WWとRWの教師は、観察をとても大切にしています。
書き手にも、観察は不可欠です。 読み手にとっては?
その観察がらみで、2冊のおもしろい本を読んだので紹介します。
1冊目は、『ピーター・ラビットの野帳(フィールドノート)』
本は、ピーター・ラビットの作者のビアトリクス・ポターが残したフィールドノートを紹介した本です。(彼女は、時代が違えば、生物学者=植物学者になっていてもおかしくない人でした! というか、下でわかるように普通の郵便配達夫が植物学者だった時代に彼女は生きていたのかもしれません。)
「訳者まえがき」には、「細密で、美しく、描くことの才能に満ちた作品群であった。美しい細密画は、正しくすぐれた観察眼なくして成立し得ない。観察眼は見るだけの力ではない、解釈し、理解する力を伴わなければならない」と書いてありました。
そして、「解説」には、「彼女に限らず、実際に自然を観察するナチュラリストたちは、じっくり時間をかけ、観察することで、疑問を抱き、その解答を得ようと観察を続ける。不思議は不思議を生むのである。そして観察は、小さいけれども答えをほのめかしてくれる。これは実際に観察を行い、実験を繰り返したものでなければわからない喜びであろう。そこには専門家とか、身分とか、男女だとか、貧富の差だとかは関係がない。あるのは観察する力、不思議を抱く好奇心、じっくり結果を考える時間、結果からさらに新たな方向を推察する力、そして自然の歩みのゆっくりさに耐えられる忍耐力を持っていることである」とあります。まさに、探究のサイクルを回し続けている、といえないでしょうか。
さらに、ポターは日記をつけていたのですが、その中には以下のような一節が書かれていたそうです。ちなみに、郵便配達夫のチャールズ・マッキントッシュが、彼女のキノコ観察の先生でした。「(チャールズの)後任の郵便配達夫は三輪車を持っていたので(チャールズのように歩き続け)足を痛くすることはなかったかもしれないが、近代生活や便利な機械というものは、個性とか自然誌研究には縁のないものだ。スコットランドの田舎の郵便配達夫といえば、ほとんど例外なく何らかの学問に優れている。たぶん、それは長時間にわたる孤独な思索と観察がもたらした結果なのだろう」(本書、196ページ)
物事を見る力があることが伝わってきますね!
さらに言えば、モータリーゼーション等の社会のスピード化が物事を見えなくしている(=孤独な思索と観察をさせなくしている)原因にもなっているようです。これは、まずいですね。
社会自体がおかしくなっていくのが、うなずけてしまいます。(うなずくだけでは、それこそまずいのですが!!)
さらに言えば、モータリーゼーション等の社会のスピード化が物事を見えなくしている(=孤独な思索と観察をさせなくしている)原因にもなっているようです。これは、まずいですね。
社会自体がおかしくなっていくのが、うなずけてしまいます。(うなずくだけでは、それこそまずいのですが!!)
もう一冊は、イタリア人のデザイナー、ブルーノ・ムナーリの『木をかこう』です。こちらは、図工・美術の方により適しているかもしれませんが、見方によっては、観察の大切さも教えてくれる本です。同じシリーズで『太陽をかこう』もあります。
「たかが木(太陽)ですが、されど木(太陽)」です。
そして、これが他のいろいろなものに適応できることに気づけたら・・・
大切なおまけ:
・ 「見ること」と「観察すること」の違いは?
・ 観察する時にしていることをリストアップしてみてください。
・
書く時、描く時、考える時には、観察することは欠かせないと思います。それら以外で観察することが欠かせない時は?
・
少なくとも、教える時は必ず使いますね。でも、従来の作文指導や読解指導の時に使う「観察」と、WWやRWの時に使う「観察」とは質と量の両面で大分違います。その結果がもたらすものは?
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