2025年10月24日金曜日

アンカー・チャートの効果的な使い方

今は公立中学校で終えている教職13年目のリー・アン・エック先生が、アンカー・チャートは小学校でも中学校でも効果的であることを書いてくれているのを見つけたので紹介します。彼女は、生徒たちが本と出会うこと、そして教師たちが「自分も書き手だ」と信じられるようになることに情熱を注いでいます。読書・作文・授業にまつわる日々の実践を、ブログhttps://adayinthelifeof19b.blogspot.com/ とX@Teachr4)で発信しています。

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私は子どもたちを教室の前のミーティングエリアに集め、「人物描写(キャラクターの成長)」についてのミニ・レッスンを始めました。
「今日は、作家がどのようにして登場人物を描いているのか、そして私たち読者がどのようにしてその人物について知っていくのかを見ていくよ」と子どもたちに伝えます。
そして、ロイス・ローリーの『カラス笛を吹いた日』(BL出版)を読み始めました。

最初の数ページを読んだところで、私はこう尋ねました。
「今、どんなことを考えた?」

するとエイデンが言いました。
「なんで彼女(主人公)は、パパって言う練習を自分に向かってしなきゃいけないんだろう? パパって言うのが怖いみたい」
彼は少し考えてから、こう付け加えました。
「だって彼女はそれを声に出して言っていないで、心の中で考えているだけだから」

私はうなずいて言いました。
「なるほどね。つまり、作家は登場人物の心の中の考えを通して、その人物のことを描いているということだね。それをアンカー・チャートに書き加えよう」

私たちは読み聞かせを続けながら、登場人物がどんなふうに読者に伝えられているか、他の方法を探していきました。

――こうした光景は、私の小学4年生の教室ではよく見られるものでした。
私は読み聞かせやお手本となる本(メンター・テキスト)を使ってミニ・レッスンを行い、子どもたちと一緒にアンカー・チャートをつくっていました。

ところが中学校に移ったとき、私はこの慣れ親しんだ実践を見直すことになりました。
「中学校の先生たちもアンカー・チャートを使うのだろうか?」
「中学生はアンカー・チャートを子どもっぽいと思わないだろうか?」
「それでも効果的な学びのツールになるのだろうか?」

その答えを見つけるのに、時間はかかりませんでした。
目的やねらいは小学校のときと同じですが、アンカー・チャートのつくり方は少し変わりました。
先日、ある中学生が一人で課題に取り組みながら、ふとアンカー・チャートを見上げているのを目にしました。
そのとき、私は改めて実感したのです。――どんな学年の教室でも、アンカー・チャートは大切な存在なのだと。

 

●アンカー・チャートとは何か?
アンカー・チャートとは、授業や学びを支えるためのツールです。
ミニ・レッスンの最中に、教師と生徒が一緒にチャートをつくっていきます。ふつうは大きな模造紙にマーカーで書き込みますが、私は生徒の作品や例を加えるために付せんや事前に用意した文章カード(センテンスストリップ)を貼り足すこともあります。

アンカー・チャートにはいくつかの種類がありますが、私が中学校の教室でよく使っているのは次の3つです。
手順チャート
方法チャート
リストチャート

このうち、「手順チャート」(写真①を参照、訳は一番下に★1)は、要約文の書き方や中心となる考えの書き方など、スキルをいくつかの小さなステップに分けて示すものです。

「方法チャート」(写真②を参照、訳は一番下に★1)は、少し複雑なスキルを身につけるときに役立つ方法をまとめたチャートです。たとえば、作家がどのように登場人物を描いているかを見つける方法や、説明文に詳しい情報を加える方法などを一覧にしたものが「方法チャート」の例です。

 

最後の種類は、私が「リストチャート」(写真③を参照、訳は一番下に★1)と呼んでいるものです。たとえば、複文★2や重文についての授業をしたあとに、従属接続詞や等位接続詞を一覧にまとめたチャートをつくることがあります。

このときのチャートでは、以前の学年で学んでいる重文の復習もしました。
生徒たちには付せんに自分の考えた重文の例文を書かせ、授業のたびにそれをチャートに貼り足していきました。


●なぜアンカー・チャートを使うのか?

アンカー・チャートの基本的な目的は、「読む力」「書く力」を支えることにあります。★3
私は、生徒たちが教室の壁に貼ってあるチャートを見返しながら、自分の力で学びを進めていけるようになってほしいと願っています。+

授業でアンカー・チャートのような学びのツールを使うときは、「なぜそれを使うのか」「どうすれば効果的に使えるのか」をしっかり理解しておく必要があります。

小学校から中学校に移ったとき、私は生徒たちが中学生になってもアンカー・チャートを必要としていることを実感しました。

アンカー・チャートには、次のような効果があります。

  • 学びの過程を支える
  • 生徒の考えを「見える化」する
  • 学びへの参加意欲を高める
  • 自分の成長をふり返る力を育てる
  • 自立した学びを促す
  • 学びへの主体的な関わりを生み出す
  • これまでの学びと今の学びをつなげる

 

アンカー・チャートのつくり方

小学校の教師だったころ、私は授業中に子どもたちと一緒にアンカー・チャートをつくっていました。
子どもたちの発言を書き込み、その横に名前も添えました。すると子どもたちは自分の考えがチャートに残ることを喜び、学びに主体的に関わるようになりました。こうした方法は、2025人ほどの少人数クラスではとても効果的でした。

けれども、中学校に移ると状況が変わります。1日6クラス、100人を超える生徒を相手に、どうやってこれを実現すればいいのでしょう?

私はいくつかの方法を試してみました。どの方法もそれなりにうまくいきましたが、扱いやすさには差がありました。
最初は、小学校のときと同じように、クラスごとに紙のチャートをつくり、生徒の名前も書き込みました。
そして1日の終わりに、各クラスで出た共通の考えや発言をまとめ、全員の名前を載せた「最終版チャート」をつくりました。

次に試したのは、チャートを写真に撮り、それをコピーして「ミニチャート」として生徒のノートに貼らせる方法です。
こうすると、クラスごとのチャートも残せますし、教室には全体のチャートを掲示することもできます。
どちらの方法も効果はありましたが、正直に言えば、準備や整理にとても時間がかかりました。

今では、各クラスでホワイトボード上にチャートを一緒に書き、その授業の終わりに写真を撮っています。
そうすると、すべてのクラスの考えをあとで見比べることができ、共通点もすぐに見つかります。
そして1日の終わりに、それらをまとめた紙のチャートをつくり、教室に掲示します。

私は、中学校でもアンカー・チャートは大切で、十分に効果があると信じています。
もしその効果を疑いそうになったときは、ある光景を思い出します。
チャートがかかっていた壁の空いた場所をふと見上げて、少しうなずき、それから再び黙々と学びに戻る生徒の姿です。
それこそが「自立した学び」であり、アンカー・チャートを使うことの成功を示す瞬間なのです。

