2024年8月30日金曜日

『パチンコ(上・下)』 〜「窓」(★1)の広さに驚くオバマ元大統領のブックリスト

 夏の終わり、うっかりページを開いてしまうと途中でやめるのが大変で、何とか隙間時間を見つけて読み続けた本があります。『パチンコ』(ミン・ジン リー、文藝春秋, 2020年)で、上・下2巻あり、地元の図書館で上を借りたあと、外に出たくない危険な?暑さの中、すぐに下を借りに行きました。20世紀を舞台にした在日コリアンたちについての小説で、もともと英語で書かれたものの翻訳です。20世紀初頭から四世代が登場し、朝鮮半島から始まり大阪、長野、横浜等へと舞台が広がっていきます。この本は、後述しますが、オバマ元大統領の過去の「お薦め本リスト」(2019年)の中に含まれていたおかげで、今回、読むことになりました。

 歴史の中であまり知らなかった部分を、それぞれに描きこまれた登場人物の言動や思いから学びつつ、本を閉じた後に「どうして?」と考えてしまう場面もいくつかあり、強い印象を受けた本でした。著者のリー氏によると1989年にこの物語の着想を得て、長編の草稿を書き上げ、2008年に同じ物語を一から書き直し始めたそうです。当時のことを、謝辞の中で以下のように記しています。

「在日コリアンは歴史の犠牲者であるかもしれないが、一人ひとりからじっくり話を聞いてみると、そういう単純な話ではないとわかったのだ。日本で会った人々の寛容さと複雑な心理を目の当たりにして自分がいかに間違っていたかを知り、それまでの草稿をすべてくず入れに投げ込んで、二00八年、同じ物語を一から書き直し始めた。」(『パチンコ(下)』350ー351ページ)

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 今月、オバマ元大統領の「2024年の夏のお薦め本リスト」(https://www.junglecity.com/news/barak-obama-summer-reading-list-2024/)が公開されました。検索している間に、過去にオバマ元大統領がお薦めした本から、邦訳が出ているものをリストしているサイトを見つけました。

 『パチンコ』は、その中の一つ、「バラク・オバマの推し本【21冊】」(https://www.oshibon.com/barack-obama-books)の中でを見つけました。

 また 「【39冊】バラク・オバマ氏がおすすめした本」(https://booksrecommendedby.xyz/politician/barack-obama/)では、本のリストを見ながら、ジャンルやトピックの広さに驚きました。開発経済学の本、ディストピア小説、SF、回想録、歴史小説、恋愛小説、ミステリー、自叙伝、ルポルタージュ等々に加え、古典的名作や絵本や児童文学も入っています。このリストには『パチンコ』は含まれていないものの、『パチンコ』のように、アメリカ以外の国が舞台になっている本も多くあります。

 2024年8月9日の投稿などで、何度か紹介してきたビショップ氏の[鏡]と[窓]と[ガラスの引き戸](★1)から考えると、自分の外の世界を見せてくれる[窓]がいっぱい!というか、その[窓]の広く開いているリスト!と感じました。

 自分が知らないことが多い地域について学ぶのは、私にはハードルが高いのですが、今回の『パチンコ』のように、「本」という扉からであれば、引き込まれてしまうことが多いです。そこで、オバマ元大統領のこれまでのお薦め本から、そういう観点で自分の「これから読みたい本」を何冊か選んでみました。

 「バラク・オバマの推し本【21冊】」(https://www.oshibon.com/barack-obama-books)より、『西への出口』(モーシン・ハミッド、新潮社、2019年)。パキスタン出身の作家の本で、中東を思わせる、ある街から話はスタートするようです。

 「【39冊】バラク・オバマ氏がおすすめした本」(https://booksrecommendedby.xyz/politician/barack-obama/)からは、以下が気になりました。何しろ、読んでいない本ですから、説明はこのサイトに書かれていたことの受け売りです。

『崩れゆく絆』(チヌア アチェベ、光文社、2013年)は、「アフリカ文学の父」の最高傑作。

『モスクワの伯爵』(エイモア・トールズ、早川書房、2019年)は、1922年モスクワ。革命政府に無期限の軟禁刑を下されたロストフ伯爵が登場し、上流社会のドラマを描く、陶酔と哀愁に満ちた長篇小説。

『低地』(ジュンパ ラヒリ、新潮社、2014年)インドとアメリカを舞台に繰り広げられる波乱の家族史。

『権力と栄光』(グレアム・グリーン、早川書房、2004年)は「共産主義革命の嵐が吹き荒れる灼熱の1930年代メキシコが舞台。

『すべての見えない光』(アンソニー・ドーア、新潮社、2016年)ナチスドイツの技術兵となった少年と、パリの博物館に勤める父のもとで育った、目の見えない少女の物語。

 ★ぜひ、リスト自体をご一覧ください。本当にトピック、ジャンルの広さにビックリで、リストにある、21冊、あるいは39冊のタイトルや短い説明を読んでいるだけでも楽しかったです!

