2023年3月18日土曜日

ノンフィクションという「窓」

『理解するってどういうこと?』のなかには、この本の読者である「あなた」の「仮想の新しい同僚」としてエリンさんが設定した「トレーシー」という先生が随所に出てきて、議論を具体的に展開する役割を果たしています。第7章ではその「トレーシー」がランチのときにほかの二人の同僚教師と「作品構造」について話す場面が出てきます(「あなた」もその会話に加わっているという設定です)。かつて中学校で教えていて今は小学校5年生を教えている「サム」は次のようなことを言います。

「あの子たちの書くノンフィクションの文章はあまりにもひどすぎる。しかも、ノンフィクションの読み手としても弱いんで、あの子たちをノンフィクションに熱中させようとして、中学校でたくさん時間をかけたんだ。僕は自分の小学校での指導の経験から強く感じているんだけど、小学校ではノンフィクションの読み・書きよりも、物語の読み・書きに偏っているから、その影響が中学校であらわれているんだよ。」(『理解するってどういうこと?』259ページ)

 もう一人のジェシカという教師は「去年の春、ほ乳類について勉強していたとき、『タイム』の子ども版のなかのクジラについて書かれた素晴らしい記事を教材にしてみたんだけど、子どもたちはみんなそれに引き込まれたのよ。ワクワクして、話し合いも素晴らしかった。けれども、その後、この文章から学んだことをプロジェクトのなかで使わせようとしたんだけど、まるで、“明かりをつけても、家には誰もいない”状態だったのよ! あの子たちは読んだ文章の材料を覚えてもいないし、自分たちのプロジェクトのなかでもう一度使うこともしない。この問題をどうしていいかわからないのよ。あの子たちの頭のなかには何も残らなかったみたいで」と言っています。次のミーティングの時間が迫っていたため「あなた」の「たぶんさっきから言っていることは、よく理解することができるようにあの子たちが自分の思考を変更できないで、これまでにもっている知識を修正して新しい知識を取り入れようとしない、ということよね」という言葉でこの会話は終わっています。

 サムもジェシカも子どもたちを非難しているわけではありません。子どもたちが「これまでにもっている知識を修正して新しい知識を取り入れ」るための取り組みが必要だと言っているのです。

ノンフィクションのアンソロジーというかたちで、そのことに取り組んだのが、澤田英輔・仲島ひとみ・森大徳編『〈読む力をつけるノンフィクション選〉中高生のための文章読本』(筑摩書房, 2022年)です。澤田さんと仲島さんと森さんは、おそらく、トレーシーとサムとジェシカと「あなた」がしたような会話を幾度も繰り返しながら、この本を編んだのだろうと思います。澤田さんたちは、この本の冒頭で、長田弘の詩「世界は一冊の本」を引いた後に次のように言っています。

「一冊の本が未知への扉となって、読み手を新しい世界に連れて行くことがあります。みなさんもこれまでに、本の世界に深く潜りこんで、知らない学校の教室で親友を見つけたり、コンピュータの中で怪盗と戦ったり、人間が動物と話せた太古の世界で暮らしたりしたことがあるかもしれません。私たちが日々の生活に戻った後も、物語の世界で出会った彼らの息づかいを確かに感じられるのも、よくあることです。/そういう読書の楽しみは、物語を読む時にだけ訪れるものではありません。私たちの暮らす世界についての事実や考えを書いた本にも、読書の楽しみは存在します。本書では、物語ではないそのような文章を広く「ノンフィクション」と呼んでいます。そこには、人間と話せる犬や魔法使いは(今のところ)出てきませんが、同じように不思議と驚きに満ちた「物語」が隠れています。身近な植物の素晴らしい仕組み、一人では何もできないロボットの魅力、大震災に見舞われた時の肉親の死・・・・・・。これらの「物語」を旅するうちに、私たちはやはりそこに深く潜りこんで、動植物について、人間について、社会のあり方について、以前とは違う角度から深く出会い直すことができます。そして、その経験によって、今いる世界の見え方や感じ方がまるで変わってしまうことすらあるのです。」(『中高生のための文章読本』5ページ)

 『中高生のための文章読本』には、20編の「ノンフィクション」と、巻頭に長田弘の「世界は一冊の本」、巻末に文月悠光の「主人公」という詩が収められています。目次を眺めるだけでも魅力的なアンソロジーです。一つひとつの文章には、文章を再読しながら考えるきかけとなる「手引き」が設けられています。たとえば「キリン解剖記」(郡司芽久)はタイトルを見るだけで読まずにはいられない気持ちになりますが、「1 「頭を使って解剖する」(9816)とはどのようなことか、説明してみよう」「2 自分の体の一部や身の回りにある動植物、道具や部品など、何かを観察して、その形や仕組みを絵で描いたり、言葉で説明してみたりしてみよう。」という「手引き」が添えられています。「1」は「キリン解剖記」という文章を繰り返し読み直しながら「解剖する」という営みの本質を考えることにつながります。「2」は、ノンフィクションの文章を読む行為を、読者自身や自分の身の回りを理解する手立てにするものです。いずれもノンフィクションの文章と自分と自分を取り巻く事象を関わらせて、読者の作品をつくり出す営みです。

澤田さんたちはこの本を通して、「ノンフィクション」を読んで考えたこと、感じたことを述べ合う機会さえあれば、つまり、自分以外の読み手の、文字表現との関わり方を知る機会が設けられれば、「ノンフィクション」の文章を面白く読む可能性が増え、読む行為が豊かになるということを私たちに伝えています。この本の最後には、「一般的な見方や思い込みの揺さぶりを楽しむ」「逆説的発想を楽しむ」「見えないものが見えることを楽しむ」「複数の文章の関連を見つけて楽しむ」という「評論を楽しく付き合う4つのコツ」が提案されていますが、その一つひとつが、「これまでにもっている知識を修正して新しい知識を取り入れ」るための取り組みだと言っていいでしょう。読むことで揺さぶられ、もがき、考えて意味をつくり出す時間をもつことが何よりも大切で、生きることなのだと、『中高生のための文章読本』は私に語りかけてきます。このアンソロジーの一編一編を読むたびに、私のなかに未知の世界が広がっていくのです。フィクションが自己と世界を映す「鏡」だとすれば、ノンフィクションは、私が知らない世界をのぞき見る「窓」です。読者である私はその「窓」から見える世界についての自分の無知を知るのです。

0 件のコメント:

コメントを投稿