れると、ヒヤっとします。一つ間違えば、大怪我につながるかもしれない、という不安な気持ちにさせられます。


 さらに私は、海底の戦艦の光景の後に、いきなり、理髪店での西洋刃物の光景が置かれていることの意味を考えました。

第1連は何を暗示しているのでしょう? この戦艦は、やがて引き上げられるのかもしれません。すでに過去のものとなった戦争の遺物が、再び、私たちの目の前に現れる。そして、それを値踏みをする人間がいる。再び、戦争につながる何かを始める兆しなのでしょうか。

第2連は、日常の何気ない光景の中に、危険なものが潜んでいることを暗示しているようにも読めます。その不安感、危機感が、二つの連を繋いでいるように感じられます。


*


 この詩は、感情を表す言葉を排除して、その代わりに、海底の戦艦と、理髪店という二つの世界を切り取って読者に差し出すことで、読者に何らかの違和感、不安感、危機感といったものを感じさせるように、創られているのです。人によっては、何か不安になったり、何かモヤモヤする、といった読後感を持つかもしれません。まさに、それこそがこの詩の特徴です。



★1 長谷川龍生(1928-2019)。大阪生まれの詩人。本名は名谷龍生(なたに たつお)。

★2 初出は、詩集『パウロウの鶴』(書肆ユリイカ、1957年刊)。現在は、『長谷川龍生詩集』(現代詩文庫 第I期18)(思潮社、1967年初版)に所収。


2026年10月23日金曜日

読み聞かせを、子どもたちが考えを深め合う場にする

タミー・マリガン先生(小2の担任)は、読み聞かせを、教師が本を読み、子どもたちが聞くという活動にとどめず、子どもたちが自分なりの解釈を持ち寄り、互いの考えを聞きながら、読みを深めていく場として活用しています。そのために、週に1回程度、15~20分の時間を確保し、クラス全体で話し合う「読みを深める対話(Grand Conversations)」を行っています。話し合いの目的は、単に本の内容を確認したり、感想を発表したりすることではありません。

  • 自分なりの解釈を表現する。
  • ほかの子どもの考えを聞く。
  • 自分の考えと他者の考えを結びつける。
  • 作品について、より深く、複雑な解釈を構築する。
  • 対話を通して、自分の考えがどのように変化したかを認識する。

つまり、一人ひとりが考えをもつことと、他者との対話によって考えを発展させることを、読み聞かせの中に組み込んでいるのです。マリガン先生は、子どもたちが対話する時間を意識的に確保しています。対話は、時間に余裕があれば行う付随的な活動ではなく、学びのために必要な活動だからです。★

 

1.対話を成立させるための2つの道具

子どもたちが自分たちで話し合いを進められるように、マリガン先生は二つの道具を用意しています。

① 学級全体のノート(The Whole-Class Notebook)

読み聞かせの際に生まれた考えを、学級全体で共有するノートです。毎日、一組の子どもたちがノートに記録します。このノートには、主に二つの役割があります。

第一に、話し合いの準備をすること。子どもたちは、これまでの読み聞かせで生まれた疑問や解釈を振り返り、話し合う価値のあるテーマを見つけます。

第二に、対話によって生まれた新しい考えを記録すること。話し合いの終了後、対話を通して何が新しく分かったのか、考えがどのように変わったのかを記録します。

このように、ノートは単なる読書記録ではありません。子どもたちの考えがどのように生まれ、他者との対話を経て、どのように発展したかを残すための道具です。

② 対話を支える言い回しのカード・掲示(Accountable Talk Sentence Starters)

子どもたちが互いの考えを尊重しながら、対話を発展させられるように、話し合いに役立つ言い回しを掲示します。例えば、次のような表現です。


 こうした表現は、子どもたちが対話の経験を重ねるにつれて、徐々に充実していきます。大切なのは、単に発言することではなく、相手の考えを受け止め、それを踏まえて自分の考えを展開するための言葉を身につけることです。

 

2.読みを深める対話を進める6つのステップ

マリガン先生は、対話の進め方を明確にしています。これは、子どもたちが話し合いの手順を身につけ、やがてペア読書やブッククラブなど、ほかの場面でも自分たちで対話を進められるようにするためです。

