2020年5月1日金曜日

「共に在る感覚」を持ち続ける




 『理解するってどういうこと?』には「理解の種類」にかんするエピソードのなかに、エリンさんの家族のことがたくさん出てきます。第3章の「熱烈な学び」のところでは、娘のエリザベスさんと美術館に行ってゴッホの絵を観たエピソードや、エリンさんが若い頃に亡くなった母親の病について父親と一生懸命に学んだことが、また、第6章の「ルネサンスの思考」のところではエリンさんの父親と夫のことが、そして、第8章の「夢中で対話すること」のところでは、エリンさんの二人の父親のことが、いきいきと描かれ、それぞれの「理解の種類」がどのようなものかということを読者である私たちに伝えてくれます。

 「娘の誕生に端を発して、自らの学習をトレースしながら、思考を書き連ね」たという、ドミニク・チェンさんの『未来をつくる言葉―わかりあえなさをつなぐために―』(新潮社、2020年)も、家族とともにいきるなかで見出したたくさんの「理解の種類」を示した本です。副題の「わかりあえなさをつなぐ」とはどういうことか。

 この本の第8章「対話・共話・メタローグ」で、チェンさん自身が強く影響を受けたと言っている、グレゴリー・ベイトソンの「メタローグ(metalogue)」という概念が出てきます。ベイトソンは娘のメアリー★との関係を通して思考をつくり上げたというのですが、その「個体ではなく関係性から出発する思考」を記述する方法が「メタローグ」でした。チェンさんの言葉を借りれば「書く内容と結論をあらかじめ決めずに、ABという話者同士の対話を進める書き方」のことで「相互依存によって作動する、複雑な関係のネットワークを表現する」ための記法です。「メタローグ」に非常に近いのが謡曲の「共話」だとチャンさんは言っています。そして、それは「独話」とも「対話」とも違うコミュニケーションのやり方だとも。またそれが「深い関係を結ぶ相手の視点を自分のなかに住まわせて、そこから世界を見ようとする営み」だとも言っています。

 うーん、むずかしい、と言われそうですが、これってとても大事な「理解の種類」ではないでしょうか。ここからチャンさんは、自分と娘さんとのエピソードを取り上げ、それを分析しながら「学び」についてとても重要な指摘をしています。「学習行為とは個の中だけで行われるのではなく、他者との関係性のなかで発達する」ということと「ひとつの能力が線形に上昇するプロセスではなく、複数の能力が増減や身体を繰り返す「変化」が学びだ」ということです。そのきっかけになるのが「メタローグ」であり、「共話」だと言うのです。

    そしていくつかのエピソードが記され考察された後に、次のような愛すべき一節があらわれます。



ベイトソンのメタローグとは、記憶のなかで話し相手を自己の内側に生起させる方法であった。であれば、思い出すという行為はそれ自体が微少なメタローグの契機を生むものだとも言える。父のなかで、または娘のなかで、相手を生かし続けること。この構造は家族同士ではない関係であってもひとしく、記憶のなかで相手との共存関係を持続させるだろう。

 思い出すという行為は、現在のなかに過去の経験を挿し込み、現在にフィードバックさせるものだ。その意味では、過去は終わらないし、未来の在り方にも関わってくる。いつからか、わたしは死者の記憶を想起することで死者が生者のなかで生き続けるという感覚を持つようになった。だから自分がいつか死んだとしても、生者のなかで生かされ続けられるかもしれないとも思えてくる。(『未来をつくる言葉』194ページ)



 「記憶のなかで相手との共存関係を持続させる」ということは、きわめて重要な「理解の種類」なのかもしれません。相手のことが完全にわかったとは言えなくても、そういう「共存関係を持続させる」ことならできるかもしれない。「死者の記憶を想起することで死者が生者のなかで生き続けるという感覚」をもつことなら。そして「わかる」「わからない」ではなくて、これもチャンさんの言葉を借りると「共に在る感覚」をもつということが「わかりあえなさをつなぐ」ということになるのではないでしょうか。「共に在る感覚」をもつことができれば、おそらく、そうでないときよりも世界は違って見えてくるはずです。「未来をつくる」方へと。



★やがて人類学者となるメアリー・キャサリン・ベイトソンのことですが、彼女も『娘の眼から―マーガレット・ミードとグレゴリー・ベイトソンの私的メモワール―』(佐藤良明・保坂嘉恵美訳、国文社、1993年)という著作のなかで、父グレゴリーの思い出に触れながら次のように書いています。「自分がすべてを見ているのではないこと、他人は違ったふうに見るだろうということを意識しながら、多数の視線によって浮かびあがる全体図の部分に、自分の記述がしっかり収まるよう、自分に見えるものを書き留めていかなくてはならない。」(288ページ) もちろんこれは人類学の調査の姿勢のことを言っているのでしょうが、私たちが「共に在る感覚」を持ち続けるためにも大切な方法になり得ると私は思います。

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