2023年12月16日土曜日

深く学ぶ喜びを味わう道

 『理解するってどういうこと?』の第1章で、小学校2年生のジャミカの質問を受けた後、エリンさんは「理解」について再考し始めるのですが、そのときに「理解することとは、知的能力が発達することと同義である」ということに気づきます。それがどういうことか説明するために、エリンさんは自分自身の知的な体験の記憶を次のように語っています。

「私は、高校生のときにアメリカ史の授業で死刑制度についての研究プロジェクトに取り組む課題を与えられたことがあります。私は、数十もの資料を使って、幅広い背景と年齢の人々にインタビューを行い、いろいろな州の法律を調べて、自分自身がこれまでにもっていた価値観や考えていたことをもうこれ以上は無理というまで掘り下げました。いろいろな疑問やイメージで頭のなかがいっぱいになって、夜中に目を覚ましたり、この問題についての話に友だちや家族を長々とつきあわせたりしながら、自分の考えを繰り返し修正したのです。そして、クラスメイトに自分の考えを披露し、主張したことを正当化しなければなりませんでした。クラスメイトたちは質問や難題を浴びせてきました。私の発表が終わって、レポートを提出した後も、私はまだそのテーマに終止符をうつことはできませんでした。頭のなかはずっと揺さぶられ続け、この答えの出ない複雑な問題にもがき続けたのです。自分の成績がどんなものだったかは思い出せませんが、知的な取り組みに高揚感を覚えたのは確かです。その私の満足感は、内面的なものでした。外部から与えられるどんな報酬も、細切れの情報をつなぎあわせてパズルを解いていったこのときの興奮にとってかわることはできないでしょう。この死刑制度という複雑な問題を理解できるようになったことによって、私はもっと多くのことを知りたくなりました。」(『理解するってどういうこと?』9ページ)

 「答えの出ない複雑な問題にもがき続けた」ことで自分の「内面」に「高揚感」「満足感」「興奮」を覚えたエリンさんにとって、「成績」という「外部」からの価値づけは関心の外であったと言ってもいいでしょう。だから「よく覚えていない」と語っています。このプロジェクトで一番いい成績だったというような回想ならおそらくその結果が書かれることになります。ですから「よく覚えていない」なのです。その代わりにここでは、プロジェクトに取り組んだ自分自身が、何をやったか、他の人の反応はどうだったかという過程が克明に書かれています。これは、エリンさんのこの学習の過程で他の何ものにも替えることのできない「内面」の報酬を得たことをあらわします。この引用の後に「もっと多くのことを知りたくなりました」とエリンさんは続けています。知的な探究心がどのように芽生え発展してくのかということを伝え、知的な探究がいかにそれに取り組んだ者の自己効力感を高めるのかということを教えるエピソードでもあります。

 ロン・バーガーさんの『子どもの誇りに灯をともす―誰もが探究して学びあうクラフトマンシップの文化をつくる―』(塚越悦子訳、藤原さと解説、英治出版、2023年)には、エリンさんが経験したような学びの高揚感や達成感や興奮を覚える子どもたちの姿がたくさん描かれています。その一つ「水の学習」プロジェクトで、大学生とともに近隣の小川や井戸の調査研究に協働で取り組んだ子どもたちは、ロンさんを驚かせる「成長ぶり」を示します。プロジェクトに参加した生徒の母親の言葉はロンさんに言います。「私の息子は変わりました。いくらテストの結果が振るわなくても、息子は自分が勉強のできない生徒だと思わなくなりました。あのプロジェクトを成し遂げたのだから、自分にはそれだけの能力があると信じているのです」と(『子どもの誇りに灯をともす』180ページ)。

 おそらくこの生徒もエリンさんと同じく「内面」で知的な高揚感や達成感や興奮を覚え続けたのでしょう。それがあるから、外部からの評価を気にしなくなった。そして自らの知的発達を確信することができたということでもあります。

 『子どもの誇りに灯をともす』のなかで、もう一つ興味深かったのは、208ページから始まる「ある教室のストーリー―教えるためのインスピレーション―」です。「がっしりとした筋肉質の大柄な小学6年生」である「バディ」という男子生徒と並んで歩くシーンから始まりますが、「バディ」を含めた小学生たちと「旧鉱山」に出かけて、岩石採取をするプロジェクトの描写です。「旧鉱山」には洞窟もあったので、そこでも色々な石を採取します。学校に戻ってから、洞窟での体験をもとづいてマーク・トウェインの『トム・ソーヤーの冒険』の洞窟のエピソードを読み直して、洞窟地図をつくったり、また洞窟を素材にした短篇小説を書いたり・・・というふうにこのプロジェクトは続いていきました。

 「手のかかる」生徒だった「バディ」も、こうした野外での活動には熱心に取り組んだようです。他の生徒たちもそうでした。感心するのは、一人ひとりの生徒たちが自分の「得意」や「興味あること」を見つける手がかりが随所にあるプロジェクトだというところです。また、体験と言葉を結びつけることが組み込まれているというところにも目を引かれました。体験して考えたことを表現する手立てをもつことができるからです。

 エリンさんは「死刑制度」の研究プロジェクトに参加する過程で、知的な高揚感と興奮と達成感を覚えました。ロンさんの生徒たちはプロジェクトに参加する過程で知的な発達を見せました。どんなに小さなものでも入り口を見つけて、そこに入って見つけたものにこだわって探究し、仲間とやりとりしながら、何かをつくり上げる過程で達成感を覚えるからこそ、その後生きていくうえで重要になる自尊心がうまれるのだということを、二人の言葉は教えてくれます。深いレベルで学ぶ喜びを味わう道を。