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 私は、お薦め本の紹介を読むのが好きで、読みたい本を見つける上でも、とても役立っているのは、「あすこま」さんのブログです(https://askoma.info/)。フィクション、ノンフィクション、教育関係の専門書、詩、子どもたちにもお薦めできそうな本と、幅広く紹介されていて、私は、ここから、地元の図書館に予約申し込みをすることが多いです。地元の図書館は6冊まで予約ができますが、いつも、予約中の6冊のうち4冊ぐらいが、「あすこま」さんのブログで紹介されていた本です。また、一番、最近、購入した本も、このブログで紹介されていた『犬ではないと言われた犬』(向坂くじら、百万年書房、2024年)でした。

 そう思うと、お薦めリストが身近にあるのは、大きな助けです。

→ 新学期のミニ・レッスンで、「頼りにしているお薦め本紹介リストは?」を扱うのもいいかな?と思います。読みたい本が多すぎる子どもには、「時間を決めて読む」とか「やることの優先順位を間違わないように読む」も必要かも?(苦笑)と思いつつ、『パチンコ(上・下)』に予想外の時間を割いてしまった8月もそろそろ終わりです。

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★1
ビショップ氏の比喩、鏡、窓、ガラスの引き戸については、2024年8月9日、2024年3月9日、2023年8月11日の投稿で紹介しました。

Source: By Rudine Sims Bishop, The Ohio State University. "Mirrors, Windows, and Sliding Glass Doors" originally appeared in Perspectives: Choosing and Using Books for the Classroom. Vo. 6, no. 3. Summer 1990. 

http://www.rif.org/us/literacy-resources/multicultural/mirrors-windows-and-sliding-glass-doors.htm

また英語ですが、ビショップ氏が語っている90秒ぐらいの動画を見つけました。

https://www.youtube.com/watch?v=_AAu58SNSyc


2024年8月24日土曜日

今、ミヒャエル・エンデの『モモ』が指し示すこと

今、ミヒャエル・エンデの『モモ』が指し示すこと


 お盆休みが明けて最初の出勤日に、ミヒャエル・エンデの『モモ』で校内のブッククラブを行いました。参加者のみなさんは休暇で買ったお土産などを持参して参加してくださり、机上はとても華やかになりました。


2024年7月27日の投稿を参照 https://wwletter.blogspot.com/2024/07/blog-post_27.html


 本の読み方、本を読むペース、本との向き合い方は本当に人それぞれで、それぞれの学び方が尊重される学び方が、ブッククラブであるように思います。本を読了せずに参加して良いものか迷われている参加者もいらっしゃいましたが、まったく問題ないです。きっと、ブッククラブの後に本の続きが気になって読みたくなるでしょうし、次のブッククラブこそ最後まで読み終えて参加したいと、本との向き合い方も変わるかもしれません。


 『モモ』でブッククラブを行うのは、3回目くらいかもしれません。子どもたちともやりましたし、大人とも行いました。参加者が変わると自分の読み方が変わるのはもちろんですが、自分自身も歳を重ねるごとに読み方が変わっていきます。仕事を始めたばかりに頃に『モモ』を読んだ印象は、自分自身が「灰色の男たち」のように子どもたちの時間を奪い、豊かな時間の使い方ができていないかを後悔するような、強い衝撃を覚えたのを記憶しています。


 今回は、前回よりも『モモ』という物語から、少し距離を置いて考えることができたように思います。






灰色の男たち側とモモ側の分断


 灰色の男たちは順に番号をとなえました。すると議長はポケットからコインを出して言いました。

「これを投げてきめよう。数字の面がでれば、偶数番号のものがのこる。人の顔がでれば、奇数番号がのこる。」

議長はコインをほうりあげてから、つかまえました。 

「数字だ! 偶数番号がのこる。奇数番号のものは、即刻、消えたまえ!」

(『モモ 岩波少年文庫』P383)


