「社会的距離」を保つために「オンライン○○」の機会が増えてきました。直接「対面」ができないのですから、もどかしい思いをすることも少なくありません。そう思っていたら、この間「オンライン」での会議中、アップロードされた資料内の語彙をアプリの検索機能で調べながら聞くことも可能で便利だということに今更ながら気づきました。紙媒体の資料ではこれはまずできません。紙媒体の資料の文章の特定の語彙を短時間で探すことは少なくとも私には難しいことです。
しかしそういう機能を使っている時には、資料の文章内容を経験しているのではなく、情報を検索しているのです。これは『理解するってどういうこと』の41ページの「表2・2b 多様な理解の種類」に掲げられている七つの「理解の種類」のどれ一つ使わないことです。「熱烈な学び」でもなく、「じっくり考える」ことでもなく、「もがく」ことで新たな発見をするわけでもありません。なぜか。作家の藤谷治さんの『小説は君のためにある』(ちくまプリマー新書、2018年)に、それに答えてくれる一節がありました。
「読む」とは入力と同じではない。入力というのは情報を収集し、蓄積することだが、「読む」は情報の収集蓄積とは、似て非なるものである。
確かに人間は、文章を読めば、その文章にある情報を理解はできる。だがそれを保存したり、まるごと出力したりはできない。
じゃ「読む」とはなんなのか。人は文章を読んでいる時、何をしているのか。
経験である。僕たちは文章を読んでいる時、その文章に書かれていることを、経験しているのである。(『小説は君のためにある』41ページ)
「読む」ことがコンピュータの「入力」「出力」と大きく違うのは、それが人の「経験」だからだ、と藤谷さんは明快に言い切っています。だからこそ「読む」ことは「もとの文章を一字一句再現する」こととは違うのです。
タイトルを一目見てわかるように、藤谷さんのこの本は「小説」とは何か、「文学」とは何かということについての入門書です。しかも「君のためにある」というフレーズには、文章との親密に交流する「経験」、その文章と読者である「君」とがかかわりあう「経験」こそが「小説」であり「文学」であるということをあらわしています。藤谷さんの言う「経験」は、私たちが生活のなかで経験する多様な「理解の種類」でもあります。だから「読む」ことが次のような成果をもたらすと言うのです。
イヤな奴、理解できない人間はもちろん、それほど嫌いな人間でなくても、人の身になって考えることは難しい。
ましてや、いろいろな人間の、いろいろな考え方、感じ方と、君自身の考えや感じ方を、横一列に、同等に考えることは、とても難しい。どうしたって自分優先になる。
小説を読んだくらいでは、自分優先をなくすことはできないだろう。なくしていいかどうかも、よくわからない。
だが小説を読むという経験は、「自分は一人ではない」ということの本当の意味を、絶えず君に伝えているのだ。
君のように感じ、苦しみ、喜び、怒り、うんざりするのは、君一人ではない、という意味も、小説にはある。
そして同時に、「すべての人が君と同じように、『自分』なのだ」という意味での「自分は一人ではない」ということも、小説を読む経験は、君に伝えるのだ。
それが受け止められた時に、君は知らないうちに、君という人間の幅を、大きく広げている。(『小説は君のためにある』138~139ページ)
「オンライン○○」の続く日常で、スクリーンを見つめ過ぎて疲労感を覚える日も多いのですが、「新しい生活様式」(頭を使ってかしこく生きるライフスタイル?)とは、「対面」ができなくてもどかしくても、「オンライン」であっても、そのような「経験」をするために、頭を使ってかしこく生きる工夫を少しずつしていくということなのかもしれません。そそて、それぞれのスクリーンのこちら側で、スクリーンに向かって「読むという経験」を重ねて行くことができるのなら(ディジタルらしい便利な機能も駆使しながら)、「オンライン○○」の続く日常も、「『自分は一人ではない』ということの本当の意味」を絶えず私たちに伝えるものになるかもしれないのです。
0 件のコメント:
コメントを投稿