 

★うかつにも、『子どもの誇りに灯をともす』は「PCL便り」の2023.7.24でも取り上げられていることに、上の文章を書いてから気づきました。引用した生徒の母親の言葉が一致しています。あの言葉はそれぐらいインパクトがあります。

https://projectbetterschool.blogspot.com/search?q=%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%AC%E3%83%BC

 

2023年12月9日土曜日

自転車に乗る練習からイメージする「ガイド書き」

 これまで、時々、「ガイド書き」(guided writing) という言葉を耳にしつつも、「ガイド読み」の書くこと版?ぐらいのイメージしかありませんでした。(「ガイド読み」(ガイデット・リーディング guided reading) では、読むことについて共通の課題を持っている子どもたちを集めて、少人数で短い時間、教えます。ガイド読み」については、『リーディング・ワークショップ』(新評論、2010年)第8章「ガイド読み」と「効果的な読み」125ー138ページをご参照ください。★1)

 最近、「小グループで教える」ことに焦点を当てた本『Teaching Writing in Small Groups』(★2)を読んでいます。ライティング・ワークショップで、「全体へのミニ・レッスン」と「個別カンファランス」に加えて、様々な小グループでの教え方をうまく取り入れると、「それぞれの子どもたちへの個別カンファランスの頻度が上がらない」とか「クラス全体にデモンストレーションしても、うまくできない子どもがいる」等への対応ができるヒントがたくさんあるような印象を受けています。

 多様な小グループの教え方の一つが「ガイド書き」(guided writing)で、この本では「ガイド書き」という章(76-86ページ)で説明されています。(以下のページ数は『Teaching Writing in Small Groups』のページ数です。)

 著者のセラヴァロウ氏(Jennifer Serravallo)は、小グループで書き手を教える場合、実のところ、それは「ガイド書き」になっていると言います。それは、集められた子どもたちが、現時点ではまだできていない新しい作家の技や方法にトライして、できるようにガイドするのが目的だからです。教師はいろいろな目的で小グループ活動をすると思いますが、他の小グループとの違いは、書き手に与えられるサポートの量(ガイド書きではサポートがたくさん与えられる)と教え方の構成(ガイド書きでは、教師がしっかりコントロールしている)だと記しています(80ページ)。

 ガイド書きで子どもたちを集める場合、教えるポイントは同じですが、子どもたちは、それぞれ異なるトピックの作品に取り組んでいることも多いです。教師は、異なるトピックでも共通するような指示をたくさん出し、しっかり足場かけ(scaffolding)をしてサポートします(80ページ)。

 例えば、幼稚園の子どもたちを教えているニカルズ先生は、「自分のこと(経験や行ったこと)を書く(personal narrative)」というユニットを教えている時に、「海岸には砂があります。海では泳ぐことができます。海岸が大好きです」というように、事実を書いているものの、それだけで終わっている子どもたちがいることに気づきます。そこで、そういう子たちを集めて、「自分のこと(経験や行ったこと)を書く」時には、ストーリーにはいくつかの出来事の連続性があることや、実際に行ったことや言ったことなどの情報を織り込むことを、ガイド書きで教えることにしました。 (ここから、以下の数段落は、77ページと78ページから、ざっくり紹介です)。

 集められた3名の子どもたちは、それぞれ、プール、海岸、公園について書こうとしています。先生は、それぞれの子どもたちに、プール/海岸/公園に行った、「ある特定の時」を考えるように言います。それから「その時に起こった最初のこと、そこで自分が行ったことを考えるように指示し、それについてさっと絵を書いてみるように言います。「絵に誰がいるの?」「この人は何をしているの?」等も聞きながら、さらに、次に起こったこと、その次に起こったことの絵を書くように言います。 

 簡単な絵ができると、最初の絵について、子どもたちに最初に何をしたのかを尋ねて、それぞれが自分の行動を言えれば、それを文として絵の下に書くように言います。

 また絵に書かれている人が言ったことを、吹き出しで書くようにも言います。

 こんな感じでガイド書きを続け、最後には付箋に「言ったこと」「行ったこと」と書いて子どもたちに渡し、「言ったこと」「行ったこと」を加えるという二つの方法を、子どもたちが今後も覚えられるようにして、終了です。

 先生は最後には「言ったこと」「行ったこと」を強調していますが、実は、ガイド書きの間には、もっとたくさんのことを、サポートをいっぱい出して、できるようにしていることも指摘されています。

 例えば以下です。

・「(プール、海岸、公園に行った)ある1回」について書くのか「プール、海岸、公園について」書くのかの違い

・文を書く前に、場面を思い出して、絵を書いてみる

・文を書く前に、口に出して言ってみる

・一つの文を書いてから、次の文を始める

・絵に戻って吹き出しをつけることで、出てきた人が言ったことを思い出す

・絵を見て、言葉を足す

(77-78ページ)。

*****

 上記のようなことは、先生がどんどん「具体的に行うように促す」ことで、子どもたちは行っています。

 私がイメージしやすかったのは、「ガイド書き」で行うサポートを、自転車に乗り始めた子どもと親に例えていたことでした (80ページより)。

 初めて自転車に乗ることにトライする時に、親が自転車を支えることで、子どもは転ばずに進めます。これは自分一人ではできないことです。親は、コンスタントにサポートをしながら、子どもに「前を見て」「ハンドルをまっすぐにして」「ペダルを漕いで」など、どんどん指示を出していきます。