 時間を倹約して時間銀行に貯蓄をした人から奪った他人の時間を、葉巻の煙で体内に取り込まないと生き続けることのできない「灰色の男たち」。お話の後半では、マイスター・ホラの画策で全ての時間を止められてしまった灰色の男たちは、仲間同士、時間の葉巻を奪い合って殺し合いを始めます。本の描写では、葉巻を奪われた灰色の男たちは、煙のように消えていくので、残酷な描き方はされていませんが、限られた時間を奪い合う姿は哀れで、とても同情してしまいます。


 そんなモモの側と灰色の男たちの側のあゆみよりは、あまり表現されていません。価値観の違う2つの世界の住人は、モモの側は正義、他者の時間を奪う灰色の男たちの側は悪として描かれ、勧善懲悪的な結末を迎えます。灰色の男たちは、時間を無駄にせず効率的に使うことを大切にしていますが、一方で、モモの側は時間を豊かにもつことに価値を感じ、灰色の男たちの効率的な時間の使い方に毒された被害者側という立ち位置で描かれます。『モモ』の物語自体が、モモの側から発信されたプロパガンダである可能性もあるかもしれません。


 以前のブッククラブで感じたように、自分は灰色の男のようだなあと反省する一方で、モモの側に肩入れしすぎる読み方もどこか危ういような気がしています。それは、分断を生むからです。私たちの社会には、いろいろな価値観をもつ人がいることは当然のことです。たとえば、学校での子どもの時間に関しても、灰色の男たちのように効率的に時間を活用するべきだという意見もあれば、モモのように自分で決められて余白のある時間を大切にするべきだという意見もあります。個人の中でも、この場合は、この状況ではと、二つの価値観が同時に存在し、イコライザーのように2極の間を行きつ戻りつして調整している場合も多いと思います。そんな中で、相手の考え方を型にはめてしまうことは、分断につながります。価値観の違う相手こそ、自分とはちがう何かをもっていることがあり、お互いによい仕事ができるように相手を尊重していかなければなりません。


 大切なことは、相手の価値観に入って物事を考えてみることです。モモは、序盤にある灰色の男の話を、得意の聞くことで歩み寄ろうとしますが、あまりの価値観の違いに灰色の男を恐れてしまいます。それ以降、モモ側の人物たちが、灰色の男たちの陰謀を食い止めようと立ち上がる展開になります。モモやモモ側の人間、もちろん、灰色の男たちも、もう一歩お互いの考えを交換し、限られた時間をどのようにするか考え合うことはできなかったのでしょうか。


仙丈小屋からの仙丈ヶ岳




持ち主から切り離された時間は生きることができない


 もう1点、改めて『モモ』から考えたことがあります。それは。時間は持ち主から切り離されてはその意味を失って、死んでしまうということです。


「時間の花をおぼえているよね? あのときわたしは言っただろう、人間はひとりひとりがああいう金色の時間の殿堂をもっている、それは人間が心をもっているからだって。ところが人間がそのなかに灰色の男を入りこませてしまうと、やつらはそこから時間の花をどんどんうばうようになるのだ。しかしそうやって人間の心からむしりとられた時間の花は、ほんとうに時間としてすぎさったわけではないから、死ぬことができない。だがほんとうの持ち主からきりはなされてしまったために、生きていることもやはりできない。花はその繊維組織のひとすじひとすじにいたるまで全力をふりしぼって、じぶんの持ち主の人間のところにかえろうとするのだ。」

(『モモ 岩波少年文庫』 P358)


 町中の人たちから時間を切り離して奪っていた灰色の男たち。切り離された時間はその持ち主のもとに帰ろうとするために、地下の貯蔵庫に冷凍保存をして閉じ込められていました。彼らはそれをすこしずつ取り出し葉巻にして時間を吸うことで、生きながらえています。


 時間というものは、その持ち主としっかり結びついてこそ、意味を発揮するものです。その持ち主から切り離されてしまうと、意味をなすことができなくなる。そのことは、示唆に富んでいるように思います。


 作中に、「子どもの家」なる施設が登場します。子どもたちが持つ貴重な時間を役に立たない遊びに浪費させないために、子どもたちを「子どもの家」に収容して、何か役に立つことを覚えさせることに使わせます。子どもたちの時間は、「子どもの家」で自分たちとは切り離されたものになってしまい、灰色の男たちに支配された時間となってしまうのです。


