2022年1月29日土曜日

そのままノートに書き留めたくなる瞬間 〜効率と評価

 前回、1月22日の投稿「一冊の本を『私たちのもの』にする勇気」の中に、「読み進めながら、これほど引用したくなる本も珍しいものです。しかも、要約ではなくて、本人の言葉をそのまま受け取り、ノートに書き留めたくなるのです」という文がありました。

 ここから思い出したのが、ここ2週間ぐらい読んでいる若松英輔氏の詩についての本『別冊NHK100分de名著 読書の学校 若松英輔 特別授業「自分の感受性くらい」』(NHK出版 2018年)でした。氏が、中学生を対象として行った詩についての特別授業についての本です。その中に以下の文があります。(以下の引用のページ数はこの本からです。)

 「小さなことであり、でも重要なことだともいえるのですが、自分にとって大切な詩に出会ったとき、その詩を書き写してみることをおすすめします。パソコンにキーボードで打ち込んでもよいのですが、できれば自分の手で紙に書いてみてください。詩は短いので、書くこと自体に労力はいらないし、書くという行為によって言葉が身体にしみこんでいくような経験ができます。そうすることで、自分の中で豊かな言葉の世界を経験することができるのです」(Kindle版 67ページ)。

 そのままノートに書き留める時間。これまでは、この時間についてあまり深く考えたことがありませんでした。「作家ノート」に気に入った言葉やフレーズをメモしている人もいるので、「作家ノート」にかかわるミニ・レッスンで、そういう紹介もできるだろう程度でした。

 そのままノートに書き留める時間に行われる動作は「書く」ですが、「書く」よりも「読む」ことの一つとして捉える方が、私にはしっくり来ます。それは、先週の投稿にあるように、まさに「本人の言葉をそのまま受け取る」という時間であり、また、若松氏が書いているように、書くことで「言葉が身体にしみこんでいくような経験」でもあるからです。

「そのままノートに書き留めたくなる」ということから、「効率」と「評価」について、考えました。

 まず、「効率」です。

 私はせっかちで、何かを写すことは、コンピュータを使うにしろ手書きにしろ、面倒だなあという気持ちが先に来ます。

 リーディング・ワークショップを学び始めてから、詩を読むようになり、自分の好きな詩を集めた自分だけの「自分用アンソロジー」を作ったりもしました。でもその作り方は、コピー機でコピーして、切り取り、糊とセロテープでノートに貼るという、原始的かつ手間と時間を惜しんだものでした。(そんな雑なものでも、折にふれ、この「自分だけのアンソロジー」を読み直すことがあります。)

 「心に残った部分をそのまま書き写そう」ということを、もし、読む時間のミニ・レッスンで扱うと、どうなるのでしょうか。

 既成のワークシートなどに、ポイントや概要をどんどん穴埋めしていく方が、一見、効率的にも見えるかもしれませんし、もし、子どもたちが「ただ写している」のを目にすると、教師は時間の無駄に感じてしまうかもしれません。

 一見、効率が悪い読み方に見えます。第一、「そのまま受け取りたい」本や詩との邂逅は、読み手の経験の中で、それほど頻繁に起こらないかもしれません。だからこそ、「本や詩が、そのまま受け止めることへと招いている」と感じる時は、それに耳を澄ませて、それに応える時間を取ってみよう、そんな「一つの読み方がある」ことを紹介するミニ・レッスンになるのかもしれません。

 (→ 試しに、今の自分にぴったりくる詩を、小さなノートに先ほど書き写してみました。今まで何かを写す時は、できるだけ早く写したかったのですが、今回は「この書き写すことが受け止める時間なんだ」と思って、文字もゆっくり書きました。そのまま書き写すことで、普通に読むよりも読むスピードが落ちる、それもいいなと思いましたし、ほっと深呼吸したような気持ちにもなりました。また「この単語、理解しないで読んでいたなあ」と気づいた箇所もありました。何よりも、急いで写す必要はないし、こういう時間をつくることはプラスだ、と経験できたことが大きかったです。)