ステップ1:全員の顔が見える円形に座る

子どもたちが互いの顔を見られるように、大きな円をつくって座ります。教師の方だけを向くのではなく、全員が対話に参加できる配置にすることが重要です。マリガン先生は、話し合いにおいて、すべての子どもが「最前列」にいるような環境をつくることを重視しています。

ステップ2:ノートを振り返り、話し合いたいことを見つける

学級全体のノートを見直し、これまでに生まれた考えや疑問を確認します。そのうえで、次のような問いを投げかけます。「この本について、たくさんの考えが出てきました。クラス全体で話し合う価値があるのは、どの考えでしょうか?」子どもたちは、まずペアで考えを出し合います。必要に応じて教師は、登場人物同士の関係、作品のテーマ、作者の表現技法など、より深い読みにつながる観点を提示します。

ステップ3:話し合うテーマを一つ選ぶ

クラス全体で話し合う問いや考えを一つ選びます。子どもたちの関心から選ぶこともあれば、学習目標に関わる文学的な要素を取り上げることもあります。重要なのは、次々と話題を変えるのではなく、一つのテーマについて考えを掘り下げ、互いの考えをつなげていくことです。

ステップ4:子どもたちを中心に対話する

ここからが、読みを深める対話の中心となる活動です。対話を進める際には、次のような約束を設けます。

  • 発言する際に挙手はしない。ただし、話している人に目を向ける。
  • 話し手は教師だけでなく、ほかの子どもたちにも目を向ける。
  • 友達の名前を使い、誰の考えに応答しているのかを明確にする。
  • 一部の子どもだけが話し続けないようにする。
  • 発言の少ない子どもにも、自然に参加を促す。
  • 必要に応じて学級全体のノートを参照し、本文の根拠を確認する。

ここで注目したいのは、教師が対話を完全に管理しようとしていないことです。話し合いが停滞することもあります。沈黙が続いたり、複数の子どもが同時に話し始めたりすることもあります。しかし、マリガン先生は、それらをすべて教師が解決すべき問題とは捉えていません。子どもたち自身が対話の難しさに向き合い、試行錯誤しながら話し合う力を身につけていくことも、学びの一部だと考えています。★★

ステップ5:対話によって生まれた新しい考えを記録する

話し合いの最後に、教師は次のような問いを投げかけます。「今日、私たちの新しい考えは何でしょうか?」「対話を通して、私たちの考えはどのように発展したでしょうか?」そして、一組の子どもたちが、新しく生まれた考えを学級全体のノートに記録します。ここで重視されているのは、最初から正しい解釈にたどり着くことではありません。他者と話し合うことで、自分たちの考えが変化し、発展したことを認識することです。

ステップ6:翌日、新しい考えを読み返して学習を続ける

翌日、前日の話し合いで生まれた考えや疑問を読み返します。それを踏まえて、再び読み聞かせを進めます。こうして、対話によって生まれた考えが、その場限りで終わることなく、その後の読みを深める手がかりになります。およそ5日後には、また新たな読みを深める対話を行います。このように、読み聞かせと対話が交互に繰り返され、学びが積み重なっていきます。

 

3.読みを深める対話によって育つもの

マリガン先生は、この活動によって得られる学びを、大きく二つの側面から説明しています。

① 対話する力が育つ

子どもたちは、対話を繰り返すことで、次のような力を身につけていきます。

  • 相手の話を注意深く聞く。
  • 自分の考えを明確に表現する。
  • 友達の考えと自分の考えを結びつける。
  • 分からないことについて質問する。
  • 複数の人が参加する会話の中で、適切に発言する。
  • 他者の考えに応答しながら、自分の考えを発展させる。

これらは、対話のルールを説明しただけで身につくものではありません。実際の対話に参加し、うまくいかない経験も重ねながら、徐々に身につけていくものです。★★

② 読解を深め、子どもの理解を見取ることができる

もう一つの重要な効果は、教師が子どもたちの理解をより深く把握できることです。

対話を通して、教師は次のようなことに気づきます。

  • 物語のどの部分が理解できていないのか。
  • 登場人物の関係をどのように捉えているのか。
  • どのような解釈や疑問が生まれているのか。
  • 本文の表現をどのように理解しているのか。
  • どのような考えをもち、何を手がかりに推測しているのか。