 これで、「自転車に乗る」という感覚がつかめます。

 でも、いつも親がサポートすることは必要ではありませんし、いつも親がサポートしていると、子どもが一人で乗れるようになることの妨げにもなります。

 同様に、ガイド書きの時は集中的にサポートし、指示もたくさん出しますが、それはガイド書きのときだけですし、ガイド書きばかり使うのも望ましくないようです。

*****

(★1)「ガイド読み」には多様な方法があり、行う人によってかなりバリエーションもあり、『リーディング・ワークショップ』で説明されている「ガイド読み」は、『Guided Reading』という著書もあるゲイ・スウ・ピネル(Gay Su Pinnell) に影響を受けた教え方だと説明されています(『リーディング・ワークショップ』126ページ)。

(★2) Jennifer Serravallo著

Teaching Writing in Small Groups (Heinemann社より 2021年)



2023年12月1日金曜日

子どもたちが国語を好きになり、読み書きの力をつける授業にするための13の問い

 先週の記事の執筆者の冨田先生は、『作家の時間』と『読書家の時間』を15年ぐらい実践し、それらを社会科に応用した『社会科ワークショップ』も10年弱実践しています。なので、国語の授業を「作家の時間」や「読書家の時間」で行う際の「問い」はもはや必要なく、それらを「学校ワークショップ」として実践すべく「問い」を考えたわけです。

しかし、教科書をカバーする従来の国語の授業に疑問を感じている方(や「作家の時間」にチャレンジし始めたばかりの方)は、そういう問いがあった方が考えやすい/実践に進みやすいと思って、考えてみました。参考にしたのは、「作家の時間」を先生たちの学びのコミュニティーづくりに応用した「学校ワークショップ」をする際に冨田先生が考え出した問いのリストです。★ 問いの後には、簡単な解説や情報が得られる本やサイトを紹介しています。


・生徒一人ひとりが、主体者意識を伴った目標を設定することができるか? ~ これを可能にするヒントが、『イン・ザ・ミドル』(特に、第8章? 本全部?)や『あなたの授業が子どもと世界を変える』が得られます。
・教師による講義(話)を1コマの国語の授業で10分ぐらいに押さえられているか? ~ この10分ぐらいというのは、脳の機能に由来しています(人権問題に由来しているという人もいます!)。一番長い時間を生徒たちが実際に書く時間(「読書家の時間」の場合は、実際に読む時間)に割けていますか? 最後の5~10分は「学んだことの共有」や「振り返り」として確保できていますか? ※しかし、いま日本中で行われている振り返りシートを使った「振り返り」は弊害が大きすぎますので、要注意です!!
・国語の授業の「成果物(出版)」は出せているか? ~ 生徒たちが学んだことを発表し、輝ける機会をつくれていますか?
・生徒はポートフォリオを紡ぐことができているか? ~ 自分の学びの記録(作家のサイクルhttps://wwletter.blogspot.com/2012/01/blog-post_28.html を回し続け、それぞれの段階で試行錯誤している記録だったり、ジャンルによって、自分が学んだことやチャレンジしたことの記録など)は、宝物になります。
・生徒たちが主体的かつ対話的に学び続けられる学習環境をどのようにつくり出しているか? ~ 主体的に学んでいる人、話している人が一番よく学んでいるので、それができる環境をどのように作っていますか? http://wwletter.blogspot.com/2010/05/ww.html

・生徒が作品を作ることをモデルで示すように、教師はどのようにモデルを示しているか? ~ WW/RW便り: モデルの検索結果 (wwletter.blogspot.com) でこの点についての記事がたくさん読めます。
・国語の授業におけるカンファランスは実施できているか? ~ 作家の時間は、英語ではライティング・ワークショップ、ライターズ・ワークショップまたはカンファランス・アプローチというぐらいに、教師と生徒、教師と複数の生徒、そして生徒同士のカンファランスを中心に据えた教え方です。
・ファンレター(他者からの反応)は、誰から、どのように受け取るべきか? ~ これをもらうことが、子どもたちには最高のやる気(さらに努力して取り組み続ける意欲)になります。その意味では、最後にもらうよりも、学びの過程でもらえた方が、はるかに価値は高いです。
・生徒の成果・成長を祝うために何ができているか? ~ そもそも、成果物や成長を感じられるものをつくり出しているか? 日本ではこれまで、成果物(生徒の作品やパフォーマンス)をつくる授業や、それらに対する評価をほとんどしてきませんでした。教育界の傾向や本書は、テストに向けての授業や、テスト以外には評価方法は考えられないという「偽の教え方」や「偽の評価」から、「本物の教え方」や「本物の評価」に転換する要として、成果物が位置づけられています。『学びの中心はやっぱり生徒だ!』や、https://docs.google.com/spreadsheets/d/1KXuWtBc4kl6jRr2KGwnqPAH1vSryYkM7qNXd0ArKpYU/edit#gid=1042705275のリストの本のなかでは、本物の成果物やその発表の対象なしの学びは、「生徒中心の学び」とは言えない、という主張が貫かれています。(以上、『みんな羽ばたいて』の5ページより)
・授業を持続可能な形で運営することができるか? ~ ここは、https://projectbetterschool.blogspot.com/2023/01/blog-post_15.html が参考になります。
・一人ひとりの生徒が「学ぶ責任」に耐え、支え合えるか? ~ 生徒たちが責任を担えるような教師の教え方が肝心で、『「学びの責任」は誰にあるのか』や『一斉授業をハックする』が参考になります。
・生徒の多様性が、教師の指向に合う教育論に偏ってしまうことはないか? ~ この点については、『イン・ザ・ミドル』の第1章で著者が『教える論理』から『学ぶ論理』に移行した経緯が詳しく紹介されています。
・「世の中」 のトップダウン・マインドに対して、教室/授業(作家の時間の教え方)を防衛することができるか? ~ テストをして、その成績を出すことや、そのために教える授業がいまだに横行しています。そんな悪習に流されずに、自分を貫くことは容易ではありません。管理職、保護者、同僚たちのその悪習を踏襲する圧力に対して、生徒が書くこと(や読むこと)を好きになり、書く(読む)力をつける教え方を貫くのは大変なことです。『成績をハックする』などを参照してください。

