2023年7月9日日曜日

やさしい言葉で書かれた詩を読む

◆ 時々投稿をお願いしている吉沢先生に、今回の投稿をお願いしました。

 2021年7月30日の投稿で私は、まず教師自身が詩に出会い、それを楽しむことが大切だという思いから、詩と出会っていくための方法を書きました。★1
 とは言え、やはり詩は難しいのです。苦手意識を持つひとが多いのはもっともだと思います。
 そこで今回は、教師が詩を教えるというより、生徒たちに詩を紹介して、一緒に考えましょう、一緒に楽しみましょう、という提案をしたいと思います。
 私の提案のポイントは2つです。
(1) やさしい言葉で書かれた詩を選ぶ。つまり、読むだけで内容が分かる詩です。
教師の解釈や説明のいらない詩です。
(2) その詩の中身について、思ったこと、感じたことを出し合います。その詩を、「教えよう」と思わないで、教師も一緒に感じ、考えるのです。
 今回は、私が出会ってきた詩を紹介しながら、どのようなところに着目したかをお話ししたいと思います。特に、中高生にもわかりやすい、やさしい言葉で書かれた詩を取り上げます。

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すずめ★2
村上 昭夫

すずめは撃たれたっていいのだ
捕まったっていいのだ
威かされたっていいのだ

すずめ威しは一日いっぱいすずめを威かすし
なまりの弾は世界の暗い重い色だし
かすみの網はすずめを一度に百羽も捕るのだ
だが誰もすずめを
消しさるわけにはゆかない
すずめを撃つ人も
すずめを捕える人も
すずめをたわいもなく威かす人も
すずめを
失うわけにはいかないのだ

 著者の村上昭夫は1927年に岩手県に生まれました。第二次世界大戦に学徒動員され、戦後、詩を書き始めましたが、結核を発病し、41歳で亡くなりました。
 生前に刊行した唯一の詩集『動物哀歌』を私が手にしたのは、高校生のときでした。
米が熟れ、穂が垂れる時期になると、すずめを水田から遠ざけるために、さまざまな仕掛けをします。それが「すずめ威し」です。
 ズバリと切り込む冒頭の言葉に、感銘を受けました。「米の熟れる季節になった」とか「スズメがやってきて困る」といった説明の言葉はありません。米を食害から守るために様々な仕掛けをしているとき、人間はすずめの命を慮ることはしません。人間の生存のためにすずめを追い払うのです。それは仕方のないことと人間は考えています。しかし著者は、そのような人間の「論理」を持ち出すのではなく、その底にある敵対的とも言える気持ちをあらわに言葉にしています。
 私はこの詩を読んだ時、戦場のイメージが重なりました。「なまりの弾は世界の暗い重い色だ」「撃つ」「捕える」「威かす」といった言葉からの連想です。敵を倒そうと、撃っても撃っても、敵はやってくる。そんなイメージを重ねてみたのです。
最終行の「ずずめを失うわけにはいかない」という言葉が、この詩のクライマックスになっています。人間は、すずめを威かす側にいて、自分たちが優位にいると思っているけれど、本当にそうなのか? と問いかけられているように感じました。


★3
高橋 睦郎

その鳩をくれないか と あのひとが言った
あげてもいいわ と あたしが答えた

おお なんてかあいいんだ と あのひとがだきとった
くるくるってなくわ と あたしが言いそえた

この目がいいね と あのひとがふれた
くちばしだって と あたしがさわった

だけど と あのひとがあたしを見た
だけど何なの と あたしが見かえした

あんたのほうが と あのひとが言った
いけないわ と あたしがうつむいた

あんたが好きだ と あのひとが鳩をはなした
にげたわ と あたしがつぶやいた
あのひとのうでの中で

 著者の高橋睦郎は1937年に福岡県に生まれました。この作品は、彼の初期の作品の一つです。
「あのひと」と「あたし」のやり取りが、平明な言葉で描かれています。サラッと読めば、他愛もない男の子と女の子のひとときを描いた詩といった趣ですが、仔細に見ていくと、巧みに言葉が選ばれていることに感心します。
 例えば、第1連、「あのひとが言った」に対して「あたしが答えた」とあります。それが第2連では、「あのひとが(鳩を)だきとった」に対して「あたしが言いそえた」となっています。
 第3連では、「あのひとが(鳩に)ふれた」に対して「あたしが(くちばしに)さわった」。「ふれる」と「さわる」の使い分けられることで、二人のしぐさの細かいところまで目が向きます。
 第4連では「あのひとがあたしを見た」に対して「あたしが見かえした」。二人の視線の方向が感じられます。息づかいまで伝わってくるようです。
 第5連、第6連で、ストーリーが展開します。「あのひと」は、初め「あたし」が持っていた鳩をくれないか、と言っていたのに、最後には「あんたが好きだ」と言って、鳩を放してしまうのです。「いけないわ と あたしがうつむいた」のところでは、ドキドキしました。私だったら、どうするだろう? と思いまいした。
 最終行は「あのひとのうでの中で」。「(鳩が)にげたわ」と「あたし」は言います。
“鳩は逃げたけど、「あたし」は逃げるの? 逃げないの?”というふうに聞きたく
なります。
 この詩に登場する「あのひと」も「あたし」も、生々しい存在として描かれていません。細かな心の揺れをほのめかす言葉を使いながらも、全体としてはドライな印象を与えます。それでいて、情景が目にうかぶ。そのような作品の構成に私は感心しました。



