さて、今日のタイトルは、「書き手の思い、書き手らしさが伝わってくる声」です。
このタイトルの英語は、voice ですが、それを「声」とだけ訳してもなんだか分かりにくいので、私としては、「書き手の思い、書き手らしさが伝わってくる声」と、少し言葉を補って考えています。
「書き手の思い、書き手らしさが伝わってくる声」について、ここしばらく考えていましたが、それには二つの理由があります。
1)WWで提出される作品を見ていると、「書き手の思い、書き手らしさが伝わってくる声」がしっかり感じられる作品と、そうでない作品があります。
後者の方が、「一見、うまくまとめられている」ことが多くて、「あ、まずい!」と感じました。おそらく書いた生徒たちは、けっこう形になっていて満足しているのではないか、そんな気もしました。
「書く」ということは、そんなにつまらないものでも、そんなに簡単なものでもない、それをなんとかして教えなくては、と思いました。
2)最近の出来事です。ある人から、その家族にとっての、とても大切な思い出の品が送られてきました。私が、その品を、しばらく(多分今から20年ぐらい??)預かることになりました。その思い出の品が送られてきたときに、その品にまつわるエピソードが、数枚に渡って添えられていました。そのエピソードは、「書き手の思い、書き手らしさが伝わってくる声」に満ちあふれていました。
さて、上の1)と2)のギャップについて、もう少し考えてみました。
WW関連で多くのいい本を出版しているフレッチャー氏は、低学年よりも、高学年の方が、「書き手の思い、書き手らしさが伝わってくる声」のある作品を書くのが難しいと言っています。なんとなく分かる気もします。
さて、フレチャー氏の本を手掛かりに、どうすべきかを、少し考えてみました。(以下のページ数は参照したページ数のメモです)。
まずは、読者意識です。
家族の思い出の品にまつわるエピソードを書き留める、というように、たとえ、読者がごく少数であっても、具体的な読者が念頭にあると、「書き手の思い、書き手らしさが伝わってくる声」が入ってくると思います。
この読者意識は、顔の見えない(より多くの)読者に対して書くときも、応用可能です。
フレッチャー氏は、出版するときに、その出版物を読む(必ずしも顔の見えるとは限らない)「読者たち」を、「一人の人」だと考える、と言います。そして、もし、そのひとりの人が、これを書いている自分を「一人の人」だと感じてくれれば、自分の言いたいことに耳を傾けてくれるのではないか」とのことです。そして、作家ノートに書き留めた「書き手の思い、書き手らしさが伝わってくる声」が入るようにする、とも言っています。(71ページ)
また、フレッチャー氏は、以下のようにも言っています。
「書き手の声とは、誰か実在の人が本当にそれを書いたのだ、とうことを感じさせてくれるようなものです。つまりどこかの委員会が書いたのでも、コンピュータが書いたのでもなく、ある人間が書いた、ということです」(68ページ)
次はそのトピック(書く題材)と書き手の距離です。
フレッチャー氏も、書く題材と書き手との距離が遠いと「書き手の思い、書き手らしさが伝わってくる声」が消えやすいことを指摘しています。(72ページ)
これは、特に子どもたちがレポートやノンフィクションを書くときに、注意したいことです。
もちろん、メンターテキストになるようないい作品を読むことは、とても有効な方法の一つです。
(「メンター・テキスト」については、左上の検索を使うとたくさんのこれまでの記事が読めます。)
また、フレッチャー氏は、子どもたちがあるトピックを消化する前に、つまり、子どもたちはそのトピックについてまだ書く段階に行っていないのに、そのトピックについてのエキスパートであるように書くように、急がせているのではないかとも言っています。(77ー78ページ)
書き手との距離が遠いうちは、やはり、書き手の声や思いは入ってこないと思います。書き手とその題材の距離を近くする、このいい方法も、ミニ・レッスンやカンファランスで扱わなくては、と思います。
出典:
上で紹介したフレッチャー氏の本は以下の通りです。
Ralph Fletcher, What A Writer Needs (Heinemann, 1993).
この本の第6章(67-79ページ)が Voice つまり(書き手の思い、書き手らしさが伝わってくる)声で、この章を手掛かりに考えました。
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