2018年12月21日金曜日

「考えること」としての「哲学対話」




 「哲学対話」という言葉に出会ったのは、永井均著・内田かずひろ絵『子どものための哲学対話』(講談社、1997年)でした。とても面白かったので当時編修にタッチしていた中学校国語教科書に、そのなかの一節を教材として推薦して、しばらく掲載されていたことがあります。「言葉の意味は誰が決める?」という、猫の「ペネロペ」と「ぼく」との対話で進む文章でした。永井さんの軽妙な文体による、二人(一匹と一人?)のやりとりを読み進めながら、読み手のわたくしは「ぼく」とともにペネロペの問いに深く考え込んでいました。

 永井さんの本は「読む「哲学対話」」と言っていいものでしたが、その「哲学対話」を実践している人の本を手にしました。梶谷真司『考えるとはどういうことか―0歳から100歳までの哲学入門―』(幻冬舎新書、2018年)です。もちろんわたくしは「哲学」をきちんと学んだことはありません。本でいくつかを読みかじっているだけです。「哲学」とは何かなどわかっていません。だから梶谷さんの次のような言葉に出会ってほっとしました。



私たちは、「問う」ことではじめて「考える」ことを開始する。思考は疑問によって動き出すのだ。だが、ただ頭の中でグルグル考えていても、ぼんやりした想念が浮かんでは消えるだけである。だから「語る」ことが必要になる。きちんと言葉にして語ることで、考えていることが明確になる。そしてさらに問い、考え、語る。これを繰り返すと、思考は哲学的になっていく。(3233ページ)



 ほっとしました、なんて言いましたが、実はこれはとてもきびしいことなのかもしれません。考えることは苦しい? そう思っているのなら。しかし「語る」ことで「考えていることが明確になる」のなら、苦しいことではないでしょう。むしろ楽しくなっていくのではないでしょうか。「もがく」ことは理解の種類の一つだと『理解するってどういうこと?』のなかで、エリンさんが言っていたことと同じです。

 著者が「哲学対話」をするときにいつも掲げるルールとは次のようなものです。



 ①何を言ってもいい。

 ②人の言うことに対して否定的な態度をとらない。

 ③発言せず、ただ聞いているだけでもいい。

 ④お互いに問いかけるようにする。

 ⑤知識ではなく、自分の経験にそくして話す。

 ⑥話がまとまらなくてもいい。

 ⑦意見が変わってもいい。

 ⑧分からなくなってもいい。 



 一つひとつについては、梶谷さんの本に丁寧に述べられているので、そちらを読んでください。一つだけ、「対話」するために「聞くこと」がいかに重要かということについて。



 「聞く」というのは、対話への立派な参加である。(中略)それどころか、聞いていることじたいが、対話にとって決定的に重要である。そらが対話を対話たらしめる。問い、考えたことは、聞いてもらえるからこそ語れる。だから人の話をじっと聞く、うなずく、あるいは首をかしげる、驚く、笑う。そんな反応のすべてが対話を動かしていく。だから「聞く」というのは、それじたいが参加なのである。(58ページ)



 梶谷さんが掲げた八つのルールは、「対話」を進めようとするとき、「対話」によって思考を深めようとするときに、すべてが有効に働きます。「対話」するための条件をわかりやすい言葉にしたものと捉えてもいい。そしてまた、それらは「理解」するための条件でもあると考えることができるでしょう。梶谷さんは次のようなことも言っています。



 世間の常識や他人の意向に合わせて話すことは、「他者に対して語る」ということとは、まったく違う。そもそも語ることは、明に暗に、つねに誰かに対して語ることである。つまり、語る相手=他者が存在する。これは、まったく当たり前のように思えるだろうが、相手を意識することは、それほど簡単なことではない。/ 実際、世の中には誰に向けたか分からない言葉が実に多い。とくに書かれた言葉は、目の前に相手がいないせいか、読み手を意識しない文章が巷にはびこっている。(148149ページ)



 「他者に対して語る」ことを意識しないから、「誰に向けたか分からない言葉」が蔓延するという指摘は鋭く厳しいものです。言葉の使う時に自分の頭のなかを省みずにはおられません。「他者に対して語る」からこそ、言葉も吟味するのですね。そして「子どもと対話する意義」を次のように考察しています。



 また、子ども―とくに小学生以下―を相手に話す場合、自分が使う言葉についておのずと意識的になる。専門用語はもちろんのこと、大人が普段使っている言葉の大半が使えなくなるからだ。/ そのため自分が使おうとすることの意味をあらためて考え、自分が理解している(と思っている)ことを確かめなければいけない。それを子どもでも分かるようなやさしい表現で話さなければいけなくなる。そのさいたしかに厳密さは犠牲になるだろうが、言わんとすることの核心が何かは、むしろはっきりする。(159160ページ)



 本書はこんなふうに納得のいく主張で満たされています。「子どもでも分かるようなやさしい表現」で語り直してみると、自分が何を言いたかったかということが、自分自身に見えてくると教る一節です。それは、自分のことと相手のことを考えながら、言葉を愛おしむように使うことなのだと、梶谷さんの言葉を反芻しながら強く思いました。



 


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