 *****

 前回(10月10日)と今回のエック先生の実践紹介から、アンカー・チャートの効果を納得していただけたと思いますが、その効果を整理すると以下のようになります。

responsive teaching (https://projectbetterschool.blogspot.com/2025/09/responsive-teaching.html)を実現している教え方です。つまり、教師主導ではなく、生徒主導に近い教え方です。それは、ナンシー・アトウェルの言葉を使えば、「教える論理」よりも「学ぶ論理」を重視した教え方といえます(『イン・ザ・ミドル』の第1章参照)。

・板書のその場限り/一度きり(ないしバラバラぶつ切り)の学びではなく、アンカー・チャートは継続的で、付け足すことはいつでも可能で、みんなの力で完成させていく媒体です。子どもたちは学び方も学ぶスピードも異なるので、必ずしも教師が板書したタイミングで学んでくれるとは限りません。板書のように学びや知識がすぐに過去形にならず、現在進行形で長く続く学びを可能にしてくれます。

・ひょっとしたら、エネルギーの使い方が間違っているかもしれない板書/ノート指導ではなく、生徒が参加できる形で(より身につきやすい)学びを可能にするのがアンカー・チャートです。

・板書は「正解ありき」の学習法と言えると思いますが(ある意味で、テストの正解が全部書き出されるのですから!)★4、アンカー・チャートは教師と生徒が協力してつくり出す学びの方法で、構成的な学びの理論がその学びの効果を裏づけています。つまり、学習するとは他の誰かの知識を覚えることではなく、理解したり身につけたり、できるようになったりするには、一人ひとりが自らの意味や方法をつくり出す/考え出すのだというものです。

・教師はもはや「あれ黒板に書いたでしょ。覚えてないの?」★4という必要はなくなります! 大事なことは、アンカー・チャートに書かれていて、いつでも見ること/戻ることができるからです。

 

出典:https://choiceliteracy.com/article/anchor-charts-a-tool-for-every-classroom/

動画: https://www.youtube.com/shorts/h63Y_DHOgNE

    https://www.youtube.com/watch?v=poow60rO6OQ

 

★1 3つのアンカー・チャート(写真)の訳:

   要約作成の手順

  1. 文章を読む。
  2. 重要な語句(キーワード)を抜き出す。
  3. 概念図(コンセプトマップないしマインドマップ)を描いて情報を整理する。
  4. 各セクション(段落)の主要な内容を一文にまとめる。
  5. 全体を包括するトピックセンテンス(主題文)を加える。
  6. 文法や表現をチェックする。

   情報を伝える文章(説明文)に具体的な詳細を加える方法

・ 例(実例)を提示する

・ 引用(専門家の発言や文献など)を使用する

   重文(Compound Sentences

2つの独立した文章を、コンマ(,)と接続詞でつなげたもの 

  代表的な接続詞(FANBOYS)を使って、2つの文章をつなげます。

F ・・・ なぜなら 

A ・・・ そして 

N ・・・ 〜でもないし、〜でもない 

B ・・・ しかし 

O ・・・ または 

Y ・・・ にもかかわらず 

S ・・・ だから

★2 複文は、1つの「主節(メインの文)」に、従属節(理由・条件・時間などを表す節)がくっついた文で、「〜だから〜する」「〜するとき〜する」など、1つの文がもう一方を説明するような構造があります。

★3 国語以外の、他教科でもアンカー・チャートは効果的です(特に、小学校段階では)!

★4 これらから、板書やノート指導はテストのために暗記する/覚えるための手段であることが明確になってきます。それは、最初から身につけることやできるようになることは、ほとんど期待していないことも(このやり方では、それは実現できませんから)!

2025年10月18日土曜日

「共感」から「多元的思考」へ

  ノンフィクションの読み書きはいつごろどのように教えていけばいいのか。このことは国語の授業に取り組んでいる人の悩ましい課題であると思います。『理解するってどういうこと?』のなかで、キーンさんが「ノンフィクション」について書いているのは主に第7章です。フィクションの読み書きでは伸びやかに学びを進めていた子どもたちがノンフィクションについては読むことでも書くことでもフィクションの同じようにはいかないということを論じた後、彼女は次のように書いています。

 〈ノンフィクションを書くことについてもの、状況は読むことと同じくよくありません。ノンフィクションを書いてみるように子どもたちに求める場合、私たちは優れたノンフィクション・ライターの技(たとえば、興味をそそるような書き方や、多くの情報を提供するような書き方など)を学ぶことにあまり時間を費やしていません。私たちは、子どもたちにノンフィクションの根底にあるさまざまな構造を教えないままにしてしまいがちなのです。その結果として、単に時間軸で並べただけの要約や、子どもたちが使った元となる文章を最小限書き変える以上の文章はめったに生まれないのです。すでに研究は明らかにしてくれています。もし私たちが子どもたちにノンフィクションで読んだことを身につけ、活用してほしいと望むのであれば、私たちはノンフィクションの構造の直接指導を国語科だけでなく、各教科の指導に組み入れなければならないということです。〉(『理解するってどういうこと?』268ページ)

  こう書いた後、エリンさんは「ノンフィクションを読む際の障害」についてその「障害」「説明」「事例」「教え方」を「言葉レベル」と「作品レベル」で大変コンパクトにまとめています(『理解するってどういうこと?』269276ページ)。これは、日本では「説明的文章」の理解に関する問題です。上に引用した内容と合わせて考えると、エリンさんの考え方で重要なのは、これらを読むことの問題だけでなく、書くことの問題と合わせて考えて提案しているということです。「ノンフィクションの根底にあるさまざまな構造」つまり「説明的文章」の「根底にあるさまざまな構造」を教える必要性が指摘されていることです。

 この読むことと書くこととをどのように連動させていくかということは、この「RW/WW便り」そのものの重要なテーマです。何をどのように書いてきたのかということが、何をどのように読むのか(理解するのか)を根底から支える、ということです。

 ちょうど1年ほど前に「ノンフィクションを読み書きする意味」(20241116日)でもこのことを考察しました。その時に取り上げた『論理的思考とは何か』(岩波新書、2024年)の筆者・渡邉雅子さんの近刊『共感の論理―日本から始まる教育革命―』(岩波新書、2025年)には、前著で四カ国の「作文教育」の分析によって示されていた「論理的」の四つの型(「経済」「政治」「法技術」「社会」)に基づく教育の在り方が具体的に示されています。渡邉さんの言う「論理的」の四つ目の型「社会」は日本の教育の特徴ですが、『共感の論理』ではこれを「共感的・縁起的利他主義」と呼び変えられています(渡邉さんは井筒俊彦氏に拠りながら「縁起」とは「すべてのものはそれぞれ他に依存し、他との関係においてのみ、仮に自と現れているだけ」とする考え方だとしています)。

