2024年8月17日土曜日

沈黙と対話

  遅ればせながら、桑野隆さんの『生きることとしてのダイアローグ―バフチン対話思想のエッセンス―』(岩波書店、2021年)を読みました。桑野さんはミハイル・バフチンの研究者であり翻訳者ですが、これまで私は桑野さんの多くの著作に学ばせていただいています。この本は、バフチンの「対話思想」をとてもわかりやすい言葉で解説しながら、バフチンの対話論がいまでも現代を生きる私たちが身の回りの出来事を考える手がかりになりうることを示しています。

 バフチンの対話論の基本的特徴は、たとえば次のようなバフチンの言葉にあらわれています(『生きることとしてのダイアローグ』にある、桑野さんの訳文です)。

 「在るということは、対話的に交通するということなのである。対話がおわるとき、すべてはおわる。したがって、対話はじっさいにはおわることはありえないし、おわるべきではない。」(3ページ)

「対話では、人間は外部に自分自身をあきらかにするだけではなく、あるがままの自分にはじめてなるのである――くりかえすが、それは他者にたいしてだけではなく、自分自身にとってもである。」(10ページ)

  「向かい合って話し合う」ということが対話ではないのです。他者に自分自身を明らかにするばかりでなく、自分自身にとっても自分自身を明らかにする行為が対話だと言うわけです。ですから、桑野さんも「そもそも〈理解〉というのは本来対話的なものとしてしかありえません」(46ページ)と言っています。

 アンリ・マティスとパブロ・ピカソの絵による対話の考察に始まる『理解するってどういうこと?』の第8章で、エリンさんも次のように言っています。

 「マティスとピカソは、ボクシングのスパーリング・パートナーのような関係にあって、同僚の画家たちがこれまではけっして考えてこなかったような、さまざまな考えをめぐって争ったのです。彼らはお互いを挑発することで、独創的な思考を表現していきました。

 私たちの学校の子どもたちにこうした対話を望むのは、間違っているでしょうか? この二人の画家たちの50年間にわたる「穏やかなライバル関係」の特徴の一部を、私たちの授業に組み入れることは、間違っているでしょうか? もし私が間違っていると言うのなら、あなたとこのことについて対話がしたいです。私の考えを聞いてもらえる機会が欲しいですし、あなたの考えや経験に影響される機会が欲しいです。この点について少しも議論しないで、理解することなど望めるでしょうか?」(『理解するってどういうこと?』299ページ)

  エリンさんの言う「対話」は、バフチンの言う「対話」とほぼ同じ意味で使われていると思います。「向かい合って話す」ということではありません。何しろメンター(モデル)がマティスとピカソとの視覚的な対話です。この両者の絵による対話の半分以上は、それぞれが自分自身と向き合う時間でもあったはずです。

 それがマティスとピカソの「「穏やかなライバル関係」の特徴の一部」です。マティスとピカソの描いた絵は『理解するってどういうこと?』の291ページと293ページにあります。当然のことながら描くには時間が必要ですから、即答はあり得ません。描きながら考える、考えながら描く、そのための時間のなかで、二人は相手だけでなく自分自身とも向き合っていたはずです。エリンさんが子どもたちに望んでいるのはきっとそういう対話です。

 『理解するってどういうこと?』第8章の後半に、クララという先生のミニ・レッスンの記録があります。ロバート・コールズの『ルビー・ブリッジス物語』のブッククラブの際に行われた「質問する」という理解するための方法のミニ・レッスンの記録です。このレッスンは後半で、ジャスミンという生徒の質問によってとても大切な局面を迎えますが、そこでクララ先生は、ジャスミンの質問に対する答えをすぐには発言させず、模造紙に次のことを箇条書きにして共有します。

 「質問のなかには、みんなに言う前にたくさん考えないといけないことがある。

 ある人が質問をすると、それは作品について他のみんなが新しい視点で考える助けになる。

 ときには、質問にすぐに答えようとしない方がいい。その代わり、しばらくのあいだ頭のなかに漂わせておく。」(『理解するってどういうこと?』323ページ)

  いずれも重要な言葉ですが、三点目の「ときには、質問にすぐに答えようとしない方がいい。その代わり、しばらくのあいだ頭のなかに漂わせておく」とは、まさしくマティスとピカソがやっていたことではないでしょうか。「沈黙」です。実際、クララ先生はジャスミンの素晴らしい質問が出された後、意図的に生徒たちに「沈黙」の時間を与え、考えさせながら『ルビー・ブリッジス物語』を「ひたすら読む時間」へといざなっていきました。

 桑野さんの『生きることとしてのダイアローグ』の最後の章も「沈黙」と題され、バフチン晩年のメモにあらわれる「沈黙」の考察に言及されています。そして、石牟礼道子さんの『苦海浄土』三部作を「沈黙を余儀なくされた人びとの〈心に汲み入る対話〉になっている」(154ページ)と捉え、若松英輔さんの著作の言葉を借りて「〈対話〉を問題にする以上、「沈黙と向き合う」べきなのです」(同前)と述べています。この本のとても深みのある部分です。「沈黙」は「対話」の一つの種類なのです。エリンさんによれば「対話」は理解の種類の一つですから、バフチン流に考えれば「沈黙」も理解の種類の一つになります。

 最後に、『生きることとしてのダイアローグ』第Ⅰ部に置かれたバフチンの言葉を引用します。

 「生きるということは、対話に参加するということなのである。すなわち、問いかける、注目する、応答する、同意する等々といった具合である。こうした対話に、ひとは生涯にわたり全身全霊をもって参加している。すなわち、眼、唇、手、魂、精神、身体全体、行為でもって。」(『生きることとしてのダイアローグ』8ページ)

 こういう対話を実現できる学びが、子どもたちを夢中にさせます。未完のダイアローグ(対話)が、生きることとしてのほんものの学びを生みます。

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