記事の冒頭では、ある子どもが物語に登場する「亀の甲羅」の意味について疑問を口にする場面が紹介されています。その子どもの発言によって、教師は、子どもが物語のある表現を十分に理解できていないことに気づきます。もし対話の時間がなければ、そのつまずきは表面化しなかったかもしれません。マリガン先生は、教師が一歩下がって、子どもたちの話すことを観察し、耳を傾けることによって、多くのことを学べると指摘しています。つまり、対話は子どもたちの理解を深める活動であると同時に、教師が子どもの思考や理解の実態を見取るための重要な機会でもあるのです。

 

 以上を要約した図は、次のようになります。

 

出典: https://choiceliteracy.com/article/grand-conversations-and-read-aloud/

タミー・マリガン先生は、2冊の本の共著者で、普段はHanscom Primary Schoolで小学2年生を教えています。仕事がない日は、庭で過ごしたり、森をハイキングしたり、子ども向けの本を山のように積み上げて、その陰に隠れていたりします。X(@TammyBMulligan)やInstagram(@TammyReadsKidLit)で、マリガン先生とつながることができます。

★ここまで読まれただけでも「読み聞かせ」の捉え方が日本で行われているのはだいぶ違うと思われたのではないでしょうか? 日本で行われている読み聞かせはたくさんの方法の一つにしかすぎず、主には学齢期前の子どもを対象にしたやり方なのです。小1以上の子どもたちにはぜひ他のやり方を模索してください。参考になる方法が、『読み聞かせは魔法!』で紹介されています。そのうちの一つが「対話読み聞かせ」というものですが、ここで紹介されているのを何回かした後は、それに移行できます。

★★ここで紹介されている以外の方法として、スパイダー討論があります。教師の役割は子どもたちが話したくなる話題/テーマを提供して、あとは参加者の発言を図化する役割を担う方法です(子どもたちがいい話し合いができた時には、きれいな蜘蛛の巣図が描けることからこの名前がついています。正式名称は、スパイダー・ウェブ討論です。『最高の授業』アレクシス・ウィギンズ著に詳しいやり方が紹介されています。子どもたちは何度でもやりたくなる方法です!

2026年10月16日金曜日

修正と再考の精神

  土門蘭さんの『ほんとうのことを書く練習―「わたしの言葉」で他者とつながる文章術―』(ダイヤモンド社、2026年)を読んでいると、次のような言葉に出会いました。

 「そもそも言葉を使うのは、お互いに「わからない」からだろう。感覚的にわかり合えるのならば、言葉なんて使わなくていい。言葉を使うのは、違う人間同士のあいだにわかり合えない部分があるからだ。つまり、自分を超えなくてはいけないから。そのための言葉であり、ロジックだろう。だから私は文章を書くとき、常に「理解」にゴールを置く。

 私はずっと、執筆やインタビューなど言葉を用いるコミュニケーションにこだわっていたが、それはもっと他者を「理解」したいからだった。共感できない人の言動も、なぜそのような言動に至ったのか思考のプロセスを言葉でひもといていけば、いつかきっと理解できる。そう信じることが私には希望だったし、いまでもそうだ。」(『ほんとうのことを書く練習』230ページ)

 土門さんによれば「共感」とは「感覚的にわかってもらうこと」であり、「「わかるなぁ」と同調・同意してもらったり、受容してもらったりすること」です。それに対して、「理解」とは「論理的にわかってもらうこと」であり、「なるほど、そういうことか」とわかってもらうことです。土門さんの言うように、「違う人間同士のあいだにわかり合えない部分」があるから、私たちは言葉を使ってわかり合おうとします。誤解も生じるでしょうが、言葉の裏にある「思考のプロセス」をたどっていけばその誤解を「理解」に変えることができると信じることが「希望」であると土門さんは言います。

「他者も、自分も、わからない。共感できず、苦しむことも多い。だけど対話を諦めない限り、「共感」は無理でも「理解」は叶う。共感することは無理でも、互いの言葉に耳を傾ける。私はそう信じて文章を書き続けている。」(『ほんとうのことを書く練習』231ページ)