「日本の国語教育では、他者に共感することとともに、相手を理解することで「自己が変わること」が重視されている」(『共感の論理』109ページ)とする渡邉さんは「共感」をベースに「多元的思考」へと至る「段階的作文教育」「段階的読解教育」を唱えます。

 〈社会原理を基盤としながら多元的な思考ができる教育を築くためのポイントは二つある。一つ目は、子どもが社会の一員として必要な認知的、規範的、道徳的ルールを身につける社会化(socialization)が最も効果的に行われる小学校低学年で、共感的な読解と感想文の執筆を通して共感的利他主義をしっかりと育むことである。二つ目は、各学校段階に応じて重点的に教える作文様式を、発達段階に合わせて段階的に移行させる「段階的作文教育」を導入し、多元的思考を育てることである。このような方針により、初等教育では利他主義を情緒的に内面化させて人格形成の基盤を築く。そして中等教育では、データや事実を根拠に実証的に論証する力、抽象的な概念を使って立場を明確にする力、さらには仮説を立てて検証する力を、それぞれの作文様式を通して体系的に学ぶ。こうした様式の論理を理解し、思考と表現の技術として自在に使いこなせるようにするのである。初等教育ではリテラシーの文化的側面を、中等教育ではその技術的な側面を重点的に習得させるのである。〉(『共感の論理』117118ページ)

  もちろん、渡邉さんの主張は、小学校でもっぱら「共感的」な作文や読解を行って中学校以上ではそれをすっかりやめて抽象的・技術的な面を中心にした作文や読解に移行するというものではありません。「段階的作文教育」「段階的読解教育」を詳しく説明した後、次のように言っています。

 〈このように、年齢や発達段階に応じて異なる読解の技術を見につけることは、多元的な思考力を育てる第一歩となり、具体から抽象へと思考の発達を導く。〉(『共感の論理』151ページ)

 どのような作文にも読解にも「共感的」な側面と抽象的・技術的側面はあります。その二つの側面のうち、低学年では「共感的」側面を強調し、高学年から中学校・高校と進むにつれて、抽象的・技術的側面の割合を増やしていくことで「多元的思考力」が育まれていく、そのような連続体のようなものを想定した学習指導が「具体から抽象へと思考の発達を導く」のだとわたくしは捉えました。

 渡邉さんの主張する「段階的作文教育」「段階的読解教育」(この二つはセットです)を通して、学習者はエリンさんの言う「ノンフィクションの根底にあるさまざまな構造」に接していくことになるのだと思います。『共感の論理』巻末の「コラム 文章の目的と様式を意識させる訓練」は、ノンフィクションだけでなくフィクションも含めてその「根底にあるさまざまな構造」を子どもたちに教えるための具体的アイディアです。「共感」をベースにしながら、描写したり、物語ったり、説明したり、説得しようとしたりする文章を、私たちは国語の授業のなかで書いてきました。その営みのなかでフィクション・ノンフィクションの根底にある構造に気づくようにすること。「共感」から「多元的思考」に至るそのような学習指導を進めることは、人が「ノンフィクション」を含めた読み書きにも喜びを見出すきっかけになると考えます。

2025年10月10日金曜日

ライティングやリーディング・ワークショップと切り離せないアンカー・チャートとは?

 「たかが板書、されどアンカー・チャート」

 これ以下を読むと、なぜ「たかが板書、されど板書」ではなく、「されどアンカー・チャート」なのかがわかります。

 アンカー・チャートとは、授業中に子どもたちと一緒にまとめる「学びの手がかりポスター」です。学習の「よりどころ(anchor)」となる考え方や手順、ポイントを、教師と子どもが話し合いながら視覚的にまとめていくものです。

 

 もう少し具体的に説明すると、

・授業(ミニ・レッスン)の中で一緒に作るのが特徴。教師が一方的に書く板書や掲示物と違い、子どもたちと意見を出し合いながら模造紙にまとめていきます。

・後から見返せる。掲示しておくことで、次の学習や活動のときに思い出す手がかりになります。

・思考の見える化。考え方や手順、気づきを可視化して、学びを共有するためのツールです。

 

 たとえば国語の授業で「説明文」の単元なら、子どもたちの発言をもとに次のように模造紙に書きます。

 

説明文の構成

  • 最初にテーマを書く
  • 次にくわしく(理由・仕組み・特徴・具体例★などを)説明する
  • 最後にまとめる

 

ミニ・レッスンの後にこれを作家コーナーの壁に貼っておけば、子どもたちが実際に説明文を書くときの「学びのアンカー(よりどころ)」になります。これは、ミニ・レッスンのときに子どもたちと一緒につくりますが、カンファランスのときに子どもによっては、アンカー・チャートを示したり、これをつくる過程で話し合ったことを思い出させたりすればいいわけです。子どもによっては、再度説明する必要もあるかもしれません。

板書との違いは、板書がその授業時間の理解を助ける(説明・整理のため)に書かれるのに対して、アンカー・チャートは「授業を超えて次にもつながる学びのよりどころ」として残す点が大きな違いです。

 アンカー・チャートの本質は、教師が板書やハンドアウトなど子どもたちに一方的に示す説明資料ではなく、子どもと一緒に作る「作品/生成物」です。完成形は、子どもとの対話の積み重ねそのものと言えます。アンカー・チャートを活用する際のポイントは、次のように整理できます。

・授業中、黒板や模造紙に子どもの意見をメモしながらまとめていく。

・より具体的には、子どもたちに「この言葉も入れた方がいい?」「どんな順番にすると分かりやすいかな?」「どうしてそう思う?」「「あ、たいてい最初にテーマがあるね!」「理由を言って、さいごにまとめるから!」などやり取りをしながら、模造紙にまとめていく。

・子どもたちの発見や気づきで形ができていく。

・完成後に、「これ、次の時間にも使えるように貼っておこう」と教師が意図的に残す。

・単元の途中で、子どもたちの気づきや考えを足していく。

・単元末に、子どもが自分たちの学びを振り返る材料として使う。

 

 近年、日本の授業改善では「学びの見える化」「振り返り」★★などが重視されています。アンカー・チャートはその実践にぴったり合うだけでなく、「教師主導の指導やまとめ」から「子どもとつくる学びと思考の記録」への転換が図れるすぐれた媒体です。


 板書との違いを整理すると、次の表のようになります。


 あなたは、このなかで特に何が大切なポイントだと思いましたか?

 

   学年が上がると、次のようなものも使うようになります。

 - 原因と結果Cause and Effect
 - 順序・過程Sequence / Process
 - 比較と対比Compare and Contrast
 - 分類・タイプ分けClassification
 - 問題と解決Problem and Solution

※「意見文」のアンカー・チャートの書き方を示す動画 https://www.facebook.com/watch/?v=10155814818798708 をご覧ください。

★★市販の振り返りシートを使うのは、弊害の方が大きいので、早くやめたいものです!