 学校の中に限らず、子どもたちの時間は大人たちの餌食になりやすいものです。塾や習い事、もしくはスマートフォンのアプリやゲームなど、大人たちが作った子どもたちにある身の回りのものは、子どもたちの時間を奪うための道具のように見えてきます。


 時間というものは何かという問いに、読者を直面させる物語が『モモ』なのではないでしょうか? 1分1秒という数字だけが、時間を表すものばかりではありません。その単位はむしろ、本来の持ち主から切り離された時間を数えるために編み出された道具とも言えるかもしれません。本来の豊かな時間というものは、その時間の持ち主としっかりと結びつき、楽しんだり、夢中になったり、夢見たりする行為として出現します。その際には、決して1分1秒という数字によって表されるものではないはずです。


 私たちの学校を振り返ってしまいます。子どもたちの時間は、45分という学習時間の単位だけでは事足りず、時には5分単位で切り分けられて、標準授業時数を満たしているか管理されています。そのようなもとで、子どもたちは、そしてわたしたちは、豊かな時間という価値を子どもたちに伝えることができているのでしょうか。


 それとはまた別の教育業界の潮流もあるでしょう。モモが時間の貯蔵庫を開けて本来の持ち主に時間を解放したのと同じように、本来子どもたちのものであった時間を、子どもたちの元に返そうという動きもあるように思います。子どもたちが学習の方法を選択できるように、また、子どもたちが時間の使い方を選択できるように、「自律」という名の下に子どもたちに選択権を委ねる動きもあるでしょう。子どもたちが自分たちの時間を自分のものとして豊かに過ごせているか、そして、子どもたちのまわりの大人たちが、その豊かな時間の過ごし方をモデルとして示せているかどうか、わたしたちはもう一度振り返る必要があるでしょう。


北岳山荘と間ノ岳




2024年8月17日土曜日

沈黙と対話

  遅ればせながら、桑野隆さんの『生きることとしてのダイアローグ―バフチン対話思想のエッセンス―』(岩波書店、2021年)を読みました。桑野さんはミハイル・バフチンの研究者であり翻訳者ですが、これまで私は桑野さんの多くの著作に学ばせていただいています。この本は、バフチンの「対話思想」をとてもわかりやすい言葉で解説しながら、バフチンの対話論がいまでも現代を生きる私たちが身の回りの出来事を考える手がかりになりうることを示しています。

 バフチンの対話論の基本的特徴は、たとえば次のようなバフチンの言葉にあらわれています(『生きることとしてのダイアローグ』にある、桑野さんの訳文です)。

 「在るということは、対話的に交通するということなのである。対話がおわるとき、すべてはおわる。したがって、対話はじっさいにはおわることはありえないし、おわるべきではない。」(3ページ)

「対話では、人間は外部に自分自身をあきらかにするだけではなく、あるがままの自分にはじめてなるのである――くりかえすが、それは他者にたいしてだけではなく、自分自身にとってもである。」(10ページ)

  「向かい合って話し合う」ということが対話ではないのです。他者に自分自身を明らかにするばかりでなく、自分自身にとっても自分自身を明らかにする行為が対話だと言うわけです。ですから、桑野さんも「そもそも〈理解〉というのは本来対話的なものとしてしかありえません」(46ページ)と言っています。

 アンリ・マティスとパブロ・ピカソの絵による対話の考察に始まる『理解するってどういうこと?』の第8章で、エリンさんも次のように言っています。

 「マティスとピカソは、ボクシングのスパーリング・パートナーのような関係にあって、同僚の画家たちがこれまではけっして考えてこなかったような、さまざまな考えをめぐって争ったのです。彼らはお互いを挑発することで、独創的な思考を表現していきました。

 私たちの学校の子どもたちにこうした対話を望むのは、間違っているでしょうか? この二人の画家たちの50年間にわたる「穏やかなライバル関係」の特徴の一部を、私たちの授業に組み入れることは、間違っているでしょうか? もし私が間違っていると言うのなら、あなたとこのことについて対話がしたいです。私の考えを聞いてもらえる機会が欲しいですし、あなたの考えや経験に影響される機会が欲しいです。この点について少しも議論しないで、理解することなど望めるでしょうか?」(『理解するってどういうこと?』299ページ)

  エリンさんの言う「対話」は、バフチンの言う「対話」とほぼ同じ意味で使われていると思います。「向かい合って話す」ということではありません。何しろメンター(モデル)がマティスとピカソとの視覚的な対話です。この両者の絵による対話の半分以上は、それぞれが自分自身と向き合う時間でもあったはずです。