 次に「評価」です。

 若松氏の上記の本は、中学生を対象とした授業です。もちろん子どもたちの学年や発達段階も関わってくるとは思いますが、心に残った文や詩を、一律に時間を決めて「読書ノート」もしくは「作家ノート」に書き写しなさいと指示し、それを集めて評価するという「指導」にはフィットしません。

 若松氏は「みなさんに試みて欲しいのは、『読む』と『書く』の往復運動です。誰かの詩を読んだら、詩をもって応える。詩には詩をもって、手紙で返事をするように書いてみる。そうすると人は、自分でも驚くようなことを書き始めます」Kindle 版、61ページ)とも言っています。

 これは、人に見せたり、人に評価されることを目的に行うのではありません。むしろ「他人の言葉を読み、他人に向けて書くのではなくて、己に向けて書き己が読む」(Kindle 版 43ページ)という時間であり、「自分に向けて書き、自分が読む」という「評価を拒む世界」(Kindle 版 42ページ)かと思います。(*Kindle 版 42ページはこのことを図で示し、43ページ以降がその図の説明となっています。)

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 過去の投稿で何度か紹介してきた、リーディングのカンファランスについての本★の中に、誰のため(誰を意識して)に読むのかということについて、①自分自身、②自分と関係のある人、③会うことのない人の3つに分けて説明している箇所があります。

2016年9月9日の投稿では、以下のように紹介していました。

①ですが、自分のために読むときは、自分が読み方を決めていくことが多いです。

②にですが、たしかに少し考えてみると、ブッククラブの準備で読むとき、クラスメートに本を紹介するために読み直すとき等、読み方が変わります。

③については、この本では、例として「テスト」を挙げています。テストの読み方が要求されるわけです。

→ これまで、私は②と③はミニ・レッスンで扱うトピックというイメージで、①にはほとんど注意を払ってこなかったように思います。

 「そのまま受け取ることに招いているような本や詩」に出合った時に、その本の一部をそのまま受け取ったり、書き写したりする。そして、それに対して、短く自分も書いてみる。それを教師の評価のためではなく、あくまでも自分という読者のための時間として行う。これは私がこれまであまり注意を払ってこなかった①に入ることだと思います。

 このような作業や時間は、効率や評価を考えるとミニ・レッスンのトピックには上がってこないかもしれません。また、そこで読み書きされる内容は教師には入れない世界です。でも、この①の部分を「どのように陶冶していくのかという方法」を教えることの価値に、今回、興味を持ちました。そして、その「方法」はミニ・レッスンのトピックになりうることも。

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★ Conferring: The Keystone of Reader's Workshopです。Patrick A. Allen著で、2009年にStenhouseから出版。62-75ページに、目的と読者(purpose and audience) について、詳しく説明されています。 

ブログ版(http://wwletter.blogspot.com/)の左上に、Patrick とキーワードを入れて検索すると、この本に言及した投稿が出てきます。


2022年1月22日土曜日

一冊の本を「私たちのもの」にする勇気

   昨年末にアザール・ナフィーシー著(市川恵里訳)『テヘランでロリータを読む』という本を読みました。もともと白水社から2006年に刊行されたものが、昨年11月に河出文庫に入ったのを近所の書店で目にしたのです。西加奈子さんの「解説 私たちのもの」を読むまで『i』(ポプラ社、2016年)にこの本のことが巧みに織り込まれていたことを忘れていました。

 文学を読む行為の意味を深く考察した、作家の自叙伝です。イラン革命後の1997年に米国に渡ったイラン人英文学者が、全体主義体制の国家で、禁じられた英語文学を学生と共に読む姿が、その時代のテヘランの日常生活とともに描かれます。たとえば次のようにフィクションのもつ力を描き出す言葉が鋭く綴られていくのです。

「あらゆるおとぎ話は目の前の限界を突破する可能性をあたえてくれる。そのため、ある意味では現実には否定されている自由をあたえてくれるといってもいい。どれほど過酷な現実を描いたものであろうと、すべての優れた小説の中には、人生のはかなさに対する生の肯定が、本質的な肯定がある。作者は現実を自分なりに語り直しつつ、新しい世界を創造することで、現実を支配するが、そこにこそ生の肯定がある。」(『テヘランでロリータを読む』83ページ)