  この主張は自分と他者との対話だけでなく、自己内の対話においてもあてはまります。土門さんが参加したあるトークイベントで「僕も文章を書いていたのですが、自分の下手な文章を読むのが嫌で、書けなくなってしまったんです」と話した人がいました。土門さんはその人がまだ書きたいと思っていると感じたので「書き手の自分を、子どものように思ってみてはどうですか」と言い、さらに次のように続けたという。

 「目の前で子どもが熱心に描いた絵が、『下手くそだ』なんて罵ったりしないですよね。まずは『何を描いたの?』と興味を持ったり、『よく描けたね』と褒めてあげたりしませんか? 自分の中の書き手も、子どもと一緒です。褒めてあげれば書くのが楽しくなるし、ダメ出しばかりすれば書くのが苦痛になる。どうか、ご自身の中の書き手を褒めて、やる気を出させてあげてください」((『ほんとうのことを書く練習』81ページ)

  褒めて伸ばすということは作文指導の大切な姿勢ですが、「書く私」と「読む私」との対話においても重要な姿勢であることを土門さんのこの言葉は教えてくれます。大人になればなるほど「読む私」の経験値は増えるので、知らず知らずのうちに「書く私」に課す制約が多くなり、自己検閲のハードルが高くなってしまいます。「書く私」を褒めて、やる気を出させる言葉を用意することは、「読む私」が「書く私」のことをどのように「理解」するかにかかっていると言ってもいいでしょう。

 『理解するってどういうこと?』第8章「すばらしい対話」には、テキサス州フォートワースのキムベル美術館を訪れ「マティスとピカソ―穏やかなライバル関係―」を見た時のことが書かれています。アンリ・マティスとパブロ・ピカソの半世紀近くに及ぶ絵による対話を鑑賞して、エリンさんは次のように書いています。

 「学習において対話が理解を導くことは少なくありません。私たち教師は、ある概念について子どもたちに語れば語るほど、その概念についての自分自身の理解が深まることを知っています。子どもたちの質問としっかり考えて発見したことは、その概念についてのあなたの説明のしかたに影響を与えます。子どもたちがあなたの今後の視点を変えてくれるような、新しい見方を提供してくれるのです。こうした、修正と再考の精神が、マティスとピカソとのあいだで交わされた対話の特徴です。」(『理解するってどういうこと?』292ページ)

 マティスとピカソも、言葉ではなく絵による対話を長期間にわたって続けました。その間それぞれの絵に修正と再考の機会が与えられ、「新しい見方」がもたらされたのです。エリンさんの言葉に照らして考えると、土門さんの言う「対話」による「理解」が「修正と再考の精神」を養うものであると意味づけることができそうです。「ほんとうのこと」を書くために土門さんが言っていることは、言葉で理解すること/言葉で理解されることの重要性を教えてくれるものですが、それが言葉での理解だけにとどまらないことも示しています。

2026年10月9日金曜日

テスト対策でなく、自ら読み続ける人の育て方

メリッサ・クインビー先生による “Nurturing Lifelong Readers(自ら読み続ける人を育てる)”は、読解スキルやテスト対策よりも、「自ら読み続ける人(lifelong reader)」を育てる教え方について整理したエッセイです。著者のクインビー先生は、自身の読書体験や教室での実践をもとに、子どもたちが「読むことを好きになる環境」をどうつくるかを紹介してくれています。

クインビー先生は、子どもが一生読み続ける読み手になるためには、読解スキルの指導だけでは不十分で、

  • 本との豊かな出会い
  • 読書を楽しむ時間
  • 本について語り合う経験
  • 自分で本を選ぶ自由

が欠かせないと考えています。

 

1. Classroom Library(教室文庫)が重要

クインビー先生は教室文庫を単なる本棚ではなく、「読者を育てる土壌」として捉えています。子どもたちが

  • 気軽に本に手を伸ばせる
  • 興味に合う本を見つけられる
  • 新しいジャンルに出会える

環境づくりが大切だと述べています。

 

