2025年2月1日土曜日

問いを立てて詩を再読する

🔸 時々、投稿をお願いしている吉沢先生に、以下の投稿をお願いしました。 


20241130日の投稿「好きな詩を再読する楽しみ」で、私は、詩を読む時に使っている「技」を紹介し、その「技」を使って再読することで、以前には気づかなかったことを発見する体験をしたことを、具体例に沿って述べました。

 今回は、「問いを立てる」ということに焦点を当ててみたいと思います。詩、特に戦後の詩は難しいとよく言われます。難しいからという理由で敬遠する人も多いことでしょう。

 私は、詩、特に戦後の詩は難しいものなのだ、と思うようになりました。それは、詩人は、ありきたりの言葉の使用に揺さぶりをかけよう、と常に意識しているからです。そこから、誰もが思い付かないような比喩、イメージ、飛躍などの技を使います。ですから、当然難しく感じられるものになるのです。

 読者としては、素朴に「わからない」「どうして?」と疑問を持てばいいのです。そして、先生や友人、あるいは自分自身に問いかけて、考えてみる。そのことが思いもかけない気づきを生むかもしれません。

 今回取り上げるのは、宗左近氏の「少年」という詩です。★1

 

<第1連>

詩は「お父さん」と呼びかける言葉で始まります。

 

お父さん

裏の庭の片隅で

梅の花がほころびています

小鳥が枝の先にきてゆれています

 

 この春の気配の描写は、次第に激しさを増していきます。

 

そこらあたりいちめん明るい空気の結晶です

春の光がはじけ出ようとしているのです

やがて連翹の花むれが燃えたって

黄いろい昼火事をおこすのも間近です

冬の火葬みたいな季節です

 

 この詩は春の訪れがテーマなのかと思ったのですが、予想外の展開をします。ここで次のフレーズが続きます。

 

そしてもうすぐぼく中学を卒業する

いよいよぼく働くんです

 

 タイトルともなっている「少年」の「ぼく」は、この春、中学を卒業して働きに出る。そのことを父親に語りかけているのだ、ということが分かります。ただ、このあらたまった言葉の使い方は、普段の父と子のやり取りとは違うなあ、という印象を私は持ちました。

 

<第2連>

都会の鋳物工場に出て

しばらくお会いできないでいるお父さん

元気で働いておいでで嬉しいです

 

この「少年」をめぐる状況が少しわかってきました。父親は家を離れて、都会へ出稼ぎに出ています。めったに帰ってこないのでしょう。時折来る便りで、「ああ、元気に働いているんだな」ということを知るのでしょう。

 

とても大切なぼくの胸のなかの何かみたいに

灼熱して沸りきっている金属の塊を

その金属よりも激しい目で見つめているお父さん

 

 父親は、鋳物工場で、高温で溶かした金属を扱う仕事をしているのでしょう。熱い中での、危険な仕事です。真剣に見つめながら働く父親を「ぼく」は想像します。「とても大切なぼくの胸のなかの何か」という表現は、何を指し示すかよくわかりませんが、「何か大切なもの」という実感だけはあるのだな、と私は想像しました。

 

その金属よりも激しい目で見つめているお父さん

お父さんのその目を見つめて小学生になる

六歳の妹の目も汗っぽい輝きをましています

 

「ぼく」に妹がいることが分かります。妹は小学生になり、「ぼく」は中学を卒業する。どちらにとっても節目となる時期です。

 

お母さんが家出していった後おばあさんにあずけて

ぼくらを置いてお父さんが働きに出てからも

お父さんの見つめているものをぼく知っている

 

かなり家族の状況がはっきりしました。「ぼく」は妹と一緒に、おばあさんの所に預けられているのです。ですから、「裏の庭」というのは、おばあさんの家の庭なのでしょう。父親は、二人の子供を養うために、都会に働きに出ているのです。詩は次のように続きます。

 

