先日、『セオリー・オブ・ナレッジ―世界が認めた『知の理論』―』(Sue Bastian, Julian Kitching, Ric Sims著 一部抜粋 大山智子訳 後藤健夫編 対談 津田和男/島野雅俊 鼎談 福島浩介/ダッタ・シャミ、日販アイ・ピー・エス、2016年1月)という本が届きました。本を届けてくださった福島浩介さんは、私の大学の後輩ですが、この本の「鼎談」のなかで「TOK(Theory of Knowledge:知の理論)」の授業について次のように言っています。
TOKの授業で、どうして勉強するのだろうか、あるいは、わかるということはどういうことだろうか。他人から答えをもらうのではなくて、自分の中に答えを探す、あるいは自分の中に答えはないから友達と話して考える。さらに、本を読んだり、本の内容とつき合わせたりして、いまここにあったAとBとをグシャッと混ぜてみたらDができたというようなことが、TOKという授業でもいいし、TOKという理念を取り入れた教科・科目の授業でもいいけれど、それができたならば、それは、もしかしたら学校で生まれるいろいろな問題を解決するかもしれません。「道徳」の授業を超えてしまう。(『セオリー・オブ・ナレッジ』168ページ)
そして「知ることはどういうことか、なぜ学ぶのか、それらを問うていくうちに、クリティカル・シンキングだけではなく、自分のアイデンティティを見つめることになり、これからの自分の未来を想像する、見つめることになる」ことによって「一面的な見方をしない」ことになり、「あいつはキモい、攻撃しろ」などという発想は浮かびようがなくなるとも言ってもいます。まさしく「知の理論」のもたらす大きな効果でしょう。おそらくそれは、前世紀の終わり頃に、バリー・サンダースが『本が死ぬところ暴力が生まれる―電子メディア時代における人間性の崩壊』(杉本卓訳、新曜社、1998年)で、読み書きすることがなくなれば人は「一面的な見方」でしか対象を捉えなくなり、「暴力」が世界を席巻するという見方を示したのと同じです。「知の理論」とは、福島さんが言っているように学校や世界の「いろいろな問題を解決する」ためのリテラシーのことだからです。
『セオリー・オブ・ナレッジ』は、「第1部 国際標準を教えるフロンティア」「第2部 セオリー・オブ・ナレッジ:TOKとは」「第3部 「知の理論」を日本で教える」の三部構成の本です。第1部の対談では、TOKが必要となる背景が津田・島田・後藤三氏の対談でわかりやすく語られ、第2部にはTOKのエッセンスが、大山智子さんのこなれた訳文でわかりやすく示されています。先ほどの福島さんの発言はダッタ・シャミさん・後藤健夫さんとの鼎談での対話のなかで引き出されたものです。対話のなかで引き出されたその場での思考の重要性を、TOKの授業が重視するということを、この鼎談とその記録が図らずも示しています(もちろん、既に活字になっているのですから、その場の言葉そのものではないのでしょうが)。TOKとは何かということを具体的に知ろうとするなら、この本の第2部を通読することです。第2部は「第1章 TOK概要」「第2章 知るための方法」「第3章 知識の領域」の3章で構成されていますが、先ほども書きましたように、福島さんの発言を踏まえて、私はTOK(知の理論)が〈世界を生きるためのリテラシー〉だと捉えましたので、第2章の「知るための方法」が第2部というだけでなく本書の心臓部だと考えました。そして、この、「言語」「知覚」「理性」「感情」「直観」「記憶」「想像」「信仰」という8つの「知るための方法」のそれぞれは、TOK(知の理論)が国際バカロレア校(IB校)のディプロマプログラムの一部であることを超えて、〈世界を生きるためのリテラシー〉を身につけるためのすべての教育に共通するものである(となるように、教育に携わる者が目指さなければならない)と考えます。
ここのところで本書は『理解するってどういうこと?』と重なって見えてきます。なぜなら、本書の心臓部である第2部で詳述されている「知るための方法」は、まさしくエリンさんの言う「さまざまな理解の種類とその成果」だと思えるからです。たとえば「知るための方法」としての「記憶」という節があります。「記憶」がほんとうに多面的・多角的に掘り下げられていますが、その記述を読み進めると「記憶」が人間と世界を理解するための大切な方法にほかならないということが実感されます。いおや、記憶することそのものが理解の種類に他ならないのです。そしてその成果を実感するために「挑戦してみよう」や「演習」が織り込まれています。しかもそこに答えなど示されていません。答えは自分の頭のなかや友達との対話でしっかり考えて発見していくほかないことだからです。それが自分のつかんだinsightsだというわけなのでしょう。そしてそれは、『理解するってどういうこと?』の最後の第9章「感じるために、記憶するために、理解するために」で、エリンさんが高校2年生になったジャミカ(小学校2年生の時に、エリンさんに「わかるってどういうことか教えてくれたことはなかった」と言い放って、『理解するってどういうこと?』の執筆動機になったジャミカです)に対して語りかけるように書いている、印象的な論述と、それは響き合うものです。
ジャミカ、理解するということは記憶するということよ。理解するということは、長い間一つのアイディアをじっくりと考え続けるということよ。つまり、自分の頭のなかにそのアイディアを置き続けて、自分の一部になるまで何度も繰り返しそれを考えることよ。それは一つのアイディアを理解するために自分から喜んで懸命に取り組んで、たとえはじめはそれをわからなくても、知ろうとしてあらゆる努力をしてわかろうとすることなの。だから他の人と話して、たくさん読んで、読み直して、あなたが答えを持っていそうだなと思う人に尋ねて、さらに考え続けて、それがしっかりと理解できたと納得するまで考えることよ。(『理解するってどういうこと?』356~357ページ)
エリンさんのこうした言葉が先ほどの福島さんの言葉と重なって見えてならないのは、きっと二人の志が同じ方向を向いているからです。
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