2013年11月25日月曜日

読む・書くは、「市民」のベース

 「思考のレッスン」スピンオフ③です。


 なんと、スピンオフの①の最後で書いたこと(思考させない日本の学校や大学)と、スピンオフの②の最後で書いたこと(市民を育てることをしない日本の学校や大学)とは、根底の部分でつながっていると思いませんか?

実は、そのことに気づいてしまったことが、まちづくり(都市計画)が仕事であった私が教育に関わり始める主な要因でもありました。市民の存在なしにまちづくりをすることは不可能なんです。役所のやりたい放題のサポートをし続けることで満足感が得られなくなってしまったからです。

 でも、これって「ニワトリが先か、タマゴが先か」の論争でしょうか?

 スピンオフの②の最後に登場した苫米地ヤス子さんのような人は、少数ですがもちろん日本にいます。受けた教育に関係なく、市民になる人たちは。
 しかし、多くの人たちにとっては、教育(学校および大学)体験は極めて大きいとも思うのです。
 12年+αのあいだに、何をどう考えるか(あるいは考えないか)は、極めて大切なことだと思います。
 それを私たちは、どれだけ真剣に考えたことがあるでしょうか?
 (しかも、右傾化が進行する中で。安倍政権=自民党政権が続く限りは、それがさらに進むことは約束されています。)

 まさに丸谷さんの『思考のレッスン』が必要な所以です。
 もっともっと、考えるということ、読むということ、書くということ、聞くということ、話すということ、話し合うということ、見るということ、するということ、選ぶということなどを大事にしていかないと・・・・。それが、教科書をカバーする授業では、できません。あくまでも正解に集約される授業では。思考停止の授業では。

 バラバラな知識を詰め込むのではなくて、探究のサイクルや、問題解決のサイクルや、作家のサイクルや読書のサイクルを回せるようになることこそが大切なのではないでしょうか? それが、イコール「自立した学び手」であり、「自立した市民」ですから。

1 件のコメント:

  1. よく地方自治は民主主義の学校と言われますが、「市民を育てない学校=市民を拒否する中央集権」ですね。安部政権になってから、道州制の議論を聞かなくなりました。地方分権はどうなったのでしょう。
    永年地方自治の仕事をしていると「自治」という言葉が空疎に感じられます。中央集権で、市民も自治体職員も思考停止が進み、まさしく「痴呆自治」状態(笑)。日暮れて道なお遠し

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