 それがマティスとピカソの「「穏やかなライバル関係」の特徴の一部」です。マティスとピカソの描いた絵は『理解するってどういうこと?』の291ページと293ページにあります。当然のことながら描くには時間が必要ですから、即答はあり得ません。描きながら考える、考えながら描く、そのための時間のなかで、二人は相手だけでなく自分自身とも向き合っていたはずです。エリンさんが子どもたちに望んでいるのはきっとそういう対話です。

 『理解するってどういうこと?』第8章の後半に、クララという先生のミニ・レッスンの記録があります。ロバート・コールズの『ルビー・ブリッジス物語』のブッククラブの際に行われた「質問する」という理解するための方法のミニ・レッスンの記録です。このレッスンは後半で、ジャスミンという生徒の質問によってとても大切な局面を迎えますが、そこでクララ先生は、ジャスミンの質問に対する答えをすぐには発言させず、模造紙に次のことを箇条書きにして共有します。

 「質問のなかには、みんなに言う前にたくさん考えないといけないことがある。

 ある人が質問をすると、それは作品について他のみんなが新しい視点で考える助けになる。

 ときには、質問にすぐに答えようとしない方がいい。その代わり、しばらくのあいだ頭のなかに漂わせておく。」(『理解するってどういうこと?』323ページ)

  いずれも重要な言葉ですが、三点目の「ときには、質問にすぐに答えようとしない方がいい。その代わり、しばらくのあいだ頭のなかに漂わせておく」とは、まさしくマティスとピカソがやっていたことではないでしょうか。「沈黙」です。実際、クララ先生はジャスミンの素晴らしい質問が出された後、意図的に生徒たちに「沈黙」の時間を与え、考えさせながら『ルビー・ブリッジス物語』を「ひたすら読む時間」へといざなっていきました。

 桑野さんの『生きることとしてのダイアローグ』の最後の章も「沈黙」と題され、バフチン晩年のメモにあらわれる「沈黙」の考察に言及されています。そして、石牟礼道子さんの『苦海浄土』三部作を「沈黙を余儀なくされた人びとの〈心に汲み入る対話〉になっている」(154ページ)と捉え、若松英輔さんの著作の言葉を借りて「〈対話〉を問題にする以上、「沈黙と向き合う」べきなのです」(同前)と述べています。この本のとても深みのある部分です。「沈黙」は「対話」の一つの種類なのです。エリンさんによれば「対話」は理解の種類の一つですから、バフチン流に考えれば「沈黙」も理解の種類の一つになります。

 最後に、『生きることとしてのダイアローグ』第Ⅰ部に置かれたバフチンの言葉を引用します。

 「生きるということは、対話に参加するということなのである。すなわち、問いかける、注目する、応答する、同意する等々といった具合である。こうした対話に、ひとは生涯にわたり全身全霊をもって参加している。すなわち、眼、唇、手、魂、精神、身体全体、行為でもって。」(『生きることとしてのダイアローグ』8ページ)

 こういう対話を実現できる学びが、子どもたちを夢中にさせます。未完のダイアローグ(対話)が、生きることとしてのほんものの学びを生みます。

2024年8月9日金曜日

読み手には、書き手が必要

 今回の投稿タイトルは、前回(2024年8月2日)の投稿タイトル「書き手には、読み手が必要」から、「読み手」「書き手」が入れ替わっています。前回の投稿の中に「読み手には、書き手は必要でしょうか?」という問いがあり、それについて私なりに考えました。

 「もちろん!」必要だと思います。そして、「読み手には[広範囲の]書き手が必要!」と、[広範囲の] を強調したいです。

 この[広範囲の]ということは、オハイオ州立大学名誉教授のビショップ氏が、1990年に多文化児童文学にかかわり述べた有名な比喩、[鏡]と[窓]と[ガラスの引き戸](★1)から、考えています。つまり、(1) 自分とつながりの見出せる[鏡]となる本があること、 (2) 自分の外の世界を見せてくれる、[窓]と[ガラスの引き戸]が、「広く」開いていること、この二つを含みます。

 (2024年3月9日の投稿「共同授業者としての本 〜[鏡]と[窓]と[ガラスの引き戸](★1)」では、繰り返しになりますが、以下のように記しています。「ビショップ氏は、本は世界を見せてくれる[窓]であり、読者が想像力を働かせて[ガラスの引き戸]を通り抜けて本の中に入るとその世界の一部になることができる。[窓]である本は光線のあたりかたによって、[鏡]にもなり、読者の人生や経験の一部を映し出してくれると、説明してくれました」