2. Passion Conferences(情熱を引き出すカンファレンス)

特に興味深いのは、クインビー先生が重視する読み手の情熱を引き出すカンファランス(生徒との一対一の話し合い)です。教師が子どもに

  • 今どんな本を読んでいるのか
  • 何に興味をもっているのか
  • どんな本が好きなのか

を尋ねます。これは評価のためではなく、「その子を読者として理解する」ための会話です。これは、長年日本でも「見取りは大切」と言われながら、その具体的な方法は示されてきていませんでしたが、最も効果的な方法の一つと言えます。

 

3. Read-Aloud(読み聞かせ)は年齢が上がっても有効

クインビー先生は読み聞かせを低学年の子ども向けの活動とは考えていません。教師が魅力的な本を紹介し、読書の喜びを共有することで、

  • 新しい本との出会い
  • 読書のコミュニティーづくり
  • 読書への意欲向上

につながると考えています。★

 

4. Independent Reading(ひたすら一人で読む時間)の確保

子どもが読み手になるには、読むことについて学ぶだけでなく、実際に読む時間が必要です。そのため、毎日の読書時間の確保はもちろんですが、自由選択による読書と読書への没頭を重視しています。

 

 クインビー先生は、最後に彼女の4年生のクラスを羽ばたいていった生徒たちの様子を紹介してくれています。

ここ数年、かつての教え子たちから、夏休みの手紙や思いがけないメールが届くことが増えました。ある子は、私が夏に読んでいる本のリストを教えてほしいと連絡してきました。別の子は、これから4年生になるいとこのために、おすすめの本を知りたいと言ってきました。また最近では、「Meet Someone New Monday」や「First Chapter Friday」★★が懐かしいと伝えてくれた子もいました。そして、本が発売される何か月も前から予約していて、その本がようやく届くことになったと、わくわくした様子で知らせてくれた男の子もいます。

こうした話を聞くたびに、子どもたちの読書生活が豊かになり、その楽しさが教室の外まで広がっていることを感じて、とてもうれしくなります。私が受け持った4年生たちは成長し、連絡を取り合う機会も少なくなりました。それでも私は、彼らが今も本を読み続けているだろうと思っています。そして、教室にいた頃と同じような読書への情熱を胸に抱きながら、それぞれの人生を歩んでいるのではないかと想像しています。

 

 このエッセイは、リーディング・ワークショップの教え方をよく表しています。特に、

  • 教える側の論理ではなく学ぶ(読む側)の論理
  • 一斉指導より一人ひとりの読書生活
  • 評価より対話
  • 作品について教えるより読者を育てる

などの点に注目してください。

 これら4つの具体的な方法については、『読書家の時間』と『リーディング・ワークショップ』を、特に、カンファランスについては、ナンシー・アトウェルの『イン・ザ・ミドル』やピーター・ジョンストンの『言葉を選ぶ、授業が変わる!』などをご覧ください。

 

 あなたが、上の4つ以外に大切にしていることは何ですか?

 紹介者が付け加えたいと思ったのは、「効果的な読み方で子どもが身につけていないものは教える」です。効果的な読み方については、『「読む力」はこうしてつける』とエリン・キーンの『理解するってどういうこと?』を参照ください。

 

出典・https://choiceliteracy.com/article/nurturing-lifelong-readers/

メリッサ・クインビー先生は、マサチューセッツ州で4年生を教えている教師です。子どもたちが書く力を伸ばし、よりよい書き手になれるよう支援することに情熱を注いでいます。また、これから読みたい本のリストには、いつも中学年向けの児童文学(ミドルグレード小説)がたくさん並んでいます。自身のウェブサイト「QUIMBYnotRamona」で情報を発信しています。

 

★これらの目的を達成するための読み聞かせは、日本でよく行われている典型的な(学齢期前の子どもたちを対象にした)読み聞かせとはやり方が違います。多様な目的やニーズに合わせた読み聞かせの方法については、『読み聞かせは魔法!』を参照ください。

★★「Meet Someone New Monday」は、「新しい人と出会う月曜日」という意味で、人物伝絵本(picture-book biographies)や伝記の読み聞かせを通して新しい人物に出会う活動のことです。「First Chapter Friday」は、「金曜日の第1章読み聞かせ」という意味で、本の第1章だけを教師が読み聞かせて、続きを読みたくなるようにすることです。

2026年10月3日土曜日

自分にぴったり合った本を読むことに夢中になる時間が人を読者にする

 