2025年10月3日金曜日

「成績ABCについての葛藤を言語化してみる(9月26日号)」への6人の先生たちの感想

 先週の記事への感想をいただきましたので紹介します。

この評価・評定問題は、何を、どう教えるか(生徒の立場からは、何を、どう学ぶか)と表裏一体の関係にあるので、問題は一層複雑です。少なくとも、現状が続くことは許されることではないのですが、教育行政に携わる人たちは問題視していないようです(もし、問題意識があるなら、早急にアクションを取ってほしいです!)。

 

●神奈川県の藤井先生(小学校)

そもそも通知表は子どもにとってなんの価値があるのか?

受け取った子どもは何のメッセージを受け取るのか?

 

先日、市内の学習会で小学6年生の女の子が取り組んだ「子どもの権利条約」についての調べ学習を見せてもらいました。

その際に教員の学習会にその調べ学習に取り組んだ本人(6年生)がいるという何とも珍しい会でした。

彼女の調べ学習でまとめた資料をもとに対話をしていく中で「誰かと比較して考えてしまい、自信がなくなっていくことが起きていないか?」という投げかけをある方がされていました。

学校で比較してしまうことはあるか?と彼女に聞いてみると真っ先に出てきた言葉が「通知表」でした。

通知表があることで他者と比較して自分のことを評価してしまうそうです。

また、周りの友だちには、全く通知表なんか気にしていないそうです。

通知表が自分の成長につながっているという話は全く出てきませんでした。

というのが子どもの声です。(1人ですが

この話に多くの子どもが共感するのであれば、僕らが多くの時間や気を使って作成している通知表は子どもにとっては意味のない、いやむしろ他者と比較して自分を評価するというネガティブな装置になっていないか?と改めて考えさせられました。

 

今回紹介していただいたブログを読んだことで昨日の学習会とのつながりを見出せました。

 

●熊本県の松永先生(小学校) 青字は、先週のブログの記事の引用

評価・評定に対する葛藤のどれもに共感します。

特に、おそらく、子どもは、「書く力」「読む力」「知識」「思考」「粘り強さ」「自己調整」など、自分を分類され、あたかも自分が製品のように扱われているかのように感じているのだと思います。子どもは、バラバラに切り分けられた自分のパーツではなく、まるのまま、そのままを見て欲しいのではないでしょうか? 書く力の中でも、単元で狙った焦点に合わせて細分化され、それぞれの書く力がどのように関連しているのかも検証されず、一部分の書く力を取り上げて、「書く力」として概評し、さらにそれを「話すこと・聞くこと」、「読むこと」の概評と総合して、国語の「知識・理解」や「思考・判断・表現」としてABCがつけられる。教師でも何をABCで評定しているのか分かりませんから、子どもにとっても、自分が何が得意で何が苦手なのか、掴めないだろうと思います。

の部分に関しては、ある生徒のことを思い浮かべながら読みました。

Mさんは、年度始め、自分の考えをうまく整理して話すことができませんでした。「~でね、~でね、~でね」と言った具合に、一文がとても長く、思いつくままに話している感じでした。それを周りの生徒に指摘され、今度は言葉を詰まらせてしまい、自分の思いや考えを伝えきれず、悔しくて泣いてしまうこともありました。

そんなMさんと「作家の時間」を通して向き合っていく中で、ふとあることに気づきます。Mさんは決まって、絵から描き始めます。頭の中に物語の構想があって、それを文字ではなく絵に起こし、文字にしていくのです。「修正」をするときも、描いた絵とつじつまを合わせるように書き直していました。ペースはゆっくりですが、しかし確実に、順序立てて読みやすい文章が書けるようになってきています。同時に、話すことも。

また、Mさんは、病気で学校を休むことになった先生の代わりに授業をする女の子のお話や、おさるの赤ちゃんのお世話をするおさるちゃんたちのお話などを書いています。断言はできませんが、なんとなく、Mさんの心の内が分かる気がします。

そうして日々のくらしの中で(改めて)Mさんを見ると、よくお手伝いをしているのです。黒板を消したり給食の片付けをしたり、率先して、誰かの役に立つことをしています。

子どもたちにとっては、国語の授業もそうでない時間もつながっているというか、グラデーションのある時間の中で過ごしているのだと、改めて感じます。生徒一人ひとりにエピソードがあって、それらのエピソードは、教科や単元で求められている能力では伝えきれないものだと思います。それは所見ですら伝えきれないのに、ABCで伝えるなんて、幻想でしかないなぁと思います。

 

しかし同時に、葛藤している場合ではない(既に手遅れになっている)という危機感もあります。

それは、評価・評定の良し悪しで(本質的には良し悪しではないのですが)、「〇〇してもらえる」ということ(ご褒美システム)が信じられないくらいにはびこっているということです。

しばらく前は、Aの数がいくつだったと他者と比較するような生徒たちの様子に困り感を抱いていましたが、最近は他者と比較する生徒はあまりいません。なぜなら、Aがいくつあるかで〇〇してもらえるかどうかが決まるので、他者の評価・評定なんか気にしなくていいからです。学校でいくら生徒に「評価」を教えても、家に帰ればご褒美の材料に様変わりしてしまうのですから、変えることに必要なエネルギーは膨大です。

だからこそ、前に情報提供してくれた方法の一つである「自己評価シート」は、小さく始めることのできる方法、かつ、やってよかったという実感があります。(事前にお願いをきちんとすれば)どのご家庭も、お子さんをエンパワーメントするコメントを書いてくださいました。評価とはやる気につながるもの、そのやる気とは外発的動機付けではなく内発的動機付けである必要があることを、保護者の方々とも共有し続けていきたいと思います。

追伸・何につけてもがんじがらめのシステム下にあってはエネルギーを奪われることが多いですができることをコツコツとやるほかないなぁと思いました。坂本九さんの「上を向いて歩こう」を何年かぶりに思い出しました。

 

●兵庫県のK先生(小学校)

もちろん、最大限に所見欄に子どもたちのがんばった姿を盛り込んで、それを読んだ家族から子どもが食卓で褒められる姿をイメージしながら書きました。宮沢賢治のペア読書でどれほどに挑戦できたのか、社会科で問いを立てどんなよい発表ができたのか、一人ひとり丁寧に描きました。それでも、各教科の3観点のABCの羅列に、子どもたちもその家族も、目を奪われてしまいます。現実問題、大盤振る舞いでAばかりをつけるわけにはいきません。中にはCをつけなければならない子もいます。どんなに素晴らしいエピソードを所見欄で語ることができたとしても、ABCによってその物語は一瞬にして崩壊してしまうような気がしています。