 上の問いのなかには、教材のこと、教材研究のこと、指導案のこと、教科書をカバーすることなどは一切含まれていません。それらはすべて、最後の項目の「悪習」に含まれるものであり、「教える論理」に基づいたものです。ぜひ、「学ぶ論理」に転換した教え方・学び方をお願いします。


http://wwletter.blogspot.com/2023/11/blog-post_24.html の最後のほうで掲載されている問いは、とてもいいリストです。日本の教育書や論文を読んでいると、正解志向があまりにも強すぎて、いい問いを見かけることはほとんどありません。問いこそが、思考を促し、正解(らしきもの)は思考を停止させてしまうにも関わらず。

2023年11月24日金曜日

「学校ワークショップ」〜ワークショップの学び方を生かした学校マネジメント〜

『作家の時間』や『読書家の時間』が学習コミュニティを育てるよいプラットフォームとして成立するのであれば、先生たちが学び続ける学校をつくることにワークショップを応用することはできないでしょうか?



「作家の時間」や「読書家の時間」は他の教科や学習コミュニティにも応用できる




 私は『作家の時間』や『読書家の時間』をはじめとするワークショップの学びの仕組みに関心を持ちました。まだ教職についてまもない20年弱前のこと、子どもたちを「自立的な学習者」へと成長できるようにすることが目的であるワークショップの学び方に共感し、また、学習コミュニティが成熟していったり、子どもたち一人ひとりが書くこと・読むことを楽しみ高まっていったりする姿に感動を覚えました。

 また、自分自身の子どもを見る目、学習を見る目に変化が起きていることに気づきました。他者が作った目標に向かって育てるのではなく、それぞれの子どもが内面から自由意志で伸びようとするベクトルと、私自身が持っているリソース(問い、励まし、知識や経験)とを、どのように掛け合わせたら良いかを模索し、その子特有の成長点へと教師の支援を届けるようにしました。国語という一つの教科の中であっても、子どもたちを「高い」「低い」で見るのではなく、「どのような色をしているか」という点で見るようになりました。教室の中には相互作用と多様性が生まれ、狭い価値基準で他者と比べないで、自分の得意や良さを生かす作品が生まれていきました。

 そうやってワークショップという学習環境を学んできた私は、いつしか、自分の好きな教科である「社会科」や学び続けてきた「特別支援」の現場でも、この学び方を展開できるのではないかと考えました。それが『社会科ワークショップ』です。特別支援の中での作家の時間も、子どもたちの良さを引き出す学習環境となっています。





ワークショップというプラットフォームを使ってマネジメントする




 つまり、「作家の時間」「読書家の時間」は、メソッドというよりは、コミュニティ作りのプラットフォームなのです。そして、その成長過程にあるコミュニティを調整していくマネジメントの一つなのだと考えています。そう考えれば、私が行ってきた『作家の時間』や『読書家の時間』を社会科や特別支援に応用すること以上に、もっと他のコミュニティに応用することが可能なはずです。

 そう、私たちにとって最も身近な学びのコミュニティは、学校の先生たち、学校や職員室に応用することです。


先生たちが学習者の一人として成長しようとする学校とは?




 先生たちも、「自立的な学習者」の一人として学習のコミュニティに参加し、全ての先生が他者が作ったものではない主体者意識の込もった目標を定め、一人ひとりのペースで成長していきます。そこに「高い」「低い」はなく、一人ひとりの差異が色となっていきます。お互いを尊重し、感謝とケアを送り合い、学校の存在目的である「子どもの学習」や「自立的な学習者への成長」にむかって、緩やかに協働して進んでいきます。

 もう語り尽くされた感がありますが、「職員室と学級は入れ子構造である」というフレーズがあります。職員室がトップダウンであれば、学級もまたそうなってしまい、職員室の学びが受動的であれば、学級もまた受動的であることから逃れられません。この入れ子構造から逃れるためには、相当に厚い防衛線が必要で、画一化から自分を守り続けるだけで疲弊してしまいます。

