🔸時々、投稿をお願いしている吉沢先生に、今回の投稿をご担当いただきました。
詩を読んでいて、「これ、いいなあ」という作品に出会うと、そのことを誰かに伝えて、共有したくなります。「ね、いいでしょ?」と言うと、大いに共感する人もいれば、「どこがそんなにいいの?」と聞き返してくる人もいます。「いいなあ」という感動だけでいっぱいになっている時は、たいてい私は、その詩のどんな所が良くて心が動いているのかを、うまく言語化して説明でません。そして、少し時間をおいてゆっくり味わいながら、詩を仔細に検討しながら再読していくと、その作品の良さが浮かび上がってくることがあります。
また、私はこのWWRW便りで何度か、私の好きな詩を紹介してきていますが、「今度はどの詩にしようか」と過去に読んで心に残っている詩に思いをめぐらし、これと決めた詩を再読すると、「こんな工夫が凝らされていたのか!」と感動することがよくあります。詩人の「技」に気づくことで、一度出会った詩を味わい直すのです。私がいつも着目するのは、次の3つの「技」です。
◯全体の構成がどうなっているか
◯どのような言葉を選んでいるか
◯その言葉からどのような語感やリムズが感じられるか
こうした視点から、今回も私の大好きな詩を紹介したいと思います。伊藤比呂美さんが23歳で上梓した第一詩集『草木の空』に収められた「冬」という作品です。★1
冬
伊藤 比呂美
<第1連>
冬になると、私たちの回りは、根菜類ばかりになる。秋に穫れるイモ類やニンジン、葱を私たちは厳重に布でくるみ、冷たい場所に置いておく。たとえば地下室。階段をおりてゆくと、空気は途端に冷たく単純になる。くらやみに慣れてくると、その棚いちめんに、でこぼこした麻の袋が置かれてあるのに気づく。階段の下もでこぼこの袋でいっぱいだ。懐中電燈にてらされて、袋は影をかかえている。ひょっとした拍子に、袋がもぞっと動いたような気もする。それほど、ならぶ袋たちは立体的にでこぼこである。私たちは二~三日に一ぺんくらいずつ、やさいを取りに来て袋をあける。
詩はまず、根菜類を目にするようになる、というところから始まります。そして、根菜類が貯蔵される地下室とその様子が描かれます。このように説明すると、それで終わってしまうのですが、著者が周到に言葉を選んでいることに着目してみましょう。
まず、「根菜類」と言ってから、「イモ類やニンジン、葱」と言っています。「冷たい場所」と言ってから「地下室」と言っています。空気の様子も、「冷たい(場所)」と言っていたのが「(階段をおりてゆくと、空気は)途端に冷たく」なる。明るさの説明にも工夫がされていて、「くらやみに慣れてくると」「懐中電灯にてらされて」というふうに、単に「暗い」「明るい」という言い方ではなく、人の行動とからめて表現していて、うまいものだと感心します。
また、地下の空間の説明も、「棚いちめんに」「階段の下も」など、視覚的にわかりやすく、所狭しと麻袋がならぶ様子が目に浮かびます。
ことばをたどりながら読み進めるうちに、読者はいつのまにか、著者の世界に入り込んでいます。「でこぼこ」という語が3回も繰り返されて、それは麻袋の形状を描くと同時に、この連全体を通じて、量的にかなりの根菜類を貯蔵しているんだなあ、というふうに私は想像します。また、「でこぼこ」という言葉の音の響きが、私の耳に心地よく感じられます。
連の最後で、それまでの情景描写に対して、「私たちは二〜三日に一ぺんくらいずつ、やさいを取りに来て袋をあける」というふうに、人の行動が描かれて、次の連に繋がります。
<第2連>
古い年のうちに、葱は食べつくされてしまう。葱はイモのようには長くもたないのだ。私たちは十二月にはいると、葱を急いで消費する。毎日、葱汁をのむ。十二月も半ばをすぎると、葱の青い部分からどろどろに溶けてくる。私たちは、残った葱をすべてざくんざくんに切り、あたらしくあけた袋からジャガイモを取って、いっしょくたに煮こむ。発酵した豆で調味されるこのスウプに、私たちは新鮮なイモのだしを味わって、満足である。それ以後、ニンジンとイモ類からヴィタミンをとり、四か月を暮らす。
まず葱のことが話題にされています。日持ちしない葱をどう扱うか、どう調理するかへと話は発展し、ジャガイモが対比されて登場します。「葱が青い部分からどろどろに溶ける」という描写と、「新鮮なイモのだしを味わって、満足である」とが対比されています。「発酵した豆で調味されるこのスウプ」というのは、おそらく味噌汁のことでしょう。「味噌」と書かずに。「発酵した豆」と書くことで、素材に目が向きますね。「ヴィタミン」という語も新鮮に響きます。「どろどろ」「ざくんざくん」という言葉の響きも印象的です。