 読み手が自分を人生や経験の一部を見出せる[鏡]を提供してくれる書き手がいない場合、どうなるのかは、アディーチェ(Chimamanda Ngozi Adichie)氏のTEDトーク「シングルストーリーの危険性」(The danger of a single story)(★2)で、はっきり語られています。東ナイジェリアで育ったアディーチェ氏は、イギリスやアメリカの子ども向けの本をたくさん読んで育ちました。雪も降らない国で、マンゴを食べていたのですが、7歳で物語を書き始めた時は、「登場人物はみな青い目をした白人で、雪遊びをしてリンゴを食べていた」そうです。 

 同じような例は、ダガー氏(Akhand Dugar)による2020年のTEDトーク "Mirrors, Windows, & Sliding Doors"(★3)でも登場します。(このTEDトークの題名は、ビショップ氏の比喩、[鏡]と[窓]と[ガラスの引き戸]を使っています。)ダガー氏は5歳からインドに住み、11歳でアメリカに戻っています。5年生の時に学校での作文コンテストに参加した時に書いた作品は、場面設定はイギリスで、登場人物はイギリス人の子どもたちだったそうです。

 ダガー氏のTEDトークは、彼自身の子ども時代からの読書歴を織り込みながら進みます。インドに居た頃に、好んで読んでいたのは、『ハリー・ポッター』『ハンガー・ゲーム』『パーシー・ジャクソンとオリンポスの神々』『グレッグのダメ日記』。お母さんも『シャーロットのおくりもの』『メアリー・ポピンズ』のような定番?を勧めてくれたり、そして図書館に行くと、ロアルド・ダールやイーニッド・ブライトンなどの英国の有名な作家の本などにも触れていたようです。

 ダガー氏は、これらの本は自分にとっては、外の世界を知る、最初の[窓]や[引き戸]になったと言います。つまり、自分とは異なる時代や文化に触れることで、自分の外の世界を知ることができたのです。でも、その時に接した書き手たちの世界は、欧米中心という、とても狭い世界だったと振り返っています。

 ダガー氏は、TEDトークの後半で、自分が初めて読んだ[鏡]の本や、欧米中心の白人の世界だけに限定されない[広範囲の]外の世界を開いてくれた[窓]や[ガラスの引き戸]の本を具体的に紹介し、それらの本が、現在の自分に大きく貢献してくれたと言います。最後に彼が書いた絵本(★4)について説明しています。その絵本の主人公はインド人の耳が聞こえない少女です。

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 ダガー氏のTEDトークは、今年、出版されたリーディング関係の本『A Year for the Books』(★5)の中で、見つけました。この本の中で、ビショップ氏の比喩も引用されています。35年近く前にビショップ氏が語った比喩が、ここ数年の間に出版されているリーディング関係の本を読んでいると、度々、引用されていることに気づき、長年に渡り、子どもたちのための本の「書き手」を選択するときの指針の一つになっているように感じます。

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 2023年8月11日金曜日の投稿「選択という扉の向こう側にある世界〜[鏡]と[窓]と[ガラスの引き戸]」でも、ビショップ氏の比喩を紹介し、その時には、以下の2点も記しました。

・多文化児童文学の観点から、ビショップ氏は少数民族と呼ばれる人たちが主人公になっている本の少なさや、その人たちが本の中で歪められた、否定的なイメージで描かれることのマイナス面に警鐘を鳴らしています。

・ビショップ氏はさらに、少数民族の人たちにとっての「鏡」の不足は、多数派の人たちについても、大きなマイナスになっていると言います。この指摘は私はとても大切だと思います。

→ 今回の投稿を書きつつ、日本の教室での少数派の人たちの「鏡」となるお薦め本は? 欧米の白人社会や日本社会以外に、広く開かれている[窓]と[ガラスの引き戸]」のお薦め本は?と考えてしまいます。というのは、私には、さっと何冊もタイトルが浮かばないからです。

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 私自身、子ども時代は欧米の児童文学をたくさん読んできました。教員になってからリーディング・ワークショップを学び始め、リーディング関係の本を読むようになって、それらの本の中で使われている絵本や児童文学を読む中で、ようやく、少しずつ[窓]と[ガラスの引き戸]の外の世界が広がりつつあります。

