「パンダ読み」も「レインボー読み」も、日本での小学校の教室から生まれた言葉です。どちらも、同時進行で、複数のものを読むときの状態を示しています。複数の本を同時進行で読むことから、白と黒が代わりばんこに出てくることにたとえて「パンダ読み」、虹色みたいに様々な楽しさを味わうから「レインボー読み」と呼ばれることになりました。『読書家の時間』(新評論、2014年)の61-63ページでは、こういう読み方が、読書生活をつくるミニ・レッスンとして紹介されています。先生は、例えば、軽い本は鞄の中に入れて電車の中で読む、重たい本は枕元に置いて寝る前に少しずつ読む等、現在読んでいる3冊に関して、読む時間や場所を分けていることを説明しています。その説明には納得ですし、読書を日常生活に取り入れる、とてもいいモデルだと思います。
私も、いつも「パンダ読み」/「レインボー読み」をしています。日常の一部ですし、その現実的な価値も実感しているので、つい最近まで何の疑問も感じませんでした。
でも、ある先生のコメントがきっかけで、「パンダ読み」/「レインボー読み」をしている「中身」の組み合わせには注意が必要ではないかと思い始めています。
教室の実践が紹介されている本で、昨日、持って帰った本を忘れてきた子が、他の厚めの本を読もうとしていたら、教師が、それをやめさせて、その日の授業中に読み終わるような短編を読ませる、という場面がありました。
その場面を読んだある先生が「僕の授業でも本を忘れてくる生徒はけっこういるので、この先生の対応が気になりました。(自宅に本を忘れてきたら、その日のリーディング・ワークショップで読むのは)今日1日で完結する短編でないとダメということ?」とコメントされました。
このコメントがなければ、私は、すっとそのまま通りすぎていた箇所だと思いますし、パンダ読みやレインボー読みを再考することもなかったと思います。
レインボー読みをよく行う私は、「読まなければいけない」ものが複数たまってくると、こっちの本に疲れてきたら、あっちの本を少し読んでと、いったりきたりしながら、自分の体調や時間に合わせて、選択したりもします。細切れの時間で軽く読めるもの、じっくり読むもの等々を分けるのは、現実として必要なスキルだと思います。
でも、レインボー読みから切り離された読書時間があります。それがいわゆる読みのフロー状態に入っている時間です。2017年4月10日のRWWW便りで、リーディングのフロー状態に入ってしまい、面白くてやめることができず、どうしても本を閉じることができず、これでは夜更かししてしまうので「まずい!」と思ったときのことを書いています。リーディングのフロー状態に入ると、他のものを同時進行で読むなんて考えられず、フロー状態中は、「パンダ読み」/「レインボー読み」をする余地は、私の場合はありません。
一度に一気に読めなければ、その続きを読むまでに、他のものをいろいろ読む(仕事上や書類を書く上で読まなければいけないものも含めて)と思います。でも、読み終わる前に、同じようなレベルでフロー状態に入れる可能性のある他の本を読み始めることは、私の場合、まずありません。単純に、その1冊を早く読みたくて仕方ないからですが、どこかで、そういう同質のもの二つのパンダ読みは両立しにくい、と感じているのかもしれません。名作映画を2本同時に、1時間ずつ区切って、みるようなことはしたくないのです。
読み手もそれぞれなので、歴史小説とサイエンス・フィクションを1章ずつ同時進行で読み、読んでいる間はすっぽり、それぞれの本の世界に入れる人もいると思います。
でも、まだ読むことの経験があまりない読み手が、昨日読みはじめた本を自宅に忘れてきたら、同じぐらい読み応えのある本を新たに読み始めないようにして、すぐに読み終わる短編にするように助言することは、「あり」だと思います。それは、まずは1冊でのフロー状態の質を確保し、その本をできるだけ邪魔されずに味わう経験を重視しているからだと思います。
1冊の本にすっぽりひき込まれるような経験を積み重ねることを優先するなかで、パンダ読みやレインポー読みに含まれる本の組み合わせも、上手になっていくように思います。複数読むのは必要なスキルですが、その組み合わせは少し注意が必要かもとも思い始めています。
1冊の本にすっぽりひき込まれるような経験を積み重ねることを優先するなかで、パンダ読みやレインポー読みに含まれる本の組み合わせも、上手になっていくように思います。複数読むのは必要なスキルですが、その組み合わせは少し注意が必要かもとも思い始めています。
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