<第3連>
雪というものがふらない冬である。ただ、大地から、木々から、家々から、すべてが温度を失っていく。空気が奇妙にひくく垂れこめて、景色は、空の下にぎっちり圧しつぶされた様子を見せる。冬も深まるにつれ、澱むようだった空気から湿度がひいていく。そこいらいったいぱりぱりに乾き、痛いくらいまで冷たくかたまる。道は空洞になったように思われ、表面を固いもので、カン、と叩くと、昔はカラコロカラコロ転がっていってしまう。道の行きどまりに立つ壁にぶつかってはね返る音が聞こえる。
一気に展開しましたね。私は子供の頃から、雪のふらない冬を経験してきているので、冬の乾いた空気の感じをよく覚えています。この連に入って、描写が現実的なことばの使われから、逸脱して、暗喩的な使われ方をしています。例えば、大地や木々や家々が「温度を失っていく」ということは、現実にはありえないわけです。しかし、何か感覚的にわかりますよね。「空気が低く垂れ込める」ということも、気圧の話をしているわけではありません。それに、「雲が低く垂れ込める」という言い方はしますが、「空気が垂れ込める」という言い方は、私には馴染みがありません。しかし、これも空気の重たい感じが伝わってきますね。道路の表面を固いものを叩くと、カンと音がして転がっていく、という表現は、ここまでくると、もう詩のイメージの世界での遊びが感じられます。この連では、「ぱりぱり」「カラコロカラコロ」トイウ言葉の響きが効果的に使われています。
<第4連>
そのころ、<じんのそり>とよばれる北西の風が吹くようになる。息のねににた絶えまない風は、なにもない路上に小さなたつまきをうみ、乾いた土や木のかけらをあつめ、私たちの衣服のすきまからはいりこんで皮膚をかすめる。<じんのそり>という名も、冬の尽きるころ=尽(じん)に吹く刃物のような風という意味だろう。あるいは、刃=じんを補って、そり(、、)をつけたのかもしれない。しかし、すべてを吹きはらう風は空を美しくする。昼間は蒼々として高いところにつづき、夜は星で埋めつくされる。冬には青白く瞬きの激しい一等星が多くなる。
私たちは、この寒さを<あざやぎ>とよんで、厚い毛織のオーヴァを着て道をあるく
最後の連です。乾いた空気が、ここでは「風」として描かれます。この連の大きな特徴は、
<じんのそり>と<あざやぎ>という二つの言葉が持ち込まれていることです。これは美しい言葉と感じます。言葉の音の響きそのものが、美しいと感じます。それが、ここに至るまでの描写を背景に、際立っています。
詩の締めくくりに向かうイメージも美しいです。「風は空を美しくする。昼間は蒼々として高いところにつづき」という表現も、うまいと思います。そして、最後に、毛織のオーヴァを来て道をあるく「私たち」のところへ、詩は戻ってきます。「毛織」としか書かれていませんが、皆、分厚いあたたかいオーヴァをまとって歩いているのだろうな、と想像します。
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最後に、言葉を周到に選ぶことについて、ふれておきましょう。この詩は、自分の気持ちや感想を表す言葉を最小限にとどめて、事物の描写するという方向で言葉が選ばれているのが大きな特徴です。しかしその描写において、言葉は周到に選ばれて、著者のイメージを運んでいます。
例えば、冒頭の2文を見てみましょう。
冬になると、私たちの回りは、根菜類ばかりになる。秋に穫れるイモ類やニンジン、
葱を私たちは厳重に布でくるみ、冷たい場所に置いておく。
私なら、次のように書いてしまいます。
冬になると、私たちの回りは、根菜類ばかりになる。例えば、イモ類やニンジン、
葱である。私たちはしっかりと布でくるみ、寒い場所に置いておく。
とたんに、説明的でつまらなくなると思いませんか。「秋に穫れた」と書くことで、秋から冬への時間的な経過を感じさせますし、「厳重に」と書くことで、根菜類を布にくるんでいる人の顔つきや手付きまで目に浮かびます。「寒い場所」ではなく「冷たい場所」と書くと、「それはどこ?」というふうに読者の関心を惹きつけます。
本当に上手なだなあ、と感心します。そして、それに気づくことで、私自身が言葉にもっと繊細にふれたい、という気持ちになります。
★1 『現代詩文庫 伊藤比呂美詩集』思潮社, 1988年