2013年11月22日金曜日

科学リテラシー=考えること=読むこと=行動すること

「思考のレッスン」スピンオフ②です。

前回タイトルだけ紹介した『「科学的思考」のレッスン 学校で教えてくれないサイエンス』戸田山和久著のメモです。
当初は、このタイトルですから、このブログで紹介する内容ではないと思ったのですが、接点が多い(多すぎる?)ので、紹介することにしました。

第Ⅰ部は、科学的に考えるってどういうこと、というタイトルのもとに、
   理論、仮説、検証(実験・観察)、説明
   なぜ実験はコントロールされていなければいけないの?
が書かれていました。
 これは、探究(科学)のサイクルのことですが、基本的には作家のサイクルや読書のサイクルと同じです。(両方とも、サイクルを回すことにこそ、価値があります。が、日本の国語教育も、理科教育も、残念ながらそれを放棄する形で行われています。)

 私にとって参考になったのは、第Ⅱ部の、デキル市民の科学リテラシーの方でした。
 「科学者でない私が、なぜ科学リテラシーを学ばなければならないの?」という問いに答えてくれているのです。少し長くなりますが、私のメモを紹介します。(以下、数字は、ページ数。)

205 科学・技術はたえずパターナリズムに陥る危険性があります。パターナリズムとは、専門家がキミたちのことを考えてやってあげるから、素人は黙ってついてこい、という態度です。
206 科学だけではそもそも解決できない問題に対して、科学者だけに判断を強いる結果になるからです。
209 市民は科学をシビリアン・コントロールできるだけの科学リテラシーをもっていないといけない。
210 科学リテラシーは、知識の量にあらず
必要なのは、「科学がどういうふうに進んでいくのか」「科学がどういうふうに政策のなかに組み込まれているのか」「科学はどんな社会的状況が生じたら病んでいくのか」についての知識です。原子力発電の場合もそうです。どういう社会的状況や、どういうセクターの力関係のなかで、疑似科学っぽい危険な技術になってしまったのか。そういうメタ科学的知識が市民の科学リテラシーの重要な部分を占めるでしょう。
213 そのリテラシーを使って市民が科学・技術に関する社会的意思決定にちゃんと参画して、影響力を及ぼせる仕組みを作らないと、ダメですね。
215 その可能性としての、コンセンサス会議
  鍵は、「鍵となる質問」を作成できるか。
217 「フレーミング」=枠組みづくり=何が考える問題なのかを定めること
 問いをたてられるかどうか、が鍵


           <メルマガからの続き>


 「市民の科学リテラシー」って具体的にはどういうこと?
224 ①提供された科学情報に適切な問いを抱くことができる
233 ②科学の手続きには必ずモデル化と理想化が含まれることを知っている
235 ③1冊の書籍や一つの情報ソースを鵜呑みにしない。複数のソースを比較して、妥当だと思われる説明を取捨選択できる。
     「分かりやすさ」には落とし穴があることを知っている。喩えだけで満足してしまわない。
239 ④科学の特徴である「分からなさ」がきちんと伝えられているかをチェックできる。リスクや確率的なことがらについて妙に断定的な物言いがなされていたら、ちょっと疑う。
243 ⑤科学が不確実なことがらについて何かを言うとき、必ず外挿や推定が含まれていることを知っている。
245 ⑥科学的仮説を分かりやすい言葉で伝えようとするとき、強調点の置き方によって正反対の含意をもつこともあると知っている。
     それを避けるために、できる限り元ネタにちかいソースから情報を入手しようとする。
250 ⑦モデル化と推定の仕方の違いにより、不確実領域を科学が扱うとき、つねにいくつもの異論が並立していることを知っている。
     その異論の背景には政治的対立の可能性があることを知っている。
253 ⑧自分のリスク認知にはバイアスがあるということを知っている。
     バイアスを避けて冷静にリスク判断するツールとして、数値化されたリスクを参考にできる。
260 ⑨科学・技術に「安心」を要求することは合理的で、科学的・学問的に議論できることを知っている。
262 ⑩デキル市民は、リスク論争は安全性やリスクが問題になっているようでいて、その実、フレーミングの不一致に根ざしているのだということを知っている。
     科学技術をめぐる社会的決定の場面で、科学的なリスク評価を尊重しながら、さらに社会、政治、倫理、責任、信頼性・・・も視野に入れた複合的・多元的なフレーミングを提案していける。

 「市民」って誰のこと?
263 市民とは、対話を通じて社会を担っていく主体のこと
264 単に文句を言うのは、「大衆」
269 市民になりたくないなら、科学を学ぶ必要なんか、さらさらない。
  六ヶ所村ラプソディーに登場する苫米地ヤス子さん

 以上です。
 あなたは、どのような感想・印象を持たれましたか?

 私は、「いま学校で行われている理科教育ではダメだ」というものでした。そもそも教科書だけというのが致命的です!! パッと思いつくだけでも、問いを抱かない(①)、一つの情報ソース=教科書を鵜呑みにする(③)、わからなさを伝えない(④)、異論が存在しない(⑦)、社会、政治、倫理、責任、信頼性・・・をまったく無視している(⑩)のですから、未来はないとしかいいようがないです。
 でも、これって全部、国語にも当てはまると思いませんか?

 最後の、「市民」についてもとても共感できます。ちなみに、この視点も理科はゼロです。
 そして、国語も。
 「苫米地ヤス子」で検索したら、動画を見つけました。
 こういう人は、今の理科教育からは出てきません!
 国語教育の結果からは、出てくるかな?

1 件のコメント:

  1. 『科学的とはどういう意味か』by森博嗣

    75 科学的とは「誰にでも再現ができるもの」である。この、誰にでも再現できるというステップを踏むシステムこそが「科学的」という意味だ。・・・このように、科学というのは民主主義に類似した仕組みで成り立っている。
      たとえば、人間科学、社会科学といった分野では、人間や社会を対象として、「他者による再現性」を基に、科学的な考察がなされている。
      この「他者による再現性」を確認するためには、同じ分野の学者、研究者、専門家相互に情報交換をしなければならない。情報を公開しないと、それを他者が確かめることができない。したがって、秘密裡に行われる研究というのは、結果だけを公開しても「科学」にはならない。

    76 実験をするのが科学?
    78 実験が科学ではない

    84 科学は、普遍性を維持するための仕組みといっても良い、常にそれが再現できること、誰にも観察ができること、それが科学の基本である。

       では、どうして人間は、その「再現性のある科学」というものを発展させてきたのだろう。それは、再現される事象を見極めれば、これから起こること、つまり未来が予測できるからだ。科学で証明されたことは、条件さえ一致していれば、結果がほぼ確実に予測できる。それを人間が見つけたとき、科学がスタートした、といっても良い。

       When??

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