「どれほど過酷な現実を描いたもの」でも「人生のはかなさ」に対する「本質的な肯定」があるというこの断言には励まされます。「作者」という存在が「現実を自分なりに語り直しつつ、新しい世界を創造することで、現実を支配する」存在だからこそ、彼女は物語行為が「生の肯定」になるということは、他ならぬこの自叙伝にも当てはまります。「小説」に限らないことなのかもしれません。ナフィーシーは自分自身の語る行為によって、そのことを証明してもいます。

 読み進めながら、これほど引用したくなる本も珍しいものです。しかも、要約ではなくて、本人の言葉をそのまま受け取り、ノートに書き留めたくなるのです。

「この小説は具体的な人間関係の話、ひとりの男の愛と、それを裏切る女の話です。しかしまた、これは富の話、富の大いなる魅力とその破壊的な力、富にともなう不注意という欠点の話でもあり、そして、そう、アメリカの夢、富と力の夢、デイジーの家とアメリカの玄関港に輝く魅惑的な灯の物語でもあります。そしてまた。ここには喪失が描かれ、夢が現実化と同時に崩壊しやすいことが描かれています。夢に憧れる心、その非現実性こそが、夢を純粋にするのです。」(『テヘランでロリータを読む』238ページ)

 ナフィーシーはフィッツジェラルドの『グレート・ギャッツビー』を金持ちの不道徳な話だと非難する学生「ミスター・ニヤージー」に向けて、この小説をこんなふうにまとめてみせます。そうしながら彼女は、フィクションの「非現実性」のもつ力を、痛快に思えるほど言葉にしてくれるのです。こうした言葉を書き写しながら、その思考をもトレースしたくなります。そういえば、この小説に登場する彼女の教え子たちは、彼女の言葉を自らのノートに見事に記しとどめていました。

 テヘランを後にする直前、ナフィーシーは彼女が「魔術師」と呼んできた男性のもとを訪れます。

「私はイスラーム共和国に教わったことを―オースティン、ジェイムズ、アイスクリームと自由への愛を教わったことを―感謝する本を書きたいという話をした。いまはそういうすべてをありがたく思うだけでは足りないの、そのことについて書きたいのよ。オースティンについて書くとしたら、僕らのことも、きみがオースティンを再発見したこの場所についても書かないわけにはいかないよ。僕らを頭から追い出すことはできない。やってみればわかるよ。きみの知っているオースティンはこの場所、この土地、この木々と分かちがたく結びついている。きみが昔フレンチ先生と―フレンチ先生だっけ?―読んだオースティンとはちがうだろう? それはここで読んだオースティンなんだ。映画の検閲官は盲目に近く、街頭で絞首刑が執行され、男女を隔離するために海に仕切りを設けるようなこの場所でね。」(『テヘランでロリータを読む』557ページ)

 ジェイン・オースティンの『高慢と偏見』も、ナフィーシーが学生と読んだ小説の一つでした。『テヘランでロリータを読む』という本を書くに至った経緯に触れるような一節です。「きみの知っているオースティンはこの場所、この土地、この木々と分かちがたく結びついている」という「魔術師」の言葉は、すべての読む行為にあてはまることです。だから彼女は「ここで読んだ」オースティンや、ナボコフや、フィッツジェラルドや、ブロンテについて書いたのでしょう。一緒に読んだ人々との記憶を書き留めながら。

 この引用の2文目までは彼女の言葉で、3文目からは「魔術師」の言葉です。語り手ナフィーシーの言葉と「魔術師」の言葉が入り交じっています。こんなふうに、この本の言葉そのものが彼女の言う「現実」の「語り直し」であることは確かです。「語り直し」によって「新しい世界を創造する」行為であることには間違いがありません。しかし、だからこそ語る現在における「私」が過去の自分の言動を整えながら、未来に向けて語り出すことができるのです。そうした将来に向けて語るという営みが誠実に為されているので、そのまま書き写したくなるのです。