 そうであれば、古い皮袋にワークショップを入れるのではなく、新しい皮袋が必要になるのだと思います。学校全体でワークショップのコミュニティ作りを応用していくのです。





 そのように考えると、いろいろな問いが様々に生まれていきます。


学校ワークショップへの問い


・先生一人一人が、主体者意識を伴った目標を設定することができるか?
・学校ワークショップにおける「ミニ・レッスン」や「振り返り」はどうあるべきか?
・学校ワークショップでの「アウトプット(出版)」はどうあるべきか?
・先生たちはポートフォリオを紡ぐことができるか?
・先生たちが学び続けられる学習環境はどうあるべきか?
・教師が作品を作ることをモデルで示すように、校長はどのようにモデルを示すべきか?
・学校運営におけるカンファランスとは、どのような関係で行われるべきか?
・ファンレター(他者からの反応)は、誰から、どのように受け取るべきか?
・成果・成長を祝うためにどうすればよいか?
・持続可能にマネジメントすることができるか?
・一人ひとりの教師がそのような責任に耐え、支え合えるか?
・職員室の多様性が、リーダーの指向に合う教育論に偏ってしまうことはないか?
・「世の中」のトップダウン・マインドに対して、学校を防衛することができるか?

 これらの問いに少しずつ答えられるような仕事ができたら良いと思っています。





先生の成長を助ける学校ワークショップ


 現在、私は公立小学校の教務主任という立場です。自分も特別支援学級の担任という一人のプレイヤーとして仕事をしながら、学校運営の一端を担っています。

 私の勤務する学校は、一人ひとりの先生が自分の持ち味を生かしながら専門性を磨いています。力のある先生ばかりです。一方で、どこか自信なさげに見えることが多くあります。力があるのに「充実感」や「幸福感」が薄いように見えるのです。他の先生、校長、保護者や子どもから、求められている理想の教師像を気にし過ぎているのかもしれません。私自身もどのように声をかけたら良いか分からず、先生たちの背中を見つめるだけになってしまうことも多くあります。



 私の教師としてのあゆみと共にいつも傍にいたワークショップの学び方が、子どもたちだけでなく、先生たちを助ける方向に生かせないかを考えています。




(写真は「横浜市自然観察の森」 子どもたちと宿泊体験学習に行きました)

2023年11月18日土曜日

新しく学んだことを既知のことに関連づける「マルジナリア」

 『理解するってどういうこと?』の第5章には「読み・書きを学ぶ際の主要な構成要素」として「さまざまな認識方法」が掲げられています(『理解するってどういうこと?』167ページ)。読み手が流ちょうに読むのを助ける一連のスキルと方法は「表面の認識方法」ですが、読み手が自分の理解を拡張して応用するための理解を助ける一連のスキルと方法は「深い認識方法」と呼ばれています。このうち「深い認識方法」には「意味づけの領域」「関連づけの領域」「優れた読み手・書き手になる領域」の三つの領域があるとされています。

 本を読んでいて新しい知識にめぐりあった時には嬉しいものです。しかしその新しい知識を「深くわかった」と実感する時に私たちのなかでは何が起こっているのでしょうか? それは、新しく学んだことが自分の既に知っていることと関連づけられた時ではないかと思います。そのようなことが起これば、自分の既に知っていることはかたちを変えざるを得ません。自分が既に知っていたことが間違っていたと思える場合すらあります。そのように揺さぶられるからこそ、新しい知識を「深くわかった」と実感するのではないでしょうか。

 私は、そういう意味で、『理解するってどういうこと?』に記されている理解の仕方の中心になるのは、「深い認識方法」の「関連づけの領域」ではないかと考えています。エリンさんは次のように言っています。

「関連づけの領域とは、説得力を持って書かれた文章を読むあいだ、活性化された私たちの頭のなかで働いている認識過程のことです。子どもの頃から読んできたいろいろな本についての消えない記憶を残してくれて、表面の意味以上の書かれていないメッセージ(ある本や文章を書くときに作家が考えていたであろうさまざまなアイディア)をじっくり考えた初めてのときのことを、思い出させてくれる領域です。(中略)関連づけの領域は、私たち一人ひとりの解釈をつくり出し、読む意欲をかき立てる、エンジンのようなものなのです。また、新たに学んだり発見したりしたさまざまなアイディアを取り入れることで、自分が既にもっていた知識や、もともと持っていた考え方や、感情や意見を作り直してくれます。」(『理解するってどういうこと?』178ページ)

 では、「関連づけの領域」を発動させるにはどうしたらいいのでしょうか。そんなに簡単なことでないように思われます。どうすれば新しく学んだことを既知のことに関連づけることができるのでしょうか。

 以前取り上げた『記憶のデザイン』(筑摩書房)の著者山本貴光さんに『マルジナリアでつかまえて 書かずば読めぬの巻』(本の雑誌社、2020年)という著書にはそのためのヒントたくさんあります。「マルジナリア」とは、山本さんによれば、本の余白(マージン)に書き込まれたもの、のことです。いわゆる「書き込み」ですね。『マルジナリアでつかまえて』はこの「マルジナリア」の諸相を多彩に知らせてくれる本です(『本の雑誌』に連載された記事がもとになっています)。

「文章とは、書く側からいうと、読者の脳と記憶に探りを入れて、そこにあるものを意識にのぼらせてしまう一種のハッキングの技法みたいなものだ。これを読む側から見れば、誰かが書いた言葉の組み合わせを目から脳に文字通り体に入れて、なにが生じてしまうかを自分の体で実験しているようなものである。なにそれコワイ!コワイが楽しい!!

