『理解するってどういうこと?』の第7章の表7.1「さまざまな作品構造」には、フィクション(本全体が対象)とノンフィクション(段落や本の一部(節や項目)が対象)それぞれの「構造」が対比的に整理されています。日本の国語教育で扱われる文種で言えば物語(フィクション)と説明的文章(ノンフィクション)それぞれの構造を支える要素です。「小説を読むのは好きだけど、評論文を読むのは苦手だ」という生徒に出会うことは少なくありません。しかし、「何を捉えればいいかわからない詩や小説を読むことよりも、評論文を読む方が得意だ」という生徒もいると思います。この違いはどうして生まれるのでしょうか。実際、教師にとっては、詩や小説を読むことよりもむしろ評論文を読むことを教える時の方が、指導目標をより明確に立てやすいと言えるかもしれません。しかし、評論文を読むのが大好きだと言う生徒の数は、そうでない生徒よりも少ないと言うことはできそうです。
エリンさんは次のように言っています。
「一般的に言えば、子どもたちはフィクションを読むこと(そして予測すること)とフィクションを書く課題(首尾一貫したよく組織されたしかたで)では、実によい結果を残しているのです。(中略)ところが、これがノンフィクションになると、話はまったく違ってきます。子どもたちがノンフィクションを読んでいるときは、ノンフィクションの基本要素を使って書かれているものを理解したり、予想させたりすることを系統立てていませんし、ノンフィクションを書く場合にも、ノンフィクションの構造についての知識を応用する機会はほとんど提供していません。」(『理解するってどういうこと?』265ページ)
これは日本でも同じだと思います。「ノンフィクションの基本要素」や「ノンフィクションの構造についての知識」を授業でそれほど多く扱ってきたわけではありません。いや、小論文やレポートの書き方なら、中学校や高校ではある程度扱ってきました。確かにそこでは「論理的思考」を育てることの重要性が指摘されます。しかし「論理的」に書くとは何をどうすることなのかという問いが掘り下げられているわけではありません。書き手自身の主張をわかりやすく論証して相手を説得する文章が「論理的」だということを教えることはあっても、なぜそれが「論理的」なのかということは問われないことが多いのです。そしてそのようなことを念頭に置いて、読むことの教材とされている評論文を読んでみると、案外そのような意味での「論理的」にあてはまらない文章も多くて、混乱してきます。
渡邉雅子さんの『論理的思考とは何か』(岩波新書、2024年)の冒頭には、次のように書かれています。
「論理的思考はグローバルに共通なものではなく、実は文化によって異なっており、それぞれの教育の過程で身につけていくものなのである。そして論理的思考の型は、それぞれの社会が何を重視して文化の中心に据えるのかと深く関わっている。/たとえば日本では「西洋」と一括りに論じられることが多いアメリカとフランスの小論文の構造は全く異なっており、相手国で自国の小論文の型で核と、「何を言っているのか分からない」、「つながりが不明」、「全く不十分な議論」、そして「論理的でない」と落第点が付けられるのである。/ なぜそんなことが起こるかといえば、作文を書く目的が異なるからである。」(『論理的思考とは何か』ⅱ~ⅲページ)
渡邉さんは、この本のなかで、アメリカ・フランス・イラン・日本それぞれの学校で教えられている「作文」の「型」を分析して、「論理的」は一つではないということを具体的に論証しています。「経済」(アメリカ)、「政治」(フランス)、「法技術」(イラン)、「社会」(日本)といった四つの領域に固有の論理と思考法がつぶさに分析され、考察されていきます。そして、「どの領域の論理を使うのか」によって、その文章における「判断」は異なってくるということを明らかにしています。
『論理的思考とは何か』がノンフィクションの読み書きにとって重要だと私が考えるのは、こうした四つの領域の思考法に、それぞれの国や地域の特徴を振り分けることに主眼があるわけではなくて、「目的と場面によって、四つの型を使い分けられるようになること」が大切だと主張する本であるという点です。渡邉さんはそれを「論理的思考から、多元的思考へのシフト」と言っています。それがなぜ大事なのか。
「では論理も論理的に思考する方法もひとつではないということから、何が学べるのだろうか。それは、私たちは状況に応じて論理的な思考の方法を「選ぶことができる」ということである。」(『論理的思考とは何か』164ページ)
「人々が信じる価値観を臨機応変に変えることは難しいが、四つの領域の論理と思考法をレトリック―文章構成・議論の手続き―のレベルで考えることは可能で、それを技術として使いこなすことは、これからの社会を生きるための何よりの力となる。四領域のそれぞれの論理を、文章構成と議論の選択可能な「スタイル」として受けとめると、このスタイルを時と場所に応じて、相手に応じて、また目的に応じて、善意をもってあるいは戦略的に選び使い分けることが可能になる。戦略的にとは、たとえば相手が議論している領域を故意にずらすことによって自分の領域の土俵に連れ込むことである。」(『論理的思考とは何か』169~170ページ)
「論理」や「論理的に思考する方法」が一つではないために「選ぶことができる」ということは非常に重要なことだと思います。一つの「論理的」を知って終わりではなくて、複数の「論理的」を知って、それらを「選ぶことができること」こそ、この世界を生きる行為体(エージェンシー)として思考する条件だということを、渡邉さんの主張は教えています。渡邉さんの『論理的思考とは何か』のこうした主張は、次のようなエリンさんの言葉とつながっていると、私には思えます。
「子どもたちにフィクションを読むときとは違った方法でノンフィクションを読むように教えたときには長持ちします。それは、子どもたちが教室を巣立ってから後にも長く使うことのできるツールですし、私たちが想像もできないような難しいノンフィクションを読み、情報を理解するときに活用できる方法です。ノンフィクションの構造と障害について学ぶことは、多様な種類の理解に役立ちます。ノンフィクションを読みこなすツールは、理解のための7つの方法と同じく、新しい情報を自分のものにする際に使いこなしてほしい方法です。使いこなすことで、子どもたちは自分の考えや態度を変え、新しい知識に基づいて行動し、世界に参加して行くことになるわけです。」(『理解するってどういうこと?』277~278ページ)
渡邉さんの言う「論理的」の「四つの領域」を「善意をもってあるいは戦略的に選び使い分けること」を、エリンさんは「使いこなす」という言葉で言い表そうとしているのだと私には見えます。そして、そういうことができるようになれば、ノンフィクションを読み書きすることの意味がよりくっきりと見えてくるはずです。