『理解するってどういうこと?』第5章「もがくことを味わい楽しむ」に次のような一節がありました。

「毎日開かれる貴重な話し合いの場のひとつであるブッククラブを終えて、会場になったご近所の家から帰るときに、今日自分はみんなと同じ本を読んだのだったかしらと不思議に思うことがよくあります。年齢も、背景も、人生経験もさまざまに異なった女性たちは、一緒に読む本のページに極めて多彩な色彩を加え、私なら絶対に想像しなかったようなものの見方や、考えや、解釈を持ち込むのです。その本のなかで、もう自分がすっかり理解していると思っていた部分を意外な新しいレンズを通して読み直すことになります。そうすることによって、私はそれまでは少しも気付かなかった意味を発見するきっかけを、他のメンバーは私にくれるのです。みんなで読んでいる本について彼女たちがしっかり考えて発見したことの質と深さ、思いがけない解釈に私が驚いていることを話すと、彼女たちはあなただってまったく同じことをしてくれているのよと教えてくれます。これまでは彼女たちのためにそのことに名前をつけて呼ぶようなことはなかったのですが、これは優れた読み手・書き手になる領域に外なりません。この領域によって、私たちの一人ひとりが、一冊の本とその本が発しているさまざまなアイディアを、他の人のおかげで、より深く、より深く理解することができるようになるのです。」(『理解するってどういうこと?』180181ページ)

  ナフィーシーが語り直したテヘランでのことは、この「優れた読み手・書き手になる領域」をゆたかに深く営んだ記憶であり記録です。西加奈子さんの言葉を借りるなら、みんなで読んでいる一冊の本、一編の文章を「私たちのもの」にする勇気を伝えてくれるのです。それが私たちに託されたかけがえのない自由の領域であるということも。

2022年1月14日金曜日

生徒に気軽に「さあ、フィードバックをしあいましょう」とは言うけれど・・・・フィードバックの仕方も受け取り方もちゃんと教えていない?!

 フィードバックのスキルは教室の中ではもちろん、生きていく上でも、かなり重要です!

 訳者の一人の田中理紗さんが送ってくれた『ピア・フィードバック』(スター・サックシュタイン著、新評論、2021年)への三人の先生方の書評/紹介文と、podcast(音声ラジオ)のブッククラブを紹介します。


◆ドルトン東京学園 副校長 安居先生

「読んでいて、中学校の文化祭に向けてクラス演劇の台本づくりをしていた時のようすが浮かんできた。

仲良し数人で「あーだ、こーだ」と言いながら、セリフひとつに盛り上がったり、お互いの描写にケチをつけ合ったり、展開で揉めたり・・・。休み時間や放課後に教室で、休日に誰かの家で、雁首を付き合わせて原稿用紙に向き合っていた。
できたものをクラスで発表すると、一部の女子から大ブーイング。「この展開は勝手すぎる、(男子目線で)女子のキモチをわかっていない・・・」と。
   ・
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訳者の一人、田中理紗先生からいただいた一冊。

そういえば最近、教育書の類いを読んでいなかった(Facebookの投稿を見ると、確かに。たまには・・・)。そんなキモチを推し量るかのような魂の采配で手元に届き、昨夜から読み始めた。
理紗先生が「まえがき」で指摘しているように、私たち教師は、教室で生徒に向かって《気軽に》「フィードバックをしあいましょう」と声をかける。だが、そこに「どのような取り組みがあれば」、生徒同士のフィードバックがより有意義なものになるのかについては、殆ど意識していない。
本書はそこにフォーカスし、具体的な事例を交えながら、形式的で中途半端なフィードバックから、丁寧かつ意味のある「ピア・フィードバック」を実践するための具体的指針が示されている。
教室で、教師だけが一方的にフィードバックするのではなく、仲間(生徒)同士がフィードバックしあうと、「協力し合おう」という意識が生まれる。結果、以前に比べて試行錯誤や練習の機会が増えると同時に、お互いの遠慮や不安が減っていく。
生徒同士のチームワークやコミュニケーションスキルが高まる可能性が増え、互いの肯定感や自信を深めることにつながる。まさに、冒頭に書いた「クラス演劇に向けた台本づくり」が、そうだった。
ただ実際に、教師が教室でそれを《意図的に》行おうとすると、ふだんからそういったトレーニングを積んでいないこともあり、正直難しい。理紗先生が自ら実践した、「学んだことを生徒と共有し、生徒に対して正直に伝えながら、ピア・フィードバックの取り組みにていねいに向き合う」ことでしか体得できないのも事実だろう。
だからこそ、この本の存在意義がある。
生徒のパフォーマンスや学びの質を向上させ、教育効果を高めたいと願わない教師はいない。生徒が互いに学びあう教室を、どう作っていくか。
この本を通じてディスカッションし、自分の実践をクリティカルに振り返りながら、ピア・フィードバックしあうのもいいね。
書かれている内容は深い。だからこそ《気軽に》対話し、日常的に学びあおう。