 念のためにいえば、そのつどの読書は一度しか生じない。同じ川に二度入れないのと同様である。マルジナリアとは、そうした出来事の観察記録でもあるのだ。」(『マルジナリアでつかまえて』57ページ)

 読者自身の頭のなかで行われる「関連づけ」を具体的に自分が「観察」できるようにしてくれるのが「マルジナリア」であるというわけです。「そのつど」の読んで気づいたことが言葉や記号や絵図として残されるのです。そしてその「マルジナリア」を私たちは再読することもできます。

 そんなことは読書ノートやジャーナルに書けばいいではないかと思われるかもしれません。実際私もそうすることは少なくないですが、時間をとっていささか構えて書くことになります。それに対して、「マルジナリア」は読んでいる本自体をノートやジャーナルにしてしまうものでもあります。

 『マルジナリアでつかまえて』には、古今東西の、自分の読んでいる本をノートやジャーナルにしてしまった人々のことが、その人々の実践のありようを示す写真とともに、柔軟でわかりやすい文体で紹介されています。漢文訓読すらも「マルジナリア」だと言われると、漢文学習が少し違ったものに見えてきて、これも中国文に対する深い理解のための「関連づけの領域」だったのだと思えてくるから不思議です。多彩な「マルジナリア」の姿については是非本書を手に取ってご覧下さい。

『マルジナリアでつかまえて』の最後のあたりに「マルジナリアことはじめ」という章があります。山本さんの経験をもとに「マルジナリア」をどのようにつくるのかということがわかりやすくまとめられています。「書き込み」については次のように述べられています。

「書き込みにもいろいろありますが、線を引くのはその一つ。中学や高校の教科書などで重要な箇所に選を引いたりした経験があるかもしれません。ページにたくさんの文字が並ぶなかで、「ここは重要」という箇所を浮かび上がらせるためのマーキングですね。

「重要」な箇所ばかりでなくてもよいと思います。私の場合、「気になるところ」ぐあいの意味で線を引くことが多いです。ここは気になる、あとでもう一度戻ってきたい、なんだろうこれは?といった具合です。基本的には、「あ、ここ線を引きたい」と感じたら気持ちの赴くままに引けばよいわけです。もちろんなんらかのルールを設定して運用するのもありです。」(『マルジナリアでつかまえて』255ページ)

 「あ、ここ線を引きたい」という箇所で、おそらく「関連づけ」が起こっているはずです。読者の既知の情報が揺さぶられています。そこのところが「マルジナリア」をつくる意義でもあると思います。この引用のすぐあとの部分で、ついつい線を引きすぎてしまうことがよくあると述べられていますが、その場合は、線を引いた部分のなかでとくに大事なところをマーカーペンなどでマーキングするとも書かれています。これもなるほどと思いました。大事なところのさらに大事なところが絞り込まれていきます。

では読んでいる本の余白にどのようなメモを山本さんはしているか。


 「・要約:込み入った内容を簡単にまとめる

・換言:込み入った内容を自分なりにパラフレーズ

・意見:読んで思い浮かんだこと、アイデアなども

・疑問:書かれていることへの疑問

・調査:他の文献やネットなどで調べたこと

・原文:翻訳書などで原文の表現がどうなっているか」(『マルジナリアでつかまえて』257ページ)

 

こうなると、かなり詳しく読んでいる自分の思考や記憶をその本の内容と関連づけて言葉にすることになります。「要約」も「換言」も「意見」も「疑問」も、既知のことと関連づけるからこそうまれ、意味をもつことになります。山本さん述べるところの「マルジナリア」が「関連づけの領域」を発動させ、活性化させると私が考えるのもこのためです。こういう営みが理解の「エンジン」となることは言うまでもありません。そして、山本さんはこんなことも言っています。

「こうしたマルジナリアを眺めていると、ものを読むとはいったいどういう営みなのだろう、といまさらながら不思議な気分にもなってくる。もう少し言えば、私たちは一冊の本を読み終えたりできるのだろうか。開くつど新たな発見や疑問が湧いてくる本があるとしたら、その本を読み終わる日は来るのだろうか。

ボルヘスに、開くたび違うページが現れる「砂の本」という短篇があったのを思い出す。実は、どんな本も「砂の本」なのかもしれない。それにほら、余白に書き込みをすると、そのつど違うページになるのだしね。」(『マルジナリアでつかまえて』179ページ)

菅啓次郎さんの『本は読めないものだから心配するな』(ちくま文庫)を想起させる言葉です。「そのつど違うページになる」からこそ、「マルジナリア」が記された本や文章は、その読者にとってかけがえのない宝物であると言うこともできるでしょう。読み終えることができないからこそ、その本について、世界について、自分について深く知るためのプラットフォームになるのだと思います。

 

 

2023年11月11日土曜日

子どもたちが自分でジャンルを選択する創作活動 〜先生の先を行く生徒たち?

