大学1年の秋、午前の講義が終わった後、とくにすることもなかった日に、山陽本線に飛び乗り、名前にひかれて岡山県の倉敷駅に降り立ちました。倉敷の地理もまったく分からず、有名な場所と後から知ったアイビースクエアを出口の方から入ってしまったりして、迷いながら歩いている内に、大きめの洋館の入り口にたどり着きました。そこが「大原美術館」でした。時間はたっぷりあったので、順路に従って絵を見ていきました。美術の教科書で出会った作品がたくさんあり、結局その日は閉館間際までそこにいたのです。帰りしなに立ち寄った現代美術の館で、ジョルジュ・マチューという画家の作品の前で立ち止まりました。高校の美術の教科書で「現代の書家」と呼ばれていた画家の絵。黒く塗られたカンヴァスの下地の上に乱暴に書き殴られたかのように見える線で構成された抽象画ですが、独特の質感とバランスを伴っています。それまで見慣れていた写実的な絵とはまったく正反対のものでしたが。故郷を遠く離れた大学に少し慣れたばかりの秋の多少不安定な気持ちのバランスをとってくれるようで強く惹きつけられました。少なくともマチューの絵の前で私は束の間、我を忘れる体験をしていたのです。
『理解するってどういうこと?』愛3章「理解に駆られて」には、エリンさんがヴァン・ゴッホの絵を鑑賞した時の強烈な知的経験のことが描かれています。そういう体験をした時に次のようなことをしてみるといいとも。
・自分の人生のなかで強烈な知的経験として記憶していることはどのようなことでしょうか?
・そのときに、あなたが経験した学びの特徴とはどのようなものですか?
・自分の置かれた状況を理解するためにあなたが使った方法にはどのようなものがありましたか?
・どのような理解の種類をあなたは経験しましたか? その成果はどのようなものでしたか? そしてそのことについて今、子どもたちに話すことができますか? あなたが経験した種類の理解とその成果を説明するときは、単にあなた自身の経験を紹介することに重きをおくのではなく、子どもたちが持つことになるかもしれない経験に関連づけるように、言葉遣いを考えてください。(『理解するってどういうこと?』102ページ)
私の言葉は拙くて、とてもマチューの絵を前にした「強烈な知的体験」もそのときの「理解の種類とその成果」もうまく伝えることはできていません。しかし、その秋のマチューの絵前にしてもっと誰かと話したり、詳しく書きとめたりしておけば、違っていたかもしれません。マチューの絵のどこから救われた思いがしたかを語ることができるからです。
末永幸歩さんの『13歳からのアート思考』(ダイヤモンド社、2020年)にはそのようにして絵画についての理解を分かち合うためのヒントがたくさん示されています。たとえば、ワシリー・カンディンスキーの《コンポジションⅦ》という作品について、末永さんはまず「この絵には「なに」が描かれているでしょうか?」と問いかけます(『13歳からのアート思考』141ページ)。その後にカンディンスキーの絵が見開きで示され、次のような言葉た続けられています。
いかがでしょうか? ここまでの授業でアートのとらえ方が少し変化してきたみなさんでも、「この絵に何が描かれているのか?」という質問には「う~ん?」と首をひねってしまったのではないかと思います。
一刻も早くスッキリとしたい気持ちだと思いますが、こういうときこそ、まずは自分の目で作品をよく見る「アウトプット鑑賞」です。
ここまでの授業でだいぶ慣れてきたと思いますので、ここでは「アウトプット鑑賞」をもう一段面白くするための秘訣をご紹介しましょう。作品を見て出てきた「アウトプット」に対して、とてもシンプルな2つの問いかけを自分でぶつけてみるのです。(『13歳からのアート思考』144ページ)
末永さんの「2つの問いかけ」とは、「どこからそう思う?――主観的に感じた「意見」の根拠となる「事実」を問う」と「そこからどう思う?――作品内の「事実」から主観的に感じた「意見」を問う」です。この「アウトプット鑑賞」と「2つの問いかけ」でどのような会話が生まれるのかということについては是非『13歳からのアート思考』をご覧ください。中学生の具体的な面白いやりとりが示されています。40年程前に大原美術館で見たマチューの絵についてもこういうことをやっていけば、少なくとも私の経験した理解の種類とその成果を共有することができたのではないか。それは、自分に対して自分の経験を説明することになり、その経験の意味をつくり出すことになったのではないでしょうか。末永さんが引用する、クロード・モネ《積みわら》に出会ったときにカンディンスキー自身が発したという次の言葉は、この本を読んで私が得た発見にもあてはまります。
「『なに』が描かれているのかわからなかったのに、惹きつけられたのではなく、『なに』が描かれているかわからなかったからこそ、惹きつけられたではないだろうか」(『13歳のアート思考』152ページ、原文では「のに」と「こそ」が圏点(・)で強調されている。)
末永さんの『13歳からのアート思考』は、もうすぐ60歳になる私にとってもこのような新鮮な発見の連続をもたらしてくれる本でした。それは、この本が、エリンさんの言葉を借りるなら、自分の経験した種類の理解とその成果を説明する言葉をもたらしてくれるからでもありますし、それだけでなく、自分自身の経験と、それを分かち合おうとする相手が持つことになる経験とを関連づけるための「言葉遣い」や手立てを具体的に示してくれるからです。末永さんの言う「アート思考」は言語作品を理解するための方法でもあるとという思いを強くしました。それは作品を介して自分を理解するたいせつな手立てでもあります。
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