読了後、そんな景色が見えた。」


◆聖ドミニコ学園 カリキュラムマネージャー 石川一郎先生


生徒たちがフィードバックが出来れば授業の歩留まりは確実によくなる
単に感想とか共感の世界を超えて、フィードバックの軸を定めて振り返り、内容を高めていく、その手法がふんだんに紹介されています
アメリカの文化性を楽しみながら受容し、日本のこれまでの教育をカッコにいれる

読むにあたり、お作法が必要ですね

 

◆東京学芸大学教職大学院 渡邉先生


一言で言えば、改善のための対話の仕方を生徒に教えることを通して学びの主体を生徒に取り戻すことを訴える本。
「訳者まえがき」の次の率直な言葉には、共鳴する先生も多いだろう。
「振り返ってみると、どのような取り組みがあれば、生徒同士のフィードバックがより有意義なものになるのか、本書に出合うまで私自身がずっと分からないまま、生徒にただ「フィードバックをしあいましょう」と声をかけていたように思います。」
本書は、そこから一歩先に進むための具体的指針を与えてくれる。
本書がもつ、目標とその達成基準を共有したうえで改善に向けてフィードバックを行い合うという志向性は、私が大事にしてきた、評価や助言よりも先に読み手や聞き手としてのリアルな反応を、という発想と少しずれる部分はある。が、私も、こうした、自分たちの活動の質を高めていくためにどのような対話をしていけばよいか(そしてそのために教師がどのようにモデルを示したり指導を行ったりすればよいか)がないがしろにされてきたという点への問題意識は共有している。そうした問題を考えるうえでの出発点になる本だ。

 

podcastのブッククラブ

https://anchor.fm/bookclubjp/episodes/20--ICT-e1bo62i?fbclid=IwAR3JkfVYf9v3PzFcUq9lbAvkIQqBTW8hjaKNPUb92AvIHl825J7xvgP6coA

 

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文字媒体の紹介と、音声での紹介の2種類を読んで/聞かれて、どのような印象をもたれましたか? これから(いま!)の時代、書くことだけがすべてではないことに気づかせてくれました。授業でも、多様な媒体を用意しないと、花開けない生徒は確実にいます。また、この本は国語の事例が中心ではありますが、ピア・フィードバックはすべての教科で使える方法です!

 

2022年1月8日土曜日

本の紹介がうまく使えない? 〜最近手にした3冊から1600冊超の書名を眺めつつ〜

 1。本、本、本

 いろいろな本についての対話が載ってる本、『ぜんぶ本の話』(池澤夏樹・池澤春菜 毎日新聞出版 電子書籍版 2020年)を通勤の時に読んでいました。これは池澤夏樹と池澤春菜のふたり(親子です)が、いろいろな本について対話しているもので、次から次へと書名が出てきます。登場する本の一覧が最後にあるので、それをざくっと数えてみただけでも200冊以上の本が並んでいます。登場する本は、章ごとのテーマ、例えば、「読書のめざめ」「大人になること」「翻訳書の楽しみ」「謎解きはいかが?」等で分類されています。自分が読んだ本と重なりが多い章もあり、大昔に読んだ本を懐かしく思い出したりもします。

 多くの書名が登場する本と言えば、全国365書店より365人の書店員さんのお薦めの一冊が、手書きポップと短い紹介文とともに紹介されている『The Books ~365人の本屋さんがどうしても届けたい「この一冊」』(ミシマ社編 2012年)を、年末に地元の図書館から借りてきました。