全くそのとおりです。ここに無力感を覚えます。もちろん、所見欄を子どもは熱心に読んでくれます。きっと心に残っているお子さんもいるでしょう。でも、成績が上がったら〇〇をしてもらえる、という場合の成績はABC3段階評価です。 かつての卒業生が今同僚なので、彼女に聞いてみます。所見のことを覚えているかと。私は彼女に何を書いたかは覚えていませんが。

3観点での成績をつけるにあたって、これまでの旧来の観点でしか成績表を作ったことのない私にとって、初めて聞いた考えと出会うことになりました。

「知識・技能」がAでないと、「思考・判断・表現」はAにならない

「主体的に学習に取り組む態度」だけがAになるということはない

これらの考えは、各評価の観点は「主体的な学習に取り組む態度」を頂点に、「思考・判断・表現」の下に「知識・技能」が位置するという従属関係にあることを示しています。つまり、知識・技能が優秀でないと、他の観点でも優秀でないことを示し、各観点が独立的ではないことになります。

(この評価についての考え方の根拠は、学習指導要領の総則編や国立教育政策研究所「『指導と評価の一体化』のための学習評価に関する参考資料」などに登場する「「思考力・判断力・表現力等」は「知識や技能を活用して課題を解決するために必要な力」」という定義に基づいているようです。)

本校でもこの言説がまかり通っています。冨田先生の所よりひどく、文書化されています。「主体的…」は昔の関心・意欲と違うからという人もいますが、文科省資料(出典失念)には、誤解・誤用があったので文言を変えた。とあったはずです。

結果が出なければ態度がAでないならば、オリンピックでメダルを取れなければどれだけ自己調整しながら意欲的に取り組んでいても、Aがつかないということになります。結果と意思的な側面はそこまで関連するのでしょうか。

さらに、もともと、能力のある子どもであれば、さして試行錯誤や努力をしなくても知識技能や思考判断表現はAがとれます。試行錯誤、自己調整を懸命に続けた結果、前学期、知識や思考においてCだった生徒が、今学期ともにBになった場合でも、BBAはつけられないというのでしょうか。さすがにCCAはないと思いますが、どんな科学的根拠をもとにした規準なのか納得がいきません。だいたい良い成績をつけられて文句を言う子供や保護者がいるでしょうか。しかも点数化されない態度面において。がんばっていたのに評価されないという方が(がんばる=主体的・・ではないですが)やる気をそぎます。何のための評価なのか、子どもに力をつけたり意欲を向上させるための評価でなければ、意味がありません。選別をするふるい分けに使うわけではないのですから。

また、この評定の考え方に起きる別の問題もあります。この考え方をきちんと踏襲すると、Aが一つの教科、または特定の子どもに集中してしまいます。その逆に、この考え方をCの評定にも当てはめるならば、Cが集中してしまう子どももでてきます。成績表を見て、Aがたくさんあるという理由で喜び、Cがたくさんだという理由で意欲を無くす。所見にどんな素敵なエピソードが書かれていようとも、ABCの魔物は5年前よりもさらに恐ろしい姿にパワーアップしているように思えました。

国語の「知識・理解」や「思考・判断・表現」としてABCがつけられる。教師でも何をABCで評定しているのか分かりませんから、子どもにとっても、自分が何が得意で何が苦手なのか、掴めないだろうと思います。

このあたりの一連の冨田先生の記述も、全く同感です。最悪なことに、評価について話し合う、という場合、この評定・評価の厳格化・従順化が議題になります。周囲の先生は、おかしいよね、といいながらも、学校で決められたことだから、国研の資料にあるそうだからとしぶしぶ従っている方も多いです。いったいどちらを向いて仕事をしているのでしょうか。管理職に批判されなければ、子どもはどうなってもいいのでしょうか。と強気に言えるのは、私がもう退職にあと数年で、人事評価なんかどうでもいい、と思えたり、こういう場で共鳴できる人たちがいてくださるからできることです。

こんな評価を指導要録に残して何年も保存して一体何になるのか。子どもや保護者に渡してどんな効果があるのか。直接議論したいくらいです。

早く、現行の通知票をなくしたいです。三者面談・自己評価の実績を積んでいきたいです。*勤務市の一部校長さんの中には、通知票廃止に動いている人がいますが、それが自己評価の力をつける意図かどうかはまだ読めていません。単に業務改善だけかもしれません。

 

●神奈川県の坂上先生(小学校)

私が評価に携わる中で、現在最も悩んでいるのは「主体的な視点での個人内評価」と「ABC評価」との境界の捉え方です。

学年内で「学習に取り組まない児童をどう扱うか」という話題が出ました。私は、Cをつけるのであれば必ず改善策とセットであるべきだと考えています。なぜなら、多くの「やらない児童」の背景には、私たちの支援不足や働きかけの不足があるのではないかと思うからです。単に「やらないからC」という評価は、見取りや手立てを放棄したものになってしまうのではないでしょうか。

また、知識があるから思考できる、という理屈に基づき「Aが連鎖的につく」ケースにも疑問を持っています。確かに理屈としては正しいのですが、実際の授業では全ての瞬間を教師が見取ることはできません。テストベースや限られた場面での評価だけでは、子どもの実態と評価との間にずれが生じると感じています。

このような悩みの根底には、「評価=総括的評価」という捉えが依然として強いことがあると思います。だからこそ、形成的評価をより具体化し、授業の枠組みやルーブリックの工夫を進める必要を改めて感じています。

 

●東京都の有馬先生(私学小学校)