 「自分が何について書きたいのか」よりも、「自分がどういうジャンルで書きたいのか」の方に心を惹かれる、そんな子どもたちの姿を教室で見ることはありますでしょうか。例えば、ファンタジーを書き続ける子どもは、「ファンタジー」というジャンルが持っている力に惹かれているのかもしれません。自由な世界を作り出し、現実ではあり得ない方法で登場人物を活躍させることができるという、このジャンルの特性から、力を得て、ファンタジーを書き続けているのかもしれません。また、ビデオゲームのガイドを書くことが好きな子どもは、友だちに自分の知識を伝えられることが楽しいのかもしれません。最近読み始めた本『Craft and Process Studies: Units That Provide Writers with Choice of Genre』(3ページ)の中に、上記のような内容を見つけ、たしかに、あるジャンル/タイプの持つ力を見つけてしまった子どもはいるだろうなあと思いました。

 ある4年生の教室でも、自分の書きたいタイプの作品について尋ねると、「パロディ」「(出版されているものの)続編」「実際にあるテレビ番組の自分なりのエピソード」等々が出てきて、先生が「それは自宅で書いているの? それとも学校で?」と尋ねると、子どもたちは「自宅で」と答えるという場面があります(2ページ)。教室外で、教師の知らないところで、実は子どもたちは、熱心な書き手だった、ということもあるようです(3ページ)。そして、自分がのめり込むジャンル/タイプの作品を作り出すことに時間も忘れて熱心に取り組むにもかかわらず、そのような創作活動は、「教室の学び」の中には存在しないように感じる子どももいるようです。「意見文」「回想録」「詩」「フィクション」など、「ジャンル学習」でジャンル別に単元を組んでいても、子どもたちが興味のあるジャンルを全て取り上げていくのは不可能ですから、そこに入らないジャンルは「学習ではない」と感じてしまうのかもしれません。

 この本の著者のグラヴァー氏(Matt Glover)は、「子どもたちが自分でジャンルを選択する」ことを取り入れるメリットとして、以下の6点を記しています(6ページ)。

・本当の目的と読者を選ぶことを後押しする

・子どもたちが、ジャンルの概念をより理解できるようになる

・その分野での学びを加速させ、深める

・書き手としてのアイデンティティを強める

・ジャンル、トピック、読者、目的の4つを一緒に活用する

・生徒を書き手として理解するための大切な情報を教師が知ることができる

 上記で挙げた中の下から二つめ「ジャンル、トピック、読者、目的の4つを一緒に活用する」の好例が紹介されていました。5年生のジェレミー君です。先生がカンファランスで、「読者は誰を考えているの?」と尋ねたとき、以下のような答が返ってきました(15ページ、以下の説明も、全て15ページより)。

 「猫を家族に迎え入れた時のことを書いている。書き終わったら、複写して、猫の保護施設の人に渡すつもり。そうすれば猫の保護施設の人が、そこに来た人に僕の話を渡せるので、猫を家族に迎え入れようと思う人が出てくるかもしれない」

 先生は、カンファランスで読者を決めることについてサポートしようと思っていたようですが、ジェレミー君は先生の遥か先を行っていたようです。

 グラヴァー氏は、猫を家族に迎えた話であれば、あらかじめ単元として予定されている「回想録」というジャンル学習の時に書くこともできる、しかし、「回想録」のような、あらかじめジャンルが指定されている単元の場合、他のジャンルの可能性を考えることはできないことを指摘しています。

 子どもたちが自分でジャンルを選択できる場合、いろいろなジャンルを頭に浮かべながら、自分が伝えたいこと(題材、目的)と読者に最適と思えるジャンルを選択できる、つまり、トピック、目的、読者、ジャンル全てを、統合的に考えられるというのは、大きなメリットになりそうです。

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 まだ、この本の全体像は見えてこないのですが、ミニ・レッスンの定番で出てきそうなクラフト(作家が使える技)やプロセス(さまざまな書く段階)の中でも、多くのジャンルに共通するトピックは多く、題材の選択だけでなくジャンルの選択をどのように加えたり、位置付けたりするのかを引き続き考え、また紹介できればと思っています。

★1

Matt Glover著

Craft and Process Studies: Units That Provide Writers with Choice of Genre

Heinemann社より 2020年


2023年11月3日金曜日

「観点別評価」の三つの観点には、問題がある!

 今回は、前回と前々回の記事への異なる視点からのフィードバックを書きます。

 まずは前回の記事から。

 記事の後半部分には訪問者二人の感想が紹介されており、その最後に これからどのように他者の視点を意識したり,社会のニーズに応える文章の書き方を獲得していくのか,そのプロセスについて,次はまたお話をうかがってみたいと感じています」と書かれています。

前者の「他者の視点」については、その後に実践者がフォローしていないことから分かるように、ライティング・ワークショップでは一切問題になっていないからです。というか、ライティング・ワークショップのアプローチほど、読み手を意識して書く練習をするものはありません。「書きたいことを書く」と同じレベルで大切にしているのが、「目的をもって書く」「設定した対象に届く文章を書く」だからです。相手に届かなければ/相手が面白がってくれなければ、届くまで/面白がってくれるまで書くようになります。それを実現するために、「作家の椅子」という仕掛けがあったり、読者からのフィードバックが大切にされています。書いている途中の仲間にアドバイスをもらうことも、頻繁に行われています。

このことによって、渡辺さんが授業参観の主な目的に設定していた「学びのなかで起こる子どもたちの内的変化」も、かなり起こっています。

それが読み取れる事例が、『増補版・作家の時間』で紹介されています。第11章の「1年間の子どもの成長~作文が大嫌いだった粕谷君」です。4月に粕谷君が書いた文章と年度末の3月にクラスの発表会で彼がみんなに紹介した文章(そして、その間に彼のなかで起こった変化が、明らかです。

いま教育界では、「活動」が重視されています。それも、教材研究を念入りにした教師が事前に考え抜いた「活動」が。それがあたかも、教師がすべきことと理解する風潮が濃くあります。全国の附属学校を含めて研究校での研究発表は、その線上で行われています。しかし、そうした取り組みが周辺の学校に普及することは、ほとんどありません。考え出した先生しかやれませんし、子どもたちにとっては、どんなに教師ががんばったところで、活動はやはり「やらされ感」の濃いものですから。生徒が自分から主体的に、自立的(「自律」ではありません!)に取り組む類のものではありません。