 その中で最近読んだ一冊は、タリバン政権下のアフガニスタンで逞しく家族を支える女の子の物語でした。今回、検索すると『生きのびるために』(さ・え・ら書房、2002年)という題で邦訳も出ていました(★6)。著者のデボラ・エリスはカナダ在住で、難民キャンプでアフガニスタンの女性や子どもたちから、聞いたことをもとにこの本を書いています。『生きのびるために』の続編も含めて、数冊の邦訳が出ていますが、リーディング関係の本で紹介されるまでは、全く知りませんでした。そして、同じ著者の他の本を検索して見ると、『九時の月』(★7)は「革命後のイランを舞台とした、愛し合う二人の少女たちの悲しい運命を描く実話を基にした物語」と説明が出ていました。今度、図書館でチェックしてみようと思います。

 自分自身にとって、[窓]と[ガラスの引き戸]が開いてくれる世界を、一歩一歩(一冊一冊)広げていく、ゆっくりでも、その歩みを止めないように、と思います。

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★1

[鏡]と[窓]と[ガラスの引き戸]については、ビショップ氏の比喩で、以下のURLでPDFが読めます。PDFの最後には次のように出典が記されています。

Source: By Rudine Sims Bishop, The Ohio State University. "Mirrors, Windows, and Sliding Glass Doors" originally appeared in Perspectives: Choosing and Using Books for the Classroom. Vo. 6, no. 3. Summer 1990. 

http://www.rif.org/us/literacy-resources/multicultural/mirrors-windows-and-sliding-glass-doors.htm

また英語ですが、著者が語っている90秒ぐらいの動画を見つけました。

https://www.youtube.com/watch?v=_AAu58SNSyc

2023年8月11日の投稿「「選択という扉の向こう側にある世界〜[鏡]と[窓]と[ガラスの引き戸]」と2024年3月9日の投稿「共同授業者としての本 〜[鏡]と[窓]と[ガラスの引き戸]」で、上記の情報も含めて、紹介しています。

★2

https://www.ted.com/talks/chimamanda_ngozi_adichie_the_danger_of_a_single_story

★3

"Mirrors, Windows, & Sliding Doors." Akhand Dugar. TEDxMountainViewHighSchool, January 2020.

https://www.ted.com/talks/akhand_dugar_mirrors_windows_sliding_doors?subtitle=en

(日本語の字幕はありません。また、英語字幕も「自動生成」しかないようで、表示される字幕の一部は不正確です。)

★4

Akhand Dugar著、Making a New Friend (Stories of Maya and Sid), Listening Togetherより2019年に出版

★5 Katie Walther, Maria Walther著 A Year for the Books: Routines and Mindsets for Creating Student Centered Reading Communities、Routledgeより 2024年出版

なお、この本の共著者の一人 Maria Walther は、読み書きのワークショップを統合しているThe Literacy Workshop(Routledge、2020年)の共著者でもあります。

★6

デボラ・エリス 『生きのびるために』(もりうちすみこ訳、さ・え・ら書房、2002年)は3部作。私はまだ一冊目しか読んでいません。続編として『さすらいの旅: 続・生きのびるために』(もりうちすみこ訳、さ・え・ら書房、2003年)、『泥かべの町』(もりうちすみこ訳、さ・え・ら書房、2004年)。なお、『希望の学校: 新・生きのびるために』(もりうちすみこ訳、さ・え・ら書房、2013年)は、アマゾンのレビューによると3部作の後日談らしいです。

★7

デボラ・エリス『九時の月』 もりうちすみこ訳、さ・え・ら書房、2017年

2024年8月2日金曜日

書き手には、読み手が必要

 以下は、いま翻訳している本からの引用です。


学年末が近いある月曜日、熱心な10年生のカリーナが、ティム・オブライエンベトナム戦争に従軍した経験を基にした小説を多く書いていアメリカの小説家のスタイルを真似た、実際に自分に起こったことを物語化した文章について話し合うためにやって来ました。

「よく書けていますか?」 私の多くの生徒がそうするように尋ねてきました。私がタブレットの画面を見て秒もしないうちに、さらに「気に入りましたか?」と追加の質問をしてきました。

悲しいことに、私が最初に気づいたのは、すべての一人称代名詞が小さな小文字の i で書かれていることでした。 年度末が近づいて忍耐が欠け始めていたので、校正をテーマにした数え切れないほどのレッスンをしたのを思い出して、皮肉を言いたい気持ちがわきました。

