2022年1月22日土曜日

一冊の本を「私たちのもの」にする勇気

   昨年末にアザール・ナフィーシー著(市川恵里訳)『テヘランでロリータを読む』という本を読みました。もともと白水社から2006年に刊行されたものが、昨年11月に河出文庫に入ったのを近所の書店で目にしたのです。西加奈子さんの「解説 私たちのもの」を読むまで『i』(ポプラ社、2016年)にこの本のことが巧みに織り込まれていたことを忘れていました。

 文学を読む行為の意味を深く考察した、作家の自叙伝です。イラン革命後の1997年に米国に渡ったイラン人英文学者が、全体主義体制の国家で、禁じられた英語文学を学生と共に読む姿が、その時代のテヘランの日常生活とともに描かれます。たとえば次のようにフィクションのもつ力を描き出す言葉が鋭く綴られていくのです。

「あらゆるおとぎ話は目の前の限界を突破する可能性をあたえてくれる。そのため、ある意味では現実には否定されている自由をあたえてくれるといってもいい。どれほど過酷な現実を描いたものであろうと、すべての優れた小説の中には、人生のはかなさに対する生の肯定が、本質的な肯定がある。作者は現実を自分なりに語り直しつつ、新しい世界を創造することで、現実を支配するが、そこにこそ生の肯定がある。」(『テヘランでロリータを読む』83ページ)

「どれほど過酷な現実を描いたもの」でも「人生のはかなさ」に対する「本質的な肯定」があるというこの断言には励まされます。「作者」という存在が「現実を自分なりに語り直しつつ、新しい世界を創造することで、現実を支配する」存在だからこそ、彼女は物語行為が「生の肯定」になるということは、他ならぬこの自叙伝にも当てはまります。「小説」に限らないことなのかもしれません。ナフィーシーは自分自身の語る行為によって、そのことを証明してもいます。

 読み進めながら、これほど引用したくなる本も珍しいものです。しかも、要約ではなくて、本人の言葉をそのまま受け取り、ノートに書き留めたくなるのです。

「この小説は具体的な人間関係の話、ひとりの男の愛と、それを裏切る女の話です。しかしまた、これは富の話、富の大いなる魅力とその破壊的な力、富にともなう不注意という欠点の話でもあり、そして、そう、アメリカの夢、富と力の夢、デイジーの家とアメリカの玄関港に輝く魅惑的な灯の物語でもあります。そしてまた。ここには喪失が描かれ、夢が現実化と同時に崩壊しやすいことが描かれています。夢に憧れる心、その非現実性こそが、夢を純粋にするのです。」(『テヘランでロリータを読む』238ページ)

 ナフィーシーはフィッツジェラルドの『グレート・ギャッツビー』を金持ちの不道徳な話だと非難する学生「ミスター・ニヤージー」に向けて、この小説をこんなふうにまとめてみせます。そうしながら彼女は、フィクションの「非現実性」のもつ力を、痛快に思えるほど言葉にしてくれるのです。こうした言葉を書き写しながら、その思考をもトレースしたくなります。そういえば、この小説に登場する彼女の教え子たちは、彼女の言葉を自らのノートに見事に記しとどめていました。

 テヘランを後にする直前、ナフィーシーは彼女が「魔術師」と呼んできた男性のもとを訪れます。

「私はイスラーム共和国に教わったことを―オースティン、ジェイムズ、アイスクリームと自由への愛を教わったことを―感謝する本を書きたいという話をした。いまはそういうすべてをありがたく思うだけでは足りないの、そのことについて書きたいのよ。オースティンについて書くとしたら、僕らのことも、きみがオースティンを再発見したこの場所についても書かないわけにはいかないよ。僕らを頭から追い出すことはできない。やってみればわかるよ。きみの知っているオースティンはこの場所、この土地、この木々と分かちがたく結びついている。きみが昔フレンチ先生と―フレンチ先生だっけ?―読んだオースティンとはちがうだろう? それはここで読んだオースティンなんだ。映画の検閲官は盲目に近く、街頭で絞首刑が執行され、男女を隔離するために海に仕切りを設けるようなこの場所でね。」(『テヘランでロリータを読む』557ページ)

 ジェイン・オースティンの『高慢と偏見』も、ナフィーシーが学生と読んだ小説の一つでした。『テヘランでロリータを読む』という本を書くに至った経緯に触れるような一節です。「きみの知っているオースティンはこの場所、この土地、この木々と分かちがたく結びついている」という「魔術師」の言葉は、すべての読む行為にあてはまることです。だから彼女は「ここで読んだ」オースティンや、ナボコフや、フィッツジェラルドや、ブロンテについて書いたのでしょう。一緒に読んだ人々との記憶を書き留めながら。

 この引用の2文目までは彼女の言葉で、3文目からは「魔術師」の言葉です。語り手ナフィーシーの言葉と「魔術師」の言葉が入り交じっています。こんなふうに、この本の言葉そのものが彼女の言う「現実」の「語り直し」であることは確かです。「語り直し」によって「新しい世界を創造する」行為であることには間違いがありません。しかし、だからこそ語る現在における「私」が過去の自分の言動を整えながら、未来に向けて語り出すことができるのです。そうした将来に向けて語るという営みが誠実に為されているので、そのまま書き写したくなるのです。

『理解するってどういうこと?』第5章「もがくことを味わい楽しむ」に次のような一節がありました。

「毎日開かれる貴重な話し合いの場のひとつであるブッククラブを終えて、会場になったご近所の家から帰るときに、今日自分はみんなと同じ本を読んだのだったかしらと不思議に思うことがよくあります。年齢も、背景も、人生経験もさまざまに異なった女性たちは、一緒に読む本のページに極めて多彩な色彩を加え、私なら絶対に想像しなかったようなものの見方や、考えや、解釈を持ち込むのです。その本のなかで、もう自分がすっかり理解していると思っていた部分を意外な新しいレンズを通して読み直すことになります。そうすることによって、私はそれまでは少しも気付かなかった意味を発見するきっかけを、他のメンバーは私にくれるのです。みんなで読んでいる本について彼女たちがしっかり考えて発見したことの質と深さ、思いがけない解釈に私が驚いていることを話すと、彼女たちはあなただってまったく同じことをしてくれているのよと教えてくれます。これまでは彼女たちのためにそのことに名前をつけて呼ぶようなことはなかったのですが、これは優れた読み手・書き手になる領域に外なりません。この領域によって、私たちの一人ひとりが、一冊の本とその本が発しているさまざまなアイディアを、他の人のおかげで、より深く、より深く理解することができるようになるのです。」(『理解するってどういうこと?』180181ページ)

  ナフィーシーが語り直したテヘランでのことは、この「優れた読み手・書き手になる領域」をゆたかに深く営んだ記憶であり記録です。西加奈子さんの言葉を借りるなら、みんなで読んでいる一冊の本、一編の文章を「私たちのもの」にする勇気を伝えてくれるのです。それが私たちに託されたかけがえのない自由の領域であるということも。

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