2025年9月20日土曜日

理解の種類の一つとしての「わかってもらう」こと

  『理解するってどういうこと?』は「誰もわかるってどういうことか教えてくれたことはなかったわ。」という小学校2年生のジャミカの言葉に、著者のエリンさんが答えるために書かれた本です。2021717日のこのページで取り上げた『ヒトの言葉 機械の言葉―「人工知能と話す」以前の言語学―』(角川新書、2021年)の著者川添愛さんの近刊は『「わかってもらう」ということ―他人と、そして自分とうまくやっていくための言葉の使い方―』(KADOKAWA2025年)では、「わかってもらう」ために何が必要なのかということが、わかりやすい言葉で丁寧に論じられています。

 川添さんは「わかってもらう」ことを、「言葉を使うことで、他の人たちと、そして自分自身とうまくやってくこと」と定義し、そのことは「言葉を使うことによって、自分と他人の両方が幸せになること」への「第一歩」だとしています(『「わかってもらう」ということ』、18ページ)。「わかる」ことと「わかってもらう」こととは対照的な行為ですが、考えようによっては、同じ行為の両面でもあります。いや、「わかってもらう」ために頭と心を使うことによって、「わかる」が生み出される関係にあると言ってもいい。あるいは、「わかってもらう」ための配慮をすることができるからこそ「他の人たち」や「自分自身」の言葉を「わかる」のではないか。この本を読んで、私はその思いを強くしました。

 たとえば本書の第一章「わかってもらうための大前提」には「相手がどこまで知っているかを考える」という節があります。「わかってもらう」ためには「相手がどこまで知っているかを考え」ながら話すことが重要だと言うのです。つまり、「相手はすでに知っている」ことを想定した話し方を心がるということです。

 

〈たとえば、今日雨が降ることを相手に伝えたいときに「今日、雨がふるらしいよ」という言い方をすると、こちらが「この人は今日雨が降ることを知らないんだろうな」と思っていることが相手に伝わってしまいます。文末の助詞「よ」は、「私はこのことを知っているが、相手はこのことを知らない」というときに使われることが多いからです。

 こういうときは「よ」ではなく、「ね」や「よね」など、別の助詞を使うという手があります。たとえば「今日は、雨が降るらしいね」のように言えば、もし相手がそのことを知っている場合は「そうらしいね」という答えが返ってきますし、知らなければ「へえ~、そうなんだ」というリアクションが返ってきます。〉(『「わかってもらう」ということ』、3536ページ)

 

 言語学者らしくきわめて繊細に文末の「助詞」に目を向けています。「今日、雨がふるらしいよ」と「今日は、雨が降るらしいね」とで何が違ってくるのか。聞き逃してしまいそうな、そしてどちらもあまり変わらないような表現です。川添さんの言うように、後者(「今日は、雨が降るらしいね」)と言われると、何か反応したくなるのは確かです。川添さんが例に挙げているような肯定的な反応もあるでしょうが、「別の天気予報では、今日はまだ降らないと言っていましたね」という反論も可能です。「今日、雨がふるらしいよ」は「対話」を誘いにくく独話に終わることが多いですが、「今日は、雨が降るらしいね」は「対話」を誘います。その「対話」のなかで、それまで考えていた以上に言うべきことを自分がもっていたことに、聞き手も話し手も気づくかもしれません。『理解するってどういうこと?』の第8章で取り上げられている「夢中で対話すること」という理解の種類にあてはまります。「わかってもらう」ための大前提の一つは「わかる」ための方法でもあるのです。

 もう一つ「質問」をめぐる考察を引用します。

 

〈質問をより具体的にすることで、質問された側が感じる負荷を下げることができます。そしてそのためには、質問をする前に、自分がいったい何を知りたいのかを突き詰めておく必要があります。つまり、「この書類はどうしたらいいのかな」といったぼんやりとした疑問をそのまま口にだすのではなく、「この書類について何が明らかになれば、私は次の行動を決められるだろう」と考えるのです。そうすれば、「この書類の保管場所がどこかが分かれば、そこに書類を置くことができるな」とか、「この書類を誰に渡せばいいかが分かれば、その人に渡すことができるな」など、自分の行動を決めるために必要な情報が見えてきます。「はい」か「いいえ」で答えるyes/no疑問文や、「誰」「何」「いつ」「どこ」を問うタイプの疑問文は、比較的答えやすいものです。その一方で、「どう」や「どのような」、「なぜ」と問うタイプの疑問文は相手を考え込ませてしまう可能性が高くなります。「どう」や「なぜ」は解釈の幅が大きいため、欲しい答えが返ってこないことがあります。〉(『「わかってもらう」ということ』、76ページ)

 

 『理解するってどういうこと?』の310ページ以降にはクララという先生による「質問する」という「理解のための方法」のミニ・レッスンが掲載されています。その先生も、『ルビー・ブリッジスの物語』を読み聞かせ、自分の頭のなかで起きたことを考え聞かせながら、さまざまな種類の質問をしていますが、とくに書き手が何を取り上げて、何を取り上げていないかということに子どもたちを注目させる質問も入れ込んでいます。書きたいことを「わかってもらう」ためにその物語の作者が何に頭を悩ませているかということにも、子どもたちが目を向けるようにしたのです。

 川添さんは、フィクションの書き方について述べているわけではありませんが、読み手や書き手に「わかってもらう」ためにどういうふうに言葉を使っていけばいいのかということについての作家の判断もまた、川添さんの言う「言葉を使うことによって、自分と他人の両方が幸せになること」を願うものであることは確かです。「わかってもらう」ための言葉の使い方を考え、学ぶことは、「わかる」とはどういうことなのかを深く知るためにとても大切なことだと思います。そうです、「わかってもらう」ことは、理解の種類の一つなのです。

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