2021年7月17日土曜日

「ヒトの言葉」と「機械の言葉」との共生

「私たちは本当に「意味」が分かっているのか」「「理解する」とは、「意味」とは、「コミュニケーション」とは、「知性」とは――」「AIは本気で「人類を滅ぼす」と言っている? 「コンピュータはまだ「忖度」できない?」「「絶対に押すなよ!」を「押せ」と解釈できる?」「ロボットと「口約束」ができる日はくるのか・・・・・・」等々、川添愛さんの『ヒトの言葉 機械の言葉―「人工知能と話す」以前の言語学―』(角川新書、2021年)という本の帯にはこうした言葉が並んでいました。

この本では「今の「機械の言葉」に関わる問題点」のいくつかを指摘しながら、「今後、まるでドラえもんや鉄腕アトムのように巧みに言葉を操る機械が現れたとき、それが私たちと同じように言葉を理解していると言っていいのかなどといった問題」が扱われていました。現実に、スマホに向けて質問するだけで望んでいる情報を手に入れることができる世の中です。しかし、スマホは言葉を理解していると言えるのか?

川添さんは本書の終わりの方で次のように言っています。 

私たちが「必ずしも人間と同じ仕方でなくても、機械が言葉を理解することはあり得る」と言いたくなるとき、それによって私たちが「本当に主張したいこと」はなんでしょうか? 私は、それは「この機械は人間と同じように言葉を理解しているわけではないが、十分に実用的だ」とか、「この機械の言葉の扱い方は十分に信頼できる」などといったことではないかと思います。つまり、「機械が言葉を理解している」という表現を、以下の①の意味ではなく、②の意味で使いたい、ということだと思うのです。

① 機械が私たち人間と完全に同じ仕方で言葉を理解している。

② 機械による言葉の扱いが、実用的な面から見て十分に信頼できる。

(『ヒトの言葉 機械の言葉』244245ページ)

 

 川添さんによれば①のことはすぐには実現がむずかしいとのことです(本書を読んでいただければその理由がよくわかります)。しかし、私たちがAI研究に期待するのは②の方でないかと述べた後で川添さんは次のように言っています。 

 「理解する」という言葉は、つきつめて考えると非常にあやふやではあるものの、私たち人間にとってはかなり強い実感を伴って受け止められる言葉です。誰かが「この機械は言葉を理解している」と言うのを聞いた場合、誰でも最初に思い浮かべるのは①の「人間と同じ理解」の方でしょう。

 問題は、②のつもりで言った言葉が①の意味で受け止められることで、何か不都合が生じないかということです。①か②かをはっきりさせないまま「機械による言語理解の達成」が喧伝されることは、過剰な期待や恐怖を煽るでしょうし、もし技術の面で実体が伴っていなければ、AI研究に対する失望や過小評価にもつながります。これは、過去のAI研究の歴史においてもたびたび繰り返されたことでもあります。

                                                          (『ヒトの言葉 機械の言葉』246ページ)

 

ではそのような誤解を避けるためにはどうすればいいか。川添さんは「実用的に問題がないレベルの言語理解とはどういうものか、その定義を明確にしておくことは大切かもしれない」と言っています。

これは「機械の言葉」の問題である以上に「ヒトの言葉」の問題です。いや「理解する」ことについてのきわめて重要な問いであるように思えます。私たちの「言語理解」においても、「実用的な面から見て十分に信頼できる」ことが大切だといいながら優れた読み手・書き手と同じ仕方での言語理解の達成がすべて、と考えがちなのではないでしょうか? むしろ「実用に問題がないレベルの言語理解」とはどういうものかが不問にされがちです。むしろモデルとなる言語理解の姿をカヴァーし、記憶すること、復誦することが言語理解のすべてと考えることはないでしょうか。

『理解するってどういうこと?』の第5章「もがくことを味わい楽しむ」には「人が効果的に読み、書き、話し、聞く際に使う6つの領域」が提示されています(166167ページ)。「表面的な認識方法」として「文字と音声の領域」「語彙の領域」「構文の領域」、「深い認識方法」として「意味づけの領域」「関連づけの領域」「優れた読み手・書き手になる領域」の「6つの領域」が示されていますが、川添さんの言う「実用に問題がないレベルの言語理解」とはこの「6つの領域」をバラバラに切り離さないで使いこなすことだと考えることができます。すなわち「自分の生活や、他の本や文章や、自らの体験や知識との結びつき」(『理解するってどういうこと?』178ページ)を重んじることです。

たとえば「深い認識方法」の「関連づけの領域」では優れた読み手の使う理解するための7つの方法によって強化されるとエリンさんは言っていますが、その目的地は次のように表現されています。

 

1 自立的に使いこなせる―教師の支援を受けないで、理解のための7つの方法を使うことを学ぶ。

2 柔軟に使いこなせる―理解のための7つの方法を、本や文章に応じて、すべてを使うか、いくつかを選んで使うか、まったく使わないか、判断しながら使うことができる。

3 状況に合わせて使いこなせる―読もうとする本や文章にぴったり合った方法を選んで、その方法を目的をもって使うことができる。

(『理解するってどういうこと?』179ページ)

 

理解することを学ぶことは、このようなことを目指して「もがく」ことだと考えることができます。そうなると「機械が私たち人間と完全に同じ仕方で言葉を理解している」ということは川添さんが本書で解き明かしているようにきわめて遠いゴールのようにも思われます(私自身がAI研究に詳しくないことを差し引いても)。しかし、ヒトが、自立的に、柔軟に、状況に合わせて、理解のための方法を「使いこなせる」ようになり、もがきながら理解の成果を手に入れる道筋で、「実用的な面から見て十分に信頼できる」ような「言葉の扱い」をする「機械」と共生する道を考えることができるなら、幸いなことだと思います。「ヒトの言葉」だけでは見ることのできなかった「理解する」風景を手に入れることができるのかもしれません。

 

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