★4
松下育男

こいびとの顔を見た

ひふがあって
裂けたり
でっぱったりで
にんげんとしては美しいが
いきものとしてはきもちわるい

こいびとの顔を見た
これと
結婚する

帰り
すれ違う人たちの顔を
つぎつぎ見た

どれもひふがあって
みんなきちんと裂けたり
でっぱったりで

これらと
世の中 やってゆく

帰って
泣いた

 著者の松下育男は1950年に福岡県に生まれました。この作品は第2詩集『肴』に収められた、29才の時の作品です。
 難しい言葉は一つも使われていませんが、世界のとらえかたにドキッとさせられます。恋人の顔を見て、「にんげんとしては美しいが/いきものとしてはきもちわるい」と言うのです。そして、「これと/結婚する」と言います。「この人と/結婚する」ではありません。
 以前にこの詩を女子高校生の教室で紹介したことがあります。その時、何人もの生徒たちから、「恋人に向かって『これ』と結婚するなんて、ひどい」という感想をもらいました。なるほど、文字通り読めば、そう感じるのも無理ありません。詩の後半では、街ですれ違う人たちを見て、「これらと/世の中 やってゆく」と書いています。「この人たちと」ではありません。
 これは面白い問題だと思います。恋人に対して好きな感情を抱く。顔を見れば、何か良いことを言いたくなる。そして、そのような言葉を口にする。「きれいだね」「目元がかわいいね」などなど。(「アバタもエクボ」という表現もあるくらいです。)それは、私たちの自然な(あるいは、自然なことだと思っている)世界との向かい方と言えます。著者は、その常識を覆そうとしているのです。「いきもの」というふうに突き放して見ると、口は皮膚が裂けている部分、鼻はでっぱっている部分です。それを「きもちわるい」と表現します。そして、街ですれ違う人たちの顔も同じようになっていることに気づく。
 最終行は「帰って/泣いた」。どうして泣いたのでしょうか。「悲しくなったから」「恋人をあらためて愛おしく感じたから」・・・など、いろいろなことが言えると思いますが、私は、一言では言い切れない感じを持ちます。そして、もう一度詩を読み返したくなります。そして最終行、「帰って/泣いた」。そうか、帰って泣いたのか。・・・そんなふうにして何度も読んで、味わいたくなります。



茶碗をわる★5
岡崎 純

おまえが もう
帰ってこれなくするために
柩をまわす
小さな庭で
おまえの柩が
窮屈そうにやっと回る

柩の中には
鼻こうを綿で栓をしたおまえが
かんたん服を着て
犬の玩具を抱いて坐っている

おまえが もう
帰ってこれなくするために
おまえがいつも使っていた
ぼたん模様の茶碗をわる
一度でわれないで
二度目にわれる
箸も折る
そして おまえの柩が
家を離れる

おまえは柩の中で
このしきたりを
じっとみつめていたに違いない

 著者の岡崎純は1930年に福井県に生まれました。これは、36才の時の作品で、詩集『藁』に収められています。
 「鼻こう」とは、鼻の穴のこと。「かんたん服」とは、ワンピース型の単純な服のことです。その他に難しい言葉はありません。
 初めてこの詩を読んだ時、「ぼたん模様の茶碗をわる/一度でわれないで/二度目にわれる」というフレーズが強く心に沁みました。何か込み上げてくるような感動がありました。この詩に描かれている光景は、読めばわかります。「おまえが もう/帰ってこれなくするために/柩をまわす」とありますから、たぶん、子どもを亡くした親の目線で語られていると、想像できます。「犬の玩具」とあります。何歳くらいでしょう。男の子でしょうか。女の子でしょうか。「小さな庭」とあります。都会の家でしょうか。それとも田舎? そんなふうに想像しながら、ともに読んだ仲間と分かち合いたくなる、そんな詩です。


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★1 WWRW便り2021年7月30日「詩との出会いを経験する」
★2 『現代詩文庫159 村上昭夫詩集』思潮社、1999年、11ページ
★3 『現代詩文庫244 松下育男詩集』思潮社、2019年、25〜26ページ
★4 『現代詩文庫19 高橋睦郎詩集』思潮社、1969年、12〜13ページ
★5 『日本現代詩文庫45 岡崎純詩集』土曜美術社、1991年、37〜38ページ

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