以前にも引用したことのある部分ですが、『理解するってどういうこと?』の第9章には、ロバート・コールズの『ルビー・ブリッジス物語』(未邦訳)のヒロインであるルビー(黒人で初めて白人の学校に登校した女の子)をめぐる次のような一節があります。
待てと、私は自分に言い聞かせました。自分がいま話してはならないのです。
「ルビーにとっては、僕は未来に生きているんだけど、僕のお兄さんのようなよく知っている誰かは、ルビーの感じたことがわかるって思う。白人たちがルビーのことを嫌っているみたいなことね、時々黒人はまだ、うーん、よくわかんないけど、白人がね僕たちのような人みんなを、好きかどうか、うーん、ほんとに好きかどうか? 先生は?」
私にはわかりません。わかりっこないのです。一人の白人として、私にはぜったいにわかりません。私は心が張り裂けそうなのですが、これは私には理解不能な領域の共感なのです。私が共感したいと思ってみても、彼らが何を感じているのかと想像しようと努力してみても、レイモンドやデヴォンテやサマンサと同じように深く理解することはけっしてできないのです。(『理解するってどういうこと?』354~355ページ)
フレディみかこさんは、近著『他者の靴を履く―アナ―キック・エンパシーのすすめ―』(文藝春秋、2021年6月)で「エンパシー」(『理解するってどういうこと?』では「共感」と訳しています)をいくつかのカテゴリーに分けて述べていますが、そのうちの一つ「コグニティヴ・シンパシー」に次のような一節があります。
23歳で獄死した金子文子という歌人のエピソードです。短い生涯のなかで激しく強く生きたひとのようですが、フレディさんが取り上げる彼女の歌のなかに、囚人の立場から「女看守」が食事に「めざし」をあぶっている姿を描きながら、その暮らしが「楽にはあるまじ」(きっと楽であろうはずがない)と詠んだものがあります。これはとてもできないはずのことです(「わかりっこない」ですが、金子文子の女看守に向けたまなざしの強さを「心で感じる」ことはできます)。フレディさんははじめそれが金子文子の「やさしさ」のゆえだと考えていたそうですが、「後になってこれこそがエンパシーなんじゃないかと考えるようになった」と書いています(そう書いているフレディさん自身のエンパシー能力もきわめて強いと思います)。そして金子文子が「self-governed(自らが自らを統治する)」を目指した生き方をした「自由」な人であり、「世間一般の「belonging(所属)」の感覚」から外れて生きていたがゆえに(「アナーキスト」として生きたがゆえに)、「他者としての存在を認め、その人のことを想像してみること」ができたのだとしています。
フレディさんはこうした「エンパシー」を「アナ―キック・エンパシー」と名づけています。「他者の靴を履く」ための大切な条件が自己統治と「所属」からの「自由」であるという考えからの命名だと思います。エリンさんの言う「理解不能な領域の共感」もまた「自分とは違うもの、自分は受け入れられない性質のものでも、他者として存在を認め、その人のことを想像してみること」によって可能になるという意味で「アナ―キック・エンパシー」と多くの共通点をもつのではないでしょうか。
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