A「国語は好きだったけど、読書は嫌いだった。」

B「国語は嫌いだったけど、読書は好きだった。」

C「国語も好きだったし、読書も好きだった。」

D「国語も嫌いだったし、読書も嫌いだった。」

この四つの選択肢のうちのどれかを選べと言われたら、どうしますか? 答え方は人それぞれだと思います。「A」だと言う人はおそらく国語のテストを解くことが得意だったのではないしょうか? 当然、点数はとてもよかったと思いますが、図書室に行って自分の好きな本を選びなさいと言われても戸惑っていたかもしれません。「C」を選んだ人はテストもうまく解けて、それとは別に本も大好きだったという人だろうと思います。国語の先生になっている人も少なくないでしょう。でも今は忙しくてなかなか読めないのが悩みだとおっしゃるかも。「D」だと言う人が本とは無縁の生活を送っておられるかというと、案外そうではなくて、その後自分にぴったり合った本といくつも出会えたことで、今は読書家になっておられるかもしれません。そして、現在本を読むのが大好きという人で「B」を選ぶ人が多いのではないでしょうか? 国語の授業もテストも嫌いだった。けれども自分で選んだ本を読むのは好きだった。その結果、大変な読書家になっている人も少なくないでしょう。

好き/嫌いですべてを語ることはできないと思いますが、自分がこの四つのどれに当たるのか考えてみて、その理由を探ってみると、読者になるために何が必要なのかを考えるきっかけが得られるかもしれません。おそらく読書が「好き」になったということは、その必要な何かに出会えたからだと思います。

ジェニファー・セラヴァロが『テクストと読者を理解する』★という本を書く動機になったのは小学校4年生のヴァネッサとの出会いでした。ヴァネッサは「ランニングレコード」★★にはきちんと答えることができたのに、4年生レベルの国語の州試験には2年続けて合格できませんでした。「ランニングレコード」で使われるのは4年生向きの図書からの抜粋です。その抜粋の設問にきちんと答えることができても、ヴァネッサは州試験に合格することはできなかったのです。

セラヴァロは自ら考案した「一冊まるごとを使う評価(whole book assessment)」★★★では2年生相応のレベルの本のなかにヴァネッサが一人読みするのにぴったりした本があることを突き止めます。ここからが肝心なことですが、セラヴァロはそのレベルの本を何冊か選んでヴァネッサとともに読み、それから少しずつレベルを上げて、それらの本のプロット・設定・登場人物・語彙・テーマについて彼女がどのように理解したのかということをチェックしていきます。そうすると、ヴァネッサは次第に読んだ本の内容を説明したり、要約したりすることに困難を覚えなくなり、だんだんと難しくなっている本を読むにつれて、自分のニーズに合った新たな目標に挑戦することができるようになります。1年間そういうことを行った結果、4年生の州試験に合格するのです。その時のヴァネッサの言葉。「ジェン先生」とはセラヴァロのファーストネームを受けています。

 

「ジェン先生! もういまはこの本がよくわかるわ。あなたは『頭のなかに映画をつくるんだ』とよく言ってたけど、それはつまり本に書かれたことが頭のなかで実際に映画みたいに見えるってことよね。いま私はそれを見てるのよ!」

 

もちろん試験の合格は喜ばしいことです。が、それ以上にヴァネッサが、本を読むことに夢中になり、学校の読書の時間以外にも読む本を選ぶようになった、つまり「読者」になったことを、この言葉は伝えています。

このことからセラヴァロが得た知見が『テクストと読者を理解する』には次のように書かれています。

 

・理解は固定されておらず、多くの要因によって変化する。

・生徒が読める本や文章のレベルは、多くの変数によって定まる。

・テクスト(本や文章)のレベル分けに完全なものはない。

・本と読者のマッチングは思いのほか簡単ではない。

・一つの評価ですべてがわかるわけではない。

・読者として発達させるためには、responsive instruction(生徒にぴったり合った本を選び、読むことに夢中になる時間を保障する指導)が大切だ。

 