「カリーナ、これはテキスト・メッセージではありませんよ」と私は言いました。「期末試験の答案のようにしないと。なぜ一人称代名詞を大文字にしないのですか?」

「一人称代名詞?」 彼女は訝しげに尋ねました。

「ええ。 たとえば、I の文字。」

「ああ、それですか! 実はキーボードが自動修正されなくなりました。 それに、これを読むのはあなただけです、ニービー先生」

そのとおり。彼女の作品を読むのは、私だけです。小文字の i を含めて、彼女の文章を見る唯一の人間が私です。私はまた、生徒たちの教室外での社会的差別と積極的に戦った勝利の回想録を読む唯一の人間なのでした。カリーナの言い逃れの一言で、私の関心は課題の大きな落とし穴である作品を読んだり、聞いたり、見たりする対象に向けられました。

発表の対象の重要性

生徒の作品が教師だけを対象にしている場合、質が落ちることを私たちは経験から知っています。しかし、教師に代わる、本物の有意義な対象が用意されると、生徒は普段は見せない力を発揮します。(中略)カリーナには執筆の際に本物の読者がいなかったので、説得力のある議論を構築したり、主題についての信頼性を高めたりするなどの、より重要な問題は言うまでもなく、文法や書くときの約束などの詳細を無視しても彼女は何の影響があるとは思えませんでした。後から考えると、私は一人一台端末実践経験が豊富だったので、教室でICTを活用して、この課題を読んでくれる読者を用意することもできました。カリーナは、教師のためだけに書くのではなく、より広範囲の人々を対象にして書いて、そのフィードバックを「クラウドソーシング」することもできたはずです。

 

 以上、引用した最後の段落のなかに、教師以外の本当の存在する読み手が必要な理由が分かりやすく書かれています。読み手がいれば、生徒の取り組み方は格段に上がり、結果的に最終的にできあがる作品の質もよくなります。逆に、いなければ、引用で紹介したカリーナのような作品であることが約束されています。それが分かっているなら、選択肢は前者しかありません。本当に存在する読み手の候補は、教師(やクラスメイト)以外ですから、身近な学校のなかにはもちろん、学校の外にもたくさんいます。生徒が書いているテーマや、生徒本人がどんな人に読んでほしいのかを踏まえて設定したらよいでしょう。この本のなかには、人権のテーマで勉強をしている高校生が、隣の敷地にある小学校の1年生を対象に絵本をつくって読んでもらうプロジェクトが紹介されています。そして、なんと購入できる形での出版までしてしまいました!

 この出版間近な本のタイトルは、まだ決まっていません。仮題として候補に挙がっているのは、『一人一台端末で授業をパワーアップ!教育の質を飛躍的に向上させるICT活用実践ガイド』です。(写真は、原書の表紙です。)


 この本は、タイトルにあるように、一人一台端末の授業にフォーカスした本ですが、これまで「一人一段端末をタイトルに掲げていた本が達成できなかったサブタイトルにある「教育の質を飛躍的に向上させる」ことができていると思って訳しています。

 その理由は、二人の執筆者たちが「よりよい授業をつくる際の柱」=本の章立てを最初から踏まえて実践していたからです。それは、以下の9つです。

●コミュニケーションとワークフロー

エンゲージメント

コラボレーション(協働)

オーディエンス(発表の対象)

一人ひとりをいかす

フィードバックと評価

創造性とイノベーション

授業時間を考え直す

つながりをもつ教師になる

 カタカナばかりなのは、まだ日本の教育現場に知られていない/定着していない(ましてや、「よりよい授業をつくる際の柱」として位置づけられていない)ことに起因しています。これら9つの柱についても、得るものの多い本ですから、ぜひ参考にしていただければと思います。そのうちの一つとして、オーディエンス(発表の対象)を事前に明確にして子どもたちが取り組めるようにする、が含まれているのです。

 なお、これらの柱は、本ブログと姉妹ブログの「PLC便り」で長年扱ってきたテーマでもありますので、キーワードを各ブログの左上の検索欄に入力してみてください。また、これらのテーマで参考になる文献情報もリストアップしていますので、ご希望の方はpro.workshop@gmail.com宛にリクエストしてください。

 今回のタイトルは「書き手には、読み手が必要」でしたが、「読み手には、書き手は必要」でしょうか?

参考:『一人一台端末で授業をパワーアップ!教育の質を飛躍的に向上させるICT活用実践ガイド』(仮題)ジェン・ロバーツ&ダイアナ・ニービー著、学文社(2024年9月発売予定)およびhttps://www.edutopia.org/article/student-writing-needs-audience