 いわゆる通信簿による評価の葛藤を誠実に書き記していただいたことで、課題がくっきりと浮き彫りになったと感じています。
 大前提として私は通信簿の無い、厳密には記述式の所見のみを学期末に渡す仕組みを開校以来とっている学校に勤めており、そのような特殊な位置から一般の仕組みの批判をすることははばかられる気持ちもあることを先に述べておきたいと思います。
 この文章を読むと、ABCの成績をつけることになんの意味があるのかと思います。この文章で書かれている「宮沢賢治のペア読書でどれほどに挑戦できたのか、社会科で問いを立てどんなよい発表ができたのか、一人ひとり丁寧に描きました。」これこそが評価(そのなかでもポジティブ・フィードバックにあたるのでしょう)なのだと思います。しかし、文章は次のように続きます。「それでも、各教科の3観点のABCの羅列に、子どもたちもその家族も、目を奪われてしまいます。」なんということでしょう。記号化されることで本来の評価に注目が無くなるというのです。この悲劇が公然と行われているのはどうしてなのでしょうか。
 通信簿の問題点は、その評価基準が本来主体である学習者側に不明瞭なことが大きな問題だと思います。いったいなぜ自分がAなのかBなのか、はたまたCなのかがわかりません。これではBCをもらった児童が、自分には何が足りなかったのか、Aをとるために必要な努力は何なのかがわかりません。評価というより審判、もっと強い言い方をすれば、人によっては断罪でしかありません。それも説明無しの。
 もし現行のABCの評価を使うのであれば、それはきちんと評価基準が事前に学習者に明示されるべきです。そして学期の途中でいまの形成的評価が行われるべきと考えます。なぜなら評価は断罪ではなく学習者がよりよい学習経験を積むために行われるべきだからです。なぜそうされないのか憤りさえ感じます。
 さらには後半の「久々の成績の世界で聞いた言説」は私もちらほらと耳にしていたものの、こうして整理された文章で見るとそのあまりの整合性の無さ、くだらなさにあきれてしまいます。この砂上の楼閣のような議論は、いったい誰の何のために行われているのでしょうか。
 さて、通信簿の無い学校に勤めておりますが、指導要録は法的につけなければなりません。基本的にはやはり数値による記載となります。私はこのとき「主体的な学習に取り組む態度」は自分の授業ではほとんどAをつけています。なぜなら子どもたちが主体的に取り組むように最大限の努力をもって授業に臨んでいるからです。私にとって指導要録の評価は、学習者への評価の形をとっているものの、明らかな自分の授業の振り返りとして記載しているといえるかもしれません。私はすべての子が参加する授業を目指しており、それはかなり達成されることが多いので、Aの行列になります。それがおかしいことだとはまったく思いません。(指導要録は基本的に開示請求がないかぎり児童が目にすることはありません。そして20年以上一回も開示請求を受けたことはありません。実質ほぼ誰にも届かない評価といえるので、このような考えに至りました。)
 この通信簿の議論をしていると、「それでも通信簿が学習の動機付けになる子もいる」という意見を耳にします。たしかに一部の子にとってはそのようなこともあるかもしれません。でも同時にこの通信簿という「理由の分からない評価もどき」によって動機を著しく奪われる児童も多くいることを見て見ぬふりをするのをいい加減やめるべきなのではないでしょうか。

 

●新潟県のT先生(中学校)

大谷翔平が3年連続のホームラン王を逃しました。「逃した」とか言っているのはマスコミですね。失礼過ぎです。

大谷君は全く気にしていない。むしろ休養をとっている。自分にとって、チームにとって、それがベストだと考えている。

大谷君にとって他人の評価よりも、自己評価が大切で、自分自身が楽しいだけでなく、チーム競技である野球も理解できていて、何よりそれを愛している。

数字はデータとして自分の成長の分析に役立てている。

形成的評価の鬼、大谷翔平。

 

さて、学校はどうでしょう。

「法定帳簿でもない通知表は不要なのでやめてほしい」

「通知表は評価として意味がない。時期的にも、内容としても意味をなさない」

私の考えです。

通知表は総括的評価の名を借りた「値札」のようです。その数字は、子どもが自分を変化させるための材料にはなりません。受け取った瞬間の「嬉しい」「悔しい」という感情は15分ほどで忘れ去られてしまいます。

 

そもそも、私の周囲には「形成的評価」という言葉を聞いたことがないという人が多くいます。教育実習生が「大学の講義で聴いたことがある」と言いました。管理職も形成的評価と総括的評価の違いが分かっていません。

 

中学生の保護者は異常に通知表を気にします。入試に直結する数字を読み取る道具になっているからです。

新潟県では次の入試から、調査書に乗るのは5段階評定のみとなりました。観点別が消えました。欠席日数が消えました。特別活動の記録が消えました。

ある保護者が言いました「うちの子は好き好んでクラス委員をやっているわけじゃない。もう成績に関係ないからやめさせたい」。

ものすごい極端な教育観。得か損か、コスパ、タイパでしか価値を見出せない保護者。大事なのは数字だけ。

その保護者の価値観で育つ子どもたち。人としての成長よりも数字を追いかけ続けます。

 

かくして、なかなか通知表は消えてくれません。管理職は他校と違うことはやりたくありません。つつがなく任期を終えて、退職したいのです。

 

一方で、二次障害を起こしている子どもたち、学びから逃走している子どもたちがいます。

通知表の有無に関わらず、学習そのものに耐性がなく、嫌いになってしまっている子どもたち。

それをテストや評価の数字と記号で縛って、学習させようとする学校。

中学校の教室は、小学校1年生から高校生くらいの学力の子まで、幅がどんどん大きくなっています。

個別最適化?個々のペースでドリルをさせる時間だと思われています。

 

特別支援学級(知的学級)の子も、高校受験するから数字の評価を出してと言われます。保護者が、特別支援学校には行かせたくないそうです。高校卒業にならないから。それって、子どものためですか?

 

通知表の観点別評価。テストの得点が評価の中心であることは、「テスト形式が得意な子」に利があるわけですので、私たちはテストと同等に授業における成果物と取り組みを評価します。

教師にも保護者にも多くいる「テスト信者」に伝えたいです。テストが苦手でも、いい成果物を生む子はいますよ。言葉を使いながら覚えていくタイプの子ども、書き手になることで読めるようになる子ども、子どもの学びは様々です。課題や方法の選択肢が多くなれば、形成的評価を繰り返せば、その子の「よさ」が出てきます。

 

現任校は、いわゆる困難校です。学習を放棄している子どもたちもいます。成績のつけようがない状況です。それでも教室にいる以上は通知表の評価が要るとのことです。でも、学習できていないのは、学習を放棄している子ども自身がわかっているはずです。その子に、通知表として「1」「オールC」を伝えることに意味はありますか?

ちなみに、この子たちが学習を放棄しているのは、本人の選択です。絶対に参加しませんし、寝ています。そういう行動を自ら選択しています。教室にいないと問題になったり、保護者を怒らせるから教室にいるだけです。この子に今、学習の強制をすることは意味がありません。授業を妨害しない努力をしていることを認めつつ、本人が本当に困るまで待つしかありません。いろいろな気持ち、本人の能力、家庭環境、価値観などが複雑に絡み合っていると考えられます。もちろん、「ただのわがまま」と一刀両断する教師もいます。

私は校長に言いました。「通知表は法定帳簿ではない。通知表が子どもを傷つける結果が予測される場合は、評価評定を出さなくていいのでは? 私は評価者として白紙を選択します」と。まだ回答はもらえていません。

 

読むこと、書くこと、考えることを、子どもたちはどこで嫌いになってしまったのか。

嫌いになるというか、楽しんだ経験がないようにも見えるのです。

自分よりも弱い子どもを探して、特別支援学級の子どもへの暴言がやみません。

勝手に他者を撮影して、加工して、ばらまいて、嘲笑っています。

学力だけでなく、人としての品性が身についていません。

一方で、これらを指導すべき教師が、恣意的に行事の動画をクラスで配っています。

もうね、滅茶苦茶です()

 

こんな授業も見ました。特別支援学校の詩を作る授業。「時間がないから」ということで、教師が子どもがメモした内容から単語を選び、チョチョイのチョイと並べて詩を作る授業でした。特別な支援とは、教師が代行する授業のことのようです。

 

学校や教室によっては、まったく「子どもを認める」ことができていないのではないでしょうか。「子どもを認める」ことが点数やABCであると信じられているところが圧倒的なのではないでしょうか。その評価の仕組みや息苦しい授業、学校から逃走する子どもが多くいると感じています。

 

そして教師が破廉恥で逮捕される。世も末です。

子どもを「商品」として消費する醜い大人たち。

今の教育現場はディストピアのようです。

 

原稿段階での私の反応は・・・とてもいい読者への投げかけだと思いました。

とくに、子どもと教師の間にある評価・評定に関するズレの対比のリストがよかったです。

このリストが、文科省や教育委員会の評価・評定を押し付ける人たちが、評価の「ひ」の字も理解していないことを証明しています!