今この文章を読んでくださっている皆さんは、自分に「ぴったり合った本」を見つけることができればいいけれども、それはちょっと難しいことだ、と思っておられるかもしれません。セラヴァロが言うように「本と読者のマッチング」は簡単なことではないからです。試行錯誤していくほかないものかもしれませんし、大人でも誰かに薦められてそういう本に出会うことも少なくありません。4年生のヴァネッサの場合は、二学年下の2年生相応の本なら一人で夢中になって読むことができるということの発見が「マッチング」の出発点でした。レベルを落としたということではありません。ヴァネッサは自分が夢中になって読める本をセラヴァロのサポートで見つけることができたわけです。

読者になるために必要な何か、とは、自分にぴったり合った本を読むことに夢中になる時間です。それを見つけることができれば、わかるという喜びを味わうことができる。きっとその喜びこそが「読書が好き」の源なのです。

 

★Jennifer Serravallo(2018) Understanding Texts & Readers: Responsive Comprehension Instruction With Leveled Texts, Heinemann 『自立した読者を育てる学習指導・評価法のデザイン』(溪水社、2026)の155ページから178ページで論じられています。

★★本のなかから200語ほどの部分を抜粋した文章を使って、音読の正確さ・流ちょうさ・表面的な質問に対する理解、を測る評価法。

★★★(1)読む本を選ぶ、(2)質問をつくる、(3)本や文章に質問や手引きを書き込む(別の紙に書いて挟み込む)、という順序で進めて、カンファランスしながら生徒の理解を捉えていく評価法。セラヴァロはそれをどのように行ったのか。11月一週目の話題にします。

2026年9月25日金曜日

人の思いのこもった授業を



『海の命』をとことん読む


 昨年度、私はおそらく担任としては最後となる研究授業を行いました。これまでいろいろな授業を提案してきました。読書家の時間のブッククラブの授業を提案したこともありましたし、社会科の探究の成果を発表する授業も提案しました。もしかしたら、もう指導案を書くこともないかもしれないなあと思いながら、最後にやってみたいと思ったことは、とことん読み込み、子どもの感想を分析して、組み立てていく昔ながらの授業でした。


 『海の命』という教材と時間をかけて向き合いました。立松和平の「命シリーズ」や『遠雷』、立松和平の教材研究をした先生の記事なども漁って、自分の読みを深めていきました。そして、節目節目に書いた子どもたちの感想を読み込み、彼らがどのように『海の命』を捉えて、教師としてどの方向性に導いていきたいのかを考え、ねらいをもって授業を立てていきました。そんな授業が、わたしにとっての最後の研究授業になりました。


 自分のやりたかった研究授業は、現在の学習指導要領が求めている視点から見れば、とても古風なものになりました。私の先輩の先生たちが見せてくれたような昔ながらの授業を、最後に自分の後輩となる若い先生たちに見せたかったのかもしれません。先輩たちはそのような授業を気負うことなく普段着でやっていましたが、私には研究授業という場の力を借りて行うことが精一杯でした。


 指導講評の先生は私のことを若い頃から知ってくださっている先生で、「らしくない授業だったね」と、歯に衣着せぬコメントをいただきました。感謝をしています。しばらく立っていなかった懐かしの風景を眺めているようで、自分にとっては満足でした。子どもたちも、私のアツ(熱量)を正面から受けながら、よく頑張ってくれたように思います。一つのテキストをみんなで読み解くという、今や時代から取り残されたような学習に、スポットライトを当てるような研究授業になったのではないかと思っています。



作家の時間


 『海の命』の研究授業の前月には、作家の時間の流れの中で「推しの魅力を伝えよう」や「5分後に〇〇な結末」のユニットに学年で取り組みました。『海の命』の授業とは真逆の、中心から広がっていくような学習でした。子どもたちはたくさんの作品群を完成させていきました。魅力溢れる作品が次々と生まれ、大人でも読み応えのある作品が数多く生まれました。作家の時間も若い先生たちに見てもらって、こちらもやってよかったなあと振り返っています。

https://wwletter.blogspot.com/2025/06/blog-post_27.html

https://wwletter.blogspot.com/2026/03/blog-post_27.html


 一人一人と対話をして、作品を読み、コメントで応える。作家の時間の難しくもやりがいのある局面はここにあります。こちらの想定を大きく越える作品を作り上げることもあれば、鉛筆が止まったまま動かない子もいたり、はたまた、国語ができないと思われていた子が思いもよらぬ成果を生み出したり、勉強ができる子が創造的な活動に全く興味が持てなかったりすることもあります。子どもたちの見えている姿、見えていない姿、いろいろな子どもたちの姿がゴロゴロと立ち現れて、それら一つ一つと向かい合っていく楽しさが、「作家の時間」にはあります。