しかし、粕谷君の事例だけでなく、渡辺さんたちも見た今回のクラスの子どもたちも、授業中だけでなく、授業以外でも考え、書き続ける子どもたちが増えるのがライティング・ワークショップです。子どもたちは、自分が本当に表現したいことに出会えば、時間なんか関係なくなります。休み時間、昼食時、放課後、家に帰ってからも、考え、そして書き続けます。それが読み手に伝わることを念頭に入れて。これは、「活動」とはまったく次元の異なるものです。「自分事」のレベルもまったく違います。

 こうしたプロセスにより、子どもたちは単に書くことが好きになるだけでなく、そこでのクラスメイトや読者とのやりとりを楽しむようになり、書くスキルを磨き、書く力をつけ、そして学校を卒業してからも書き続ける素地を身につけています。(これらのどれだけを作文教育は実現できているでしょうか?)

 

後者の「社会のニーズ」については、実践者自身がブログの最後で5行にわたって、とても誠実に考えています。しかし、このテーマに関しては、参観者と実践者の継続的な対話を期待したいところです。何しろ、この問いを投げかけた責任が参観者にはありますから。

私がこの点について紹介できるのは、http://wwletter.blogspot.com/2023/02/sel.html です。特に冒頭の部分を読まれて、あなたはどのような感想をもちましたか?

もう一つは、『イン・ザ・ミドル』の29~30ページに書いてあることです。これを含めて第1章「教えることを学ぶ」はぜひ読んでみてください。

子どもたちはみな、ストーリーをもっています! それも、価値あるストーリーを。

それを吐き出すチャンスを与えていないのは、教科書をカバーすることこそが大事に仕立て上げている、現行の教育制度です。あまりにも、「銀行型の教育」をやり続けることに忙しく(ちなみに、この「預金型教育」に対置する形でパウロ・フレイレが提唱しているのが「探究型教育」でした)! この転換が実現しない限り、無駄な努力と時間を浪費するだけの教員研修と授業が続くことが約束されています。

このような一人ひとりの生徒の書くことを含めた学びを大切にした実践がまとめられている本が、『一人ひとりを大切にする学校』デニス・リトキー著ですので、おすすめです。学校のあり方を根底の部分で考え直すための視点が網羅されています。その一つは、評価(エキシビション、ポートフォリオ、ナラティブ)です。テストや成績である限りは、授業も「探究型」ではなく「預金型」をすることを義務付けているわけですから。両者は、コインの裏表の関係にあります。

 前々回の記事では、八田幸恵・渡邉久暢著『高等学校 観点別評価入門』が『理解するってどういうこと?』との関連で紹介されていました。

 引っかかったのは、その「観点別評価」=「知識・技能」「思考・判断・表現」「主体的に学習に取り組む態度」のことです。

 多くのまじめな先生たちが、それを真に受ける形で苦労されているのを見てきました。それは、単元を計画したり、評価/成績をつける際に、それら三つに「無理やり」合わせようとすることによって起こり続けています。

 教育の目標イコール評価は、扱う教科領域が何であれ、通常は知識・技能・態度で表されるものではないでしょうか。それら三つによって教師はカリキュラムを考えて教え、生徒たちは身につけるのが望ましいものとされています。

 しかし、現在の学習指導要領で求めている「知識・技能」「思考・判断・表現」「主体的に学習に取り組む態度」という三つの観点は、それとのズレがあります。

 このズレを、文科省はどのように考えているのでしょうか?

「思考・判断・表現」は、すべて技能に含まれます。そうなると、「知識・技能」の技能に含まれているものは、文科省は何と捉えていて、研究者や現場の先生たちは何と理解しているのでしょうか?

 残るもう一つの「主体的に学習に取り組む態度」も、最初に登場した時から問題であり続けています。私が最初にそれを聞いた時に思ったのは、その9割がたは教師★の授業評価であって、生徒が示せる態度は「いいところ」1割ぐらいではないか、というものでした。通常、生徒たちは、自分が興味をもてそうにない教科書教材や、教師がよかれと思って用意した教科書以外の学習材ないし活動に参加させられる形で授業が展開するのですから。(そこに「自立」が入る余地はほとんどなく、教師は生徒の「自律」を願う程度です。)

 このような大きなボタンの掛け違えがあるなかで、観点別評価にこだわり続ける意味はあるのでしょうか?

評価(および評定/成績と、その裏返しとして生徒たちが身につけるべきもの)ということでは、(ボタンを掛け違えている)日本産の評価本と、本物の評価を志向している海外の評価本の「比較読み」をおすすめします。

・『一人ひとりをいかす評価』キャロル・トムリンソン著

・『理解するってどういうこと』エリン・キーン著

・『成績をハックする』スター・サックシュタイン著

・『聞くことから始めよう!』マイロン・デューク著

・『成績だけが評価じゃない』スター・サックシュタイン著

・『テストだけでは測れない!』吉田新一郎著

・『イン・ザ・ミドル』(特に、第8章)ナンシー・アトウェル著

 

★教師に言わせると、9割がたは「それは、教科書の責任でしょう」となるかと思います。それほど、教科書というシロモノは大きな問題を抱えています。『教科書をハックする』を参照ください。