そもそも、評価のことがほとんど全く理解していない人たちが、教師に通知表や指導要録のために評定をつけさせているので、それに付き合うことは億劫以外の何物でもないわけで、生産的に生み出すものは何もないです! (単に、「従順、服従、忖度」の見本を教師が子どもたちに見せつけ、そういう社会を私たちはつくることが求められているのですと、隠れたカリキュラムとして実践しているにすぎません! 見えるカリキュラムの方は、カバーはしていますが、ほぼ定着することは期待できない中で!)

WW/RW便り: 「観点別評価」の三つの観点には、問題がある!

大学の研究者も文科省(=国研)に忖度してしまって、機能していない枠のなかで本を出して自分の実績にしてしまっていますから、していることは「迷惑の振りまき」以外の何物でもありません! 「悲しい」を通り越して「犯罪」です。影響力のある人たちはほとんど誰も、「学校評価に問題がある」と言ってくれません。

それで、冨田さんが中心に書いた2冊の本以外にも、『イン・ザ・ミドル』(特に、第8章)『「考える力」はこうしてつける』(特に、第8章)『成績をハックする』『一人ひとりをいかす評価』『成績だけが評価じゃない』『教科書をハックする』(特に、第6章)『聞くことから始めよう』などを出し続けている理由です。そして、いまも『見取り・子ども理解をハックする』のプロジェクトを過去3年ぐらい取り組んでいます(あと1年ぐらいで、本にできたらとは思っていますが・・・・)。

しかし、評価だけを切り離せません。それは、何(カリキュラム)をどう教えるか(教え方・学び方)と表裏一体のものですから。その意味で、25年前に文科省が「指導と評価の一体化」と言い出したのは正しいのですが、それを言い出した人たちは当時も、今も、それが真にどういう意味で、何をすればそれが実現するのかを理解できていないとしか思えません。カリキュラムと教え方と評価の関係について追いかけてみたい方には、『みんな羽ばたいて』『学びの中心はやっぱり生徒だ!』『生徒一人ひとりを大切にする学校』『あなたの授業力はどのくらい?』『教育のプロがすすめる選択する学び』などがおすすめです。

 

2025年9月27日土曜日

成績ABCについての葛藤を言語化してみる

ABCの世界にカムバック


成績のシーズンが終わりました。今年は、久々の成績付けでした。2019年に一般学級の担任をしてから、その後の5年間は特別支援学級の担任をしていたので、3観点で成績表を作成するのは、私にとって初めての経験でした。


特別支援学級では、ABCで成績をつけることは、ほとんどありません。それは、特別支援学級に在籍する児童は、その子一人ひとりの実態に応じた個別の指導計画を作成し、それに基づいた評価を行うからです。もちろん、指導目標や内容は学習指導要領に基づいて作成しますが、一人ひとりの置かれている特性や状況はさまざまです。知的に遅れをもつ児童や情緒が安定しない児童など、苦手な内容を学ぶときには基礎的な内容に的を絞ったり、下学年の内容を習熟することを目標に設定したりして、その子にとってちょうど良い目標を定めます。それを保護者や本人と一緒に決定して、一人ひとりにあった指導計画を作成します。その目標に合わせて達成状況を評価するため、一般学級のように一律の観点別の成績(ABC)をつけることはありません。


(学校や自治体によっては、交流している教科の成績を出されるところもあります。本人や保護者が希望すれば観点別評価をもらえる学校もあり、実態はさまざまです。)


本校の特別支援学級の成績表は、数字や記号ではなく、教科や領域によって枠のある記述式の評価でした。なので、その子の良さが発揮された活動場面がふんだんに書かれています。特別支援学級の担任だったときには、口頭でもその子の活躍を伝える取り組みを行い、照れ笑いを浮かべる子どもたち一人ひとりに成績表(成績はないので成績表という表現が適切ではないかもしれません)を手渡しました。成績表は、その子のがんばりを認めるような温かいものとなりました。


今年度は6年ぶりの一般学級担任です。気の進まない思いで成績をつけました。「成績をつけることが大好きだ」と言っている教師を、私は見たことがありません。教師を仕事にしている人の誰もが、成績をつけることに対して、前向きになれない気持ちで、決められた仕事だから仕方なくやっていることだと思います。


もちろん、最大限に所見欄に子どもたちのがんばった姿を盛り込んで、それを読んだ家族から子どもが食卓で褒められる姿をイメージしながら書きました。宮沢賢治のペア読書でどれほどに挑戦できたのか、社会科で問いを立てどんなよい発表ができたのか、一人ひとり丁寧に描きました。それでも、各教科の3観点のABCの羅列に、子どもたちもその家族も、目を奪われてしまいます。現実問題、大盤振る舞いでAばかりをつけるわけにはいきません。中にはCをつけなければならない子もいます。どんなに素晴らしいエピソードを所見欄で語ることができたとしても、ABCによってその物語は一瞬にして崩壊してしまうような気がしています。


朝日を浴びる北穂高岳


久々の成績の世界で聞いた言説



3観点での成績をつけるにあたって、これまでの旧来の観点でしか成績表を作ったことのない私にとって、初めて聞いた考えと出会うことになりました。

「知識・技能」がAでないと、「思考・判断・表現」はAにならない

「主体的に学習に取り組む態度」だけがAになるということはない


これらの考えは、各評価の観点は「主体的な学習に取り組む態度」を頂点に、「思考・判断・表現」の下に「知識・技能」が位置するという従属関係にあることを示しています。つまり、知識・技能が優秀でないと、他の観点でも優秀でないことを示し、各観点が独立的ではないことになります。

(この評価についての考え方の根拠は、学習指導要領の総則編や国立教育政策研究所「『指導と評価の一体化』のための学習評価に関する参考資料」などに登場する「「思考力・判断力・表現力等」は「知識や技能を活用して課題を解決するために必要な力」」という定義に基づいているようです。)


