2019年1月25日金曜日

身体でわかる読み方


 作家や評論家が読んで面白かった本などを書評した本を時々読みます。そこで紹介されていた本を書店や図書館で探し出して読むのは、読書の楽しみの一つです。自分では絶対に手に取らないような分野の本と巡り会えるのは、大きな喜びですね。良質のブックトークを読んでいるようなものです。そして良質のブックトークがそうであるように、本の紹介本なのに知的な興奮にいざなってくれたり、大切な言葉に出会ったりすることも少なくありません。

 昨年末に新書化された、内田樹『街場の読書論』(潮出版社, 2018年:太田出版, 2012年)はそういう本です。読み始めてすぐ、次のような言葉に出会います。読書における本の世界との出会い方を述べた言葉です。



小説を読むというのは(哲学でも同じかもしれないけれど)、別の時代の、別の国の、年齢も性別も宗教も言語も美意識も価値観も違う、別の人間の内側に入り込んで、その人の身体と意識を通じて、未知の世界を経験することだと私は思っている。(『街場の読書論』23ページ)



『街場の読書論』というタイトルのとおり、このようなくだりには内田さんの読書観が端的に述べられています。「未知の世界」を「身体と意識」を通して経験するのが小説の読みだという考え方に惹かれます。またケストナー『飛ぶ教室』の読書体験に触れたつぎのような言葉も「身体」と「意識」を使う読書行為についてのもの。



「内面」というのは、時間をかけて熟成さえてゆくことで言語化されるのだということを私が学んだのは、現実の年長者からではなくて、このドイツ人作家が描き出した少年たちの像を通じてであった。(『街場の読書論』27-28ページ)



 内田さんが「内面」といっているのは、悲しみや羨望や怒りや軽蔑があらわれる「心の中」のことをあらわしていますが、『飛ぶ教室』を読んで登場人物像をつくり出すなかで、それがどのようにうまれるのかということの「学び」を行ったということです。人は幼い時になぜ物語や小説を読む必要があるのか、という問いへの一つの回答ですね。

 内田さんの本の真骨頂は、良質のブックトークが本の紹介やライターの紹介を超えて、私たちの認識の仕方に触れてくるところにあります。脳科学者の講演の感想から、次のような言葉が出てくるのです。



昔、学生院生たちがよく読書会というのをやっていた。彼らはちょっとずつ頁を進めながら、これはいったいどういう意味なのであろうかと話し合い、これはどういう学説史の中に位置づけられるのであろうか、というようなことを論じ合っていた。

 あのさ、読むのはいいけれど、使ってみないと、どうしてその人がそんな本を書いたのか、その意味はいつまでもわからないよ、と私は彼らに申し上げたことがある。

 自転車に乗るのといっしょである。

 みんなで集まって、何日も何週間も自転車の部品をぴかぴかに磨いたり、設計図を眺めたり、「自転車の歴史」という本を読んで、自転車がこのような携帯をとるに至った歴史的進化のプロセスを勉強したりしても、自転車が何をするためのものかはわからない。

 それよりも「乗る」方が先でしょ。まず飛び乗って、走ってみる。(『街場の読書論』91-92ページ)



 乗って、走って、わかってきたら「自作」すればいいと内田さんは言います(ここでも「身体」の感覚が重んじられています。内田さんの思考の重要な特徴だと思います)。そして「学問というのは、そういう生成的なプロセスである」とまとめるのです。一見、「学問」論にも聞こえますが、内田さんのいう「生成的なプロセス」はまさに「わかる」過程です。理解する過程のことを言っているのだと私は捉えました。その「だんだんわかってくる」プロセスの成果として「自作」されたものは、『理解するってどういうこと?』でくわしく説明されている「理解の種類とその成果」のことを言っていると思います。

 『街場の読書論』は、読書についての本、本についての本ではありますが、このように本内容の紹介本でありません。いや、もちろん内田さんの取り上げている本の多くを読んでみたいと私は思いました。が、それ以上に感心(というか羨望)するのは、読んだ本や聞いた話から内田さんが選択するエピソードの秀逸さです。内田さんにとってその本がどういう意味を持っていたのかということが、その本のなかからどの部分が選ばれ、どこが捨てられているかということから、見えてくる(気がする)のです。

部分部分に書かれていたことを、少しずつ語り直しても、それは要約にしかなりません。本を読み終えただけでは、いつか内容を忘れてしまいます。それでは読んだことが自分の歴史として刻まれません。どのようなかたちでもいいから読んだ本のどこかを選び取って誰かに向けて語ること、できればそれを身体と意識を通して行うこと、その営みが読者自身の思考をつくっていくのだということをこの本から学びました。それは、身体を使って思考をつくる本の読み方です。『街場の読書論』の読書体験のなかで私はそういう優れた読者の読みのモデルを目の当たりにしたのです。身体でわかる読み方の神髄を垣間見た思いです。

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