 この本では、書店名や書店員さん名も記載され、書店の地図もあります。各ページには、それぞれの書店員さんお薦めの一冊が、手書きポップと紹介文で挙げられています。加えて、同じページにその人の「次の一冊」も小さな字で小さく記されています。つまり、一人で2冊の書名をあげているので、2冊✖️365名。この本だけで700冊超の書名に触れることができます。

 同じフォーマットで、中高生を対象とした『The Books, green ~365人の本屋さんが中高生に推す「この一冊」』(ミシマ社編 2015年)もあります。こちらも併せて図書館から借りてきましたが、「前作とは重複のない365書店、365名の書店員さんに選書」をしてもらったそうです。ここでも「お薦めの一冊」プラス「次の一冊」が記載されていますから、この本からも700冊以上の本の情報が得られます(「お薦めの一冊」プラス「次の一冊」には、ごく僅かですが重複があります)。

 冒頭に書いた『ぜんぶ本の話』と年末に図書館から借りた上記の2冊で、合計1600冊以上となります。短い期間に、こんな多くの書名が手元の3冊にあるという経験は初めてです。

2。大好きなはずの「本の紹介」でも。。。

 本の紹介を読むのは昔から好きです。高校の頃は、次に購入する本を決めるため、特に真剣に読んでいた気がします。本の紹介から、次に読みたい本に出合えたり、自分がすでに読んだ本であれば、「そうそう」とか「あ、そうか」等々と反応したり。ですから、この3冊と楽しい時間を過ごそうと思っていました。

 しかし、年末年始、時間が取れず、『ぜんぶ本の話』は通勤で目が通せたものの、書店員さんたちのお薦めが詰まっている2冊は、ずっと手付かずのままで、図書館の貸出延長をして、それでも、積んだままでした。新年になり、図書館の返却期限が迫ってきて、慌てて、初めてページを開きました。

 この本では、書店員さんたちは、それぞれ、「お薦めの一冊」と「その次の一冊」と合計で2冊しか選べません。しかも、『The Books, green ~365人の本屋さんが中高生に推す「この一冊」』の方は、年代を想定しているとはいえ、お薦めする相手は不特定多数です。この選書は難しいだろうなあ、どんな本が集まっているのかなと思いつつ開いてみると、予想していたよりも多様なジャンルの本が集まっていました。

 『The Books ~365人の本屋さんがどうしても届けたい「この一冊」』だけを見ても、大昔、私が高校生の頃に読んだ本『赤頭巾ちゃん気をつけて』から、リーディング・ワークショップでもお馴染みの絵本『てん』や児童文学の名著『ギヴァー』もあります。

 私の知らない本や作家も数多く並んでいます。タイトルだけみても、フィクションはもとより、エッセイ、ルポ、詩集、写真集、哲学書、図鑑等、これだけ幅のある本がよく揃ったなと思うぐらい、いろいろ出てきます。ジャンルを広げるという点でも有益だと感じます。

 これはどんな本? 次に読みたい本は? と考えながら、あっちを見たり、こっちを見たりする時間は楽しいのですが、その反面、図書館の返却期限も迫る中、限られた時間では無理だとも思いました。私はTEDトークも好きで、よく視聴していますが、TEDトークは日々新しいものが追加されていくので、ウェブサイトを開くたびにその数に圧倒されます。それとちょっと似た感覚です。

3。「多量のお薦めリスト」と「上手に選ぶこと」のギャップ

 返却期限までに書店員さんたちのお薦め本を読むのは諦めて、自分用に注文することにしました。「多量のお薦めリスト」は手元にあれば、時間のある時に活用できるかもしれないものの、そのままでは時間切れで「手付かず」で終わることもある。今回の年末・年始の経験から、「多量のお薦めリスト」と「学習者が楽しんで学べるものを上手に選ぶこと」のギャップを考えてしまいました。

 英語を教えている私は、これまでも、自分の教えている学習者向けに、学校の図書館にある英語の本から作家別のお薦めリストをつくったり、お薦め本の紹介を書いたりしてきました。ここ2年は、オンライン授業の時期もあり、オンラインで読んだり視聴したりできる英語のサイト★も、それなりにいろいろと紹介してきました。できるだけ目を通し、紹介できる「量」は増えたものの、学習者が自分に合ったものを自立的にうまく選択することにつながっているようには思えません。リスト作成とその提示で終わってしまっています。