たしかに、まったく関係がないことはないでしょう。語彙が豊かな子どもはおそらく、根拠をしっかり示した論理的な文章を書くことができる可能性は高いでしょう。そして、そういう子は、振り返りをしながらもっと良い言葉がないか、もっと伝わる事例はないか、自分の学習を調整してよりよい学びに修正することができるかもしれません。


しかし、たとえ言語技術が未熟だったとしても、文章作成の目的をしっかり捉え、一貫した考えを資料を生かして書けていたとすれば、「知識・技能」が優れていなくても、「思考・判断・表現」は優れていると評定されるかもしれません。また、振り返りを主体的に行いながら自己調整を繰り返し、稚拙ではあっても粘り強く自分の作文と向き合い続ける子どもがいれば、「主体的に学習に取り組む態度」だけは優秀ということにはならないのでしょうか。(しかし、残念ながら自己調整や粘り強さが成果に結びついていないという点では、教師の支援が必要な状況であることは否めません)成績作業を進めながら、その考えについての疑問を解くことができませんでした。


また、この評定の考え方に起きる別の問題もあります。この考え方をきちんと踏襲すると、Aが一つの教科、または特定の子どもに集中してしまいます。その逆に、この考え方をCの評定にも当てはめるならば、Cが集中してしまう子どももでてきます。成績表を見て、Aがたくさんあるという理由で喜び、Cがたくさんだという理由で意欲を無くす。所見にどんな素敵なエピソードが書かれていようとも、ABCの魔物は5年前よりもさらに恐ろしい姿にパワーアップしているように思えました。


決してこの評定に対する考え方は強制されるものではありませんでしたし、学校経営計画等の文書にしっかり記載されているものでもありませんでしたが、なんとなく先生たちから聞くこの考え方に、私は困ってしまいました。私たちの学年では各クラスの担任の対話を通して、上にあげた従属的観点別評価の視点の妥当性を一部認めつつも、「絶対ではないよね」という共通認識をもつことができました。

夕闇の中の雲の平山荘



成績をつけるという仕事、やっぱり変えなくちゃいけない



やはり、評価・評定は変わらなければならないように思います。例えば特別支援学級のように、記述式の評価のみにして、子どもの頑張りを認める機会にしたりすることもできるでしょう。一部の学校では、ABCの成績を子どもに渡さないという方針をとっているところもあるそうです。(法令上は、指導要録作成の必要があるので、そのあたりはどうしているのか、私もわかりません)また、令和7年7月に出された教育課程企画特別部会 第10回の資料の中には、「主体的に学習に取り組む態度」を「個人内評価」にする案が検討されています。子どもの主体性は最も大切な資質・能力であることは変わりませんので、それが維持されるのであれば、この方向性には共感しています。


評価とは、教師と子どものこれからの学習のための作戦会議であると思っています。子どもは励まされたり、これからの学習の役に立ったりして、さらにやる気になる評価が、本当の評価なのではないでしょうか? この考えに立てば、子どもも自分から他者に評価をもらいに行ったり、または自分で自分のことを評価するものが本物の評価です。教師も、私のようにためらいながら評価するものは本物の評価ではなく、子どものためにも、自分のためにも、積極的に行いたくなるものが評価のはずです。その評価の集積が総括されて評定になるのであれば、評定はその総括や表現の方法が間違っているのではないかと思います。


どうして本来の評価と評定のための評価にズレができてしまうのでしょうか? そこには、子どもと教師の間にさまざまなズレがあり、そのズレの橋渡しをできていないからであるように思います。

双六池にうつる夕焼け



子どもと教師の間にある評価・評定に関するズレ

  • 子どもは作品や作品作りについて助言や励ましをもらいたい
    • 教師はその作品の奥にある子どもの書く力を評定しなければならない

  • 子どもは様々な力を使って書くことを行っている
    • 教師はその単元の中で特定の限定された書く力を評定しなければならない
  • 子どもはその日その時、またはテーマや文種などによって、書く力はまちまちで一定ではない
    • 教師はその単元で発露された子どもの書く力だけを一般化して評定しなければならない
  • 子どもは自分の力をどうやって評定されるのか、説明を受けていない
    • 教師は評定するという威圧的な側面を隠しながら、それでも評定をしなければならない
  • 子どもは自分の力を評定されることを望んでいない
    • 教師は子どもの力を評定しなければならない
  • 子どもは自分の力が高まっていることを温かい言葉を通じて知りたい
    • 教師はABCで子どもの力をつけなければならない



おそらく、子どもは、「書く力」「読む力」「知識」「思考」「粘り強さ」「自己調整」など、自分を分類され、あたかも自分が製品のように扱われているかのように感じているのだと思います。子どもは、バラバラに切り分けられた自分のパーツではなく、まるのまま、そのままを見て欲しいのではないでしょうか? 書く力の中でも、単元で狙った焦点に合わせて細分化され、それぞれの書く力がどのように関連しているのかも検証されず、一部分の書く力を取り上げて、「書く力」として概評し、さらにそれを「話すこと・聞くこと」、「読むこと」の概評と総合して、国語の「知識・理解」や「思考・判断・表現」としてABCがつけられる。教師でも何をABCで評定しているのか分かりませんから、子どもにとっても、自分が何が得意で何が苦手なのか、掴めないだろうと思います。


これでは、僕が大切にしている「子どもを知る」「子どもを認める」ということにつながりません。学習は子どもを知らないと機能することはありませんし、学習が深まっていけば、子どものことをもっと深く知ることにもなります。


参考:本ブログ 2025年3月28日金曜日投稿 「作家の時間を通じて、子どもを見る」

https://wwletter.blogspot.com/2025/03/blog-post_28.html


また、自己評価、自分を知ることについても深まりません。学習が深まっていけば、これまで見たことがなかった自分の新しい側面と出会い、自分のことをより深く理解し、または、どうにもならない自分と向き合うこともあるでしょう。自己評価をすること、自分への理解を深めることは、評価の観点には欠かすことのできないことです。


2025年6月27日金曜日投稿 「作家の時間で自己表現「『推し』の魅力を伝えよう」ユニットを振り返る」

https://wwletter.blogspot.com/2025/06/blog-post_27.html


紙幅が足りなくなってきたので、これについては拙著『読書家の時間』や『社会科ワークショップ』の評価の章をご覧いただければと思います。



「『推し』の魅力を伝えよう」の子どもたちの中には、こちらが何も言わなくても、友達同士で読みあって、お互いの「推し」の文章を認め合ったり、さらに書くと説得力が高まる内容を提案したりする姿が見られました。私のところにも何人も「先生読んでー」と来て、私の反応を確かめたりする姿がありました。あのような魅力的な姿に、評定を下す必要があるのかどうか、やはり私には、自分の中でどのように整理をしたら良いか分からないのが、この評価・評定の問題であります。


コマクサと槍ヶ岳