灼熱して沸りきっている金属の塊

その塊が組みあげてゆく建造物

その建造物の捧げて青空に咲き出させる花

その花を灼く昼火事みたいな煌めき眩めき

すごい

恍惚

お父さんの見つめているものをぼく知っている

見つめている目を灼くむごい照り返しが姿

お父さんの皮膚と服をぼろぼろに焦がすのです

 

 父親の働く姿は、その仕事が生み出す建造物へとイメージが広がり、そこに少年は没入していきます。その眩いばかりの明るさに、少年は恍惚とした思いを抱きます。そして、父親が「見つめているもの」を、自分は知っている、と述べます。

 

<第3連>

ああ待っててお父さんぼく中学を卒業するぼく

はじけ出ようとする春の光ぼくお父さんの

見つめて目を灼かれているものをお父さんの

沸りきっている何かみたいな灼熱するものの

そばに並んでみつめて働く働くんですぼく

 

「ああ待ってて」と呼びかける「ぼく」は、父親の「そばに並んでみつめて働く」のだと言って、詩が締めくくられます。

 

<問いを立ててみる>

以上、詩の内容をたどりましたが、これを要約して、「中学を卒業して働きに出ようとしている少年が、春の訪れの中で、父親への高揚する思いを綴っているのだなあ」というふうに言うことは可能でしょう。

しかし、ここで「問いを立てる」という視点から読み直すとどうなるでしょうか。そうすると、分からないことがいろいろあることに気づきませんか。私は次のような問いが浮かびます。

 

(1)   なぜ「ぼく」は、「しばらくお会いできないでいるお父さん/元気で働いておいでで嬉しいです」という、あらたまった言葉づかいをしているのだろうか。

 

(2)   春の訪れ、春の光というものが、なぜこんなにも溢れるような言葉で語られているのだろうか。

 

(3)   鋳物工場で働く父親の姿が、その工場の作り出す建造物にまでイメージが広がっていて、それを「花」と形容しているところも、私の日常的な感覚を超えるように感じる。これは何を意味しているのだろうか。

 

(4)   なぜ、「ぼく中学を卒業する」と言わずに、「ぼく中学を卒業する」という言い方をするのだろうか。

 

(5)   父のことに焦点を当てているとは言え、なぜ母親のことが「お母さんが家出して行った」としか書かれていないのだろう。

 

<問いについて考えてみる>

自分の立てた問いを手がかりに考えてみました。おそらく、この父親は、「ぼく」にとって親しみやすい、気楽に言葉をやり取りするような存在ではなかったような気がします。母親がいなくなって、子供を養うために、黙々と仕事に取り組み、しかしたまには便りを送ってくる、そんな父親です。「ぼく」はそんな父親に対して、一定の距離を感じながらも、尊敬の念を持っているようです。

春の描写は、「ぼく」が積極的に掴み取っているもの、と感じられます。春になったこと、その明るさを感じようとする意志が見られます。そこに自分が中学を卒業して働きに出ていくことへの、希望を見出したいという気持ちにつながるようにも思えます。

鋳物工場の描写に始まる一連のイメージは、私の予想を上回るものと感じられてきました。自分が工場で作っているものが、街に出て行って、建造物を作る素材となる。自分が携わっている部分は僅かであっても、そのかけがえのなさに尊厳をもち、出来上がった建造物に「花」のような美しさを見出しているのです。そのことに少年は、「すごい」「恍惚」という感情を持ちます。

母親のいない家庭での寂しさなどは一言も語られていません。それが語られていないことで、この「ぼく」が父親に寄せる感情が極まってくるように思えます。父親と並んで、「働くんです」と言い切っている「ぼく」のひたむきさに、私は感動します。

 

 私は、こんなふうに自分の立てた問いを巡って考えを進めていって、深い気づきを得ることができました。再読し、考えを巡らすことで、この詩は私にとって大事な作品になりました。

 

★1 宗左近『詩集 愛』彌生書房, 1974年。