熱烈に学ぶ、沈黙を使って深く耳をすます、もがくことを味わい楽しむ、ルネサンスの画家や思想家のように考える、思考を変化させる、夢中で対話する、感情と結び付けて記憶する・・・・・・これらは、エリン・オリヴァー・キーンさんが探り出した「理解する(わかる)」ことの種類です。『理解するってどういうこと?』のなかにはこうした「理解の種類」のモデルとしての作家や画家たちのエピソードがたくさん示されています。
画家や作家の人生そのものを題材にした小説は、必ずと言っていいほど「理解する」ことに関わってきます。『暗幕のゲルニカ』や『楽園のカンヴァス』(ともに、新潮文庫)を手始めに、原田マハさんの小説にはまりかけて、次の一冊を探して手にしたのが『奇跡の人The Miracle Worker』(小学館文庫)という小説。聞き覚えのあるタイトルだなと思って読み始めました。舞台は明治20年、青森県弘前。見ることも聞くこともできない少女介良れん(けら・れん)とその教師であった去場安(さりば・あん)、そして狼野キワ(おいの・きわ)という盲目の三味線の名手の三人が中心となって展開する物語です。
ここまで書くとだいたいおわかりでしょうが、『奇跡の人The Miracle Worker』は、ヘレン・ケラー『奇跡の人 ヘレン・ケラー自伝』(小倉慶郎訳、新潮文庫)のアダプテーション(翻案)と言っていい小説です。れんに言葉を教え、思考し、表現する人になるための学びをさせるための、筆舌に尽くしがたい、すさまじい安の意思と行動に引き込まれるようにして『奇跡の人The Miracle Worker』を読み終えました。見えないこと、聞こえないことを克服したれん以上に、その教師である去場安その人が「奇跡の人」にほかならないと思えました。
そこで、本家(?)の『奇跡の人』はどうなっていただろうかと思い、ヘレン・ケラーのこの自伝を再読してみたのです。自伝ですから、ヘレンがサリバン先生とのやりとりを回想しています。第6章に「愛って何?」というヘレンの問いかけにサリバン先生が答えるエピソードがあります。
「愛というのは、いま太陽が顔を出す前に空を覆っていた雲のようなものなのよ」これだけでは、当時の私には理解できなかった。そこでやさしくかみ砕いて、サリバン先生は説明を続けた。
「雲にさわることはできないでしょう? それでも雨が降ってくるのはわかるし、善い日には、花も乾いた大地も雨を喜んでいるのがわかるでしょう? それと愛は同じなのよ。愛も手で触れることはできません。だけど、愛が注がれる時のやさしさを感じることはできます。愛があるから、喜びが湧いてくるし、遊びたい気持ちも起きるのよ」
その瞬間、美しい真理が、私の脳裏にひらいめいた――私の心とほかの人の心は、見えない糸で結ばれているのだ、と。(ヘレン・ケラー『奇跡の人』44-45ページ)
今更と思われるかもしれませんが、ヘレンケラーの『奇跡の人』の一節。見ることも聞くこともできなかったヘレンが、「愛」が目に見えないことを悟って、人と人との間に「見えない糸」があることを知るというエピソードです。「その瞬間、美しい真理が、私の脳裏にひらめいた――私の心とほかの人の心は、見えない糸で結ばれているのだ、と」というくだりは、原文では「The beautiful truth burst upon my mind――I felt that there were invisible lines stretched between my spirit
and the spirits of others.」となっています。見えないはずのヘレンが「見えない糸invisible line」という言葉を使っているのです(素朴に、ちょっとびっくりしてしまいました)。このinvisible linesが「愛」だと、ヘレンは知ったのです。
サリバン先生の「愛というのは、いま太陽が顔を出す前に空を覆っていた雲のようなものなのよ」という比喩を、悲しいかな、見える人の一人であるわたくしはすんなりと理解できませんでした。「雲」は太陽の光を阻むもののはずなのに、どうして「愛」の比喩になるのだろうか、と。むしろ世の中を隈無く照らす太陽の方が「愛」に似つかわしいのではないか、と。ヘレンが見えない人であることをすっかり忘れていました。
サリバン先生は「触れること」なら出来るヘレンのために、「触れることのできないもの」としての雲の比喩を使って、愛とは何に似ているものか、をヘレンに伝え、考えさせようとしたのです。「雲」は具体的なモノだけれども触れることはできないものですが、このサリバン先生の機知によって、見ることのできないヘレンにとっては、目に見えない抽象概念としての「愛」とは何かを考える手がかりになったのです。相手が「わかる」ために必要なコンテキスト(状況、条件)を、相手の身になって考え抜いたからこそ生まれた比喩です。invisibleとは「見えない」という意味の形容詞ですが、ヘレンはuntouchable(触ることのできない)な対象としての「雲」からの類推で、この語彙まで獲得したということになります。「私の心とほかの人の心は、見えない糸で結ばれている」という「美しい真理」がヘレンの脳裏に「ひらいめいた」というのは、ヘレンが「愛」とは何かを理解したしるしだと言っていいでしょう。
サリバン先生の「理解の種類」(相手が「わかる」ために必要なコンテキスト(状況、条件)を、相手の身になって考え抜く)が、ヘレンに「愛」とは「私の心とほかの人の心」が「見えない糸で結ばれている」という「理解の成果」(発見)をもたらしたのです。原田マハさんの描く「去場安」は、相手が「わかる」ために必要なコンテキスト(状況、条件)を、相手の身になって考え抜くという「理解の種類」を徹底して行った人物として造型されています。あきらめずに、自分の心とれんの心と間に「見えない糸」を結び、わかろうとする「愛」を貫いた人物として。
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