 作家の時間は、子どもたちが真ん中にいる学習形態です。汗をかいて自分を表現しようとする子どもたちに、教師はどのように声をかけ、支えていったら良いのか、私たちは四苦八苦します。それでも、何かその子らしさの光る作品へと子どもたちが漕ぎ着けると、子どもも大人もじんわりとしたやりがいを感じることができると思います。おこがましくも、自分の声かけやら見守りが、少しでも子どもたちの作品作りや成長に、小さなきっかけを作れたと思うと、「よかった」と胸を撫で下ろすような思いです。



海の命も作家の時間も


 私は、『海の命』をみんなで読み深めることも、作家の時間で個性を書き放つことも、どちらも大好きです。人の思いが確かで色濃く、存在感を放つからです。

 『海の命』には、私自身の子どもに投げかけたい願いがあり、子どもたちがそれに呼応してくれました。「太一はなぜ瀬の主を殺さなかったのか」 この問いと向き合った子どもたちは、何か一つのことをみんなで考える楽しさ、そんな気持ちを味わうことを願う私の思いに、ちゃんと呼応してくれました。

  作家の時間には、子どもたちの思いが結実したたくさんの魅力的な作品があり、その制作のために教師が支えていくようなイメージです。自分らしい作品を作りたいと奮闘する子どもたちに力を貸せることが、大きな喜びです。100人の子どもたち一人一人に、わずかながらですが、ファンレターを書いていきました。

 教師の思いが先か、子どもの思いが先か、正しい答えなどは無いと思っています。教師の思いが先行した『海の命』も、子どもの思いが先行した作家の時間も、両方大切で、どちらも軽んじることはできませんでした。どちらかを選ぶという選択ではないですし、その時のクラスの雰囲気やバランスもあります。ただ、学習には人の思いが交錯している。そんな有機的で人間臭い学習が、どこか学校らしくて、自分は好きなのだと思います。



誰も操縦していない授業


 一方で心配していることもあります。先生も思いを持っていない、子どもたちも主体者意識がない。そんな操縦者が誰もいない授業が広がっているような気がしているからです。

 国語の教科書は「よくできた」教材です。子どもたちの生活の中から問いが生まれるように構成され、しっかりと構成を意識した書く時間が取られ、子どもたちの交流を通して相手意識、目的意識が焦点化されるように工夫され、分かりやすいイラストや活動を丁寧に説明してくれています。その国語の教科書の意図に沿うことが教師の目的になり、先生の意図に沿うことが子どもの目的になり、そうやって、誰の思いで学習が進んでいるのかよく分からない授業を見かけます。

 国語の教科書は子どもを知らないし、先生の葛藤も知りません。先生がそこに思いを載せることができるならば、それはそれで良い器になるかもしれませんが、国語の教科書の思いを汲み取ろうとした実践も多く、「結局あなたは何を大切に思っているの?」と、問い返したくなるような若い先生の授業を目にします。だから、誰も授業の操縦者のいない、立て板に水のような授業が行われていくのです。「よくできた」国語の教科書に溺れてしまう先生の一つの姿であるように思います。



収束と拡散を繰り返す


 結局はありきたりですが、収束的な『海の命』の授業も、「作家の時間」の拡散的な授業も、両方大切なのです。収束的な学習で子どもを伸ばそうとした経験が作家の時間の支援に生きるし、作家の時間で培った子どもの時間を守り抜くことが、一つのテキストを読み抜く学習のスタンスに還っていきます。

 若い先生がどのような場所に向かいたいのか、その場所に立った後どんな風景が見えるのか。先を少し見てきた私ができることは、一緒にその風景を心躍らせながら見ることであると思います。操縦者のいない自動運転ではおもしろくありません。先生が、子どもが、ハンドルをしっかり握って、思いのこもった学習を一緒に楽しめたら良いと思います。