 ゆったりとした時間があれば、お薦め紹介を読むこと自体、(うまくガイドすれば)楽しめるのかもしれません。しかし、現代の子どもたちも、私が教えている学習者たちもそれぞれに忙しそうです。特に「今学期中に○つのジャンルで、それぞれ○冊以上読もう」みたいな目標が設定されていれば、目標をクリアーすることが優先順位になりそうです。そんな時に、多量のお薦めリストや情報を提示しても、利用されることは少なそうです。

4。長期休暇中の読書

 教師は、特に長期休暇中に、お薦めリストを使って欲しいと思うことが多いのではないでしょうか。

 ここから二つのことを思い出しました。

 一つは『イン・ザ・ミドル』(アトウェル, 2018年)の中の「長期休暇中の読書」という迫力ある(?)セクションです(『イン・ザ・ミドル』236−238ページ)。教室の図書コーナーから、少なくとも一人6冊は長期休暇中に読む本を見つけることを目標として、教師も生徒も、みんなですごい勢いでブックトークをすることが説明されています。教室の図書コーナーの本を貸し出すことにはそれなりにリスクがあるものの、方法を工夫してやってみると、紛失した本は過去3年間に2冊だけだったとのことです。

 アトウェルの教室では、学年の終わりにお気に入りの書名を尋ねると、その90%程度が、アトウェルや他の生徒のブックトークで紹介されたものというぐらい、ブックトークが機能しています(『イン・ザ・ミドル』143ページ)。この教室のように、教室の図書コーナーに、幅広いジャンルで相当数の本があり、それが貸出できる状態であれば、それぞれ手元に読みたい本を持たせて、長期休暇に送り出すことができそうです。

 しかし、上記のことが難しい教室もあると思いますし、卒業していく子どもたちには、上の方法は現実的ではなさそうです。

 それで思い出したのが、『作家の時間』(新評論)の中にあるライティング・ワークショップのミニ・レッスンです。先生が子どもたちに、次のように投げかけます。「図書室の本のなかから、今日は自分が読みたいと思う題名を五つ選んで、作家ノートの最初のページに書き出してみよう。それでは題名探しに出かけて下さい」

 これは、子どもたちが題名を決めるのに悩んでいたり、自信がなさそうにしているのを見た先生が、「図書室にはプロの作家が書いた本が溢れているので、子どもたちが題名を考える参考になるはずだ」と思って、図書室でミニ・レッスンをした時の様子です(『作家の時間』155〜156ページ)。

 ライティング・ワークショップで、「題名は大切です」と言うことは簡単です。でも、実際にいい題がつけられるようになるためには、例えば、このミニ・レッスンのような「練習/体験」があることで、より効果も出てきそうです。

→ そう思うと、「選書」についても同じだろうと思います。もし、多量のお薦めリストがあれば、それを使う「練習/体験」のためのミニ・レッスンをして、それを使う練習が時には必要かもしれません。もちろん、この選書リストには、教室の図書コーナー以外の本(地元の図書館やオンラインで読めるものなど)を加えることもできます。そして、長期休暇の前は、お薦めリストと遊ぶ、というか、お薦めリストとの付き合い方・使い方を学ぶミニ・レッスンもありかも、と思います。そして、それぞれの教室や年代で、利用可能なリストのより良い使い方を一緒に考えてクラスの「上手な使い方」リストを作ったり、そこで選んだ本をメモしておき、どの程度うまく選べたのか、後で振り返ったり等々です。そんな一連のミニ・レッスンを考えてみたくなりました。

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★ 英語のサイトとしては、複数の絵本の読み聞かせ動画サイト、TED、日本語の補助輪のついている新聞記事やエッセイのサイト、アメリカVOAやイギリスBBCの英語学習者向けサイト、Lit2Goのような多量の読み物があるサイト、図書館のeBook等々です。図書館が紹介や運営していたり、会員登録せずに無料でアクセスできるものを原則とし探していますが、英語の場合は大量にあります。私の学生時代とは隔世の感がありますし、その分「選ぶ」ことの重要性も増しているように感じます。