2025年9月27日土曜日

成績ABCについての葛藤を言語化してみる

ABCの世界にカムバック


成績のシーズンが終わりました。今年は、久々の成績付けでした。2019年に一般学級の担任をしてから、その後の5年間は特別支援学級の担任をしていたので、3観点で成績表を作成するのは、私にとって初めての経験でした。


特別支援学級では、ABCで成績をつけることは、ほとんどありません。それは、特別支援学級に在籍する児童は、その子一人ひとりの実態に応じた個別の指導計画を作成し、それに基づいた評価を行うからです。もちろん、指導目標や内容は学習指導要領に基づいて作成しますが、一人ひとりの置かれている特性や状況はさまざまです。知的に遅れをもつ児童や情緒が安定しない児童など、苦手な内容を学ぶときには基礎的な内容に的を絞ったり、下学年の内容を習熟することを目標に設定したりして、その子にとってちょうど良い目標を定めます。それを保護者や本人と一緒に決定して、一人ひとりにあった指導計画を作成します。その目標に合わせて達成状況を評価するため、一般学級のように一律の観点別の成績(ABC)をつけることはありません。


(学校や自治体によっては、交流している教科の成績を出されるところもあります。本人や保護者が希望すれば観点別評価をもらえる学校もあり、実態はさまざまです。)


本校の特別支援学級の成績表は、数字や記号ではなく、教科や領域によって枠のある記述式の評価でした。なので、その子の良さが発揮された活動場面がふんだんに書かれています。特別支援学級の担任だったときには、口頭でもその子の活躍を伝える取り組みを行い、照れ笑いを浮かべる子どもたち一人ひとりに成績表(成績はないので成績表という表現が適切ではないかもしれません)を手渡しました。成績表は、その子のがんばりを認めるような温かいものとなりました。


今年度は6年ぶりの一般学級担任です。気の進まない思いで成績をつけました。「成績をつけることが大好きだ」と言っている教師を、私は見たことがありません。教師を仕事にしている人の誰もが、成績をつけることに対して、前向きになれない気持ちで、決められた仕事だから仕方なくやっていることだと思います。


もちろん、最大限に所見欄に子どもたちのがんばった姿を盛り込んで、それを読んだ家族から子どもが食卓で褒められる姿をイメージしながら書きました。宮沢賢治のペア読書でどれほどに挑戦できたのか、社会科で問いを立てどんなよい発表ができたのか、一人ひとり丁寧に描きました。それでも、各教科の3観点のABCの羅列に、子どもたちもその家族も、目を奪われてしまいます。現実問題、大盤振る舞いでAばかりをつけるわけにはいきません。中にはCをつけなければならない子もいます。どんなに素晴らしいエピソードを所見欄で語ることができたとしても、ABCによってその物語は一瞬にして崩壊してしまうような気がしています。


朝日を浴びる北穂高岳


久々の成績の世界で聞いた言説



3観点での成績をつけるにあたって、これまでの旧来の観点でしか成績表を作ったことのない私にとって、初めて聞いた考えと出会うことになりました。

「知識・技能」がAでないと、「思考・判断・表現」はAにならない

「主体的に学習に取り組む態度」だけがAになるということはない


これらの考えは、各評価の観点は「主体的な学習に取り組む態度」を頂点に、「思考・判断・表現」の下に「知識・技能」が位置するという従属関係にあることを示しています。つまり、知識・技能が優秀でないと、他の観点でも優秀でないことを示し、各観点が独立的ではないことになります。

(この評価についての考え方の根拠は、学習指導要領の総則編や国立教育政策研究所「『指導と評価の一体化』のための学習評価に関する参考資料」などに登場する「「思考力・判断力・表現力等」は「知識や技能を活用して課題を解決するために必要な力」」という定義に基づいているようです。)


たしかに、まったく関係がないことはないでしょう。語彙が豊かな子どもはおそらく、根拠をしっかり示した論理的な文章を書くことができる可能性は高いでしょう。そして、そういう子は、振り返りをしながらもっと良い言葉がないか、もっと伝わる事例はないか、自分の学習を調整してよりよい学びに修正することができるかもしれません。


しかし、たとえ言語技術が未熟だったとしても、文章作成の目的をしっかり捉え、一貫した考えを資料を生かして書けていたとすれば、「知識・技能」が優れていなくても、「思考・判断・表現」は優れていると評定されるかもしれません。また、振り返りを主体的に行いながら自己調整を繰り返し、稚拙ではあっても粘り強く自分の作文と向き合い続ける子どもがいれば、「主体的に学習に取り組む態度」だけは優秀ということにはならないのでしょうか。(しかし、残念ながら自己調整や粘り強さが成果に結びついていないという点では、教師の支援が必要な状況であることは否めません)成績作業を進めながら、その考えについての疑問を解くことができませんでした。


また、この評定の考え方に起きる別の問題もあります。この考え方をきちんと踏襲すると、Aが一つの教科、または特定の子どもに集中してしまいます。その逆に、この考え方をCの評定にも当てはめるならば、Cが集中してしまう子どももでてきます。成績表を見て、Aがたくさんあるという理由で喜び、Cがたくさんだという理由で意欲を無くす。所見にどんな素敵なエピソードが書かれていようとも、ABCの魔物は5年前よりもさらに恐ろしい姿にパワーアップしているように思えました。


決してこの評定に対する考え方は強制されるものではありませんでしたし、学校経営計画等の文書にしっかり記載されているものでもありませんでしたが、なんとなく先生たちから聞くこの考え方に、私は困ってしまいました。私たちの学年では各クラスの担任の対話を通して、上にあげた従属的観点別評価の視点の妥当性を一部認めつつも、「絶対ではないよね」という共通認識をもつことができました。

夕闇の中の雲の平山荘



成績をつけるという仕事、やっぱり変えなくちゃいけない



やはり、評価・評定は変わらなければならないように思います。例えば特別支援学級のように、記述式の評価のみにして、子どもの頑張りを認める機会にしたりすることもできるでしょう。一部の学校では、ABCの成績を子どもに渡さないという方針をとっているところもあるそうです。(法令上は、指導要録作成の必要があるので、そのあたりはどうしているのか、私もわかりません)また、令和7年7月に出された教育課程企画特別部会 第10回の資料の中には、「主体的に学習に取り組む態度」を「個人内評価」にする案が検討されています。子どもの主体性は最も大切な資質・能力であることは変わりませんので、それが維持されるのであれば、この方向性には共感しています。


評価とは、教師と子どものこれからの学習のための作戦会議であると思っています。子どもは励まされたり、これからの学習の役に立ったりして、さらにやる気になる評価が、本当の評価なのではないでしょうか? この考えに立てば、子どもも自分から他者に評価をもらいに行ったり、または自分で自分のことを評価するものが本物の評価です。教師も、私のようにためらいながら評価するものは本物の評価ではなく、子どものためにも、自分のためにも、積極的に行いたくなるものが評価のはずです。その評価の集積が総括されて評定になるのであれば、評定はその総括や表現の方法が間違っているのではないかと思います。


どうして本来の評価と評定のための評価にズレができてしまうのでしょうか? そこには、子どもと教師の間にさまざまなズレがあり、そのズレの橋渡しをできていないからであるように思います。

双六池にうつる夕焼け



子どもと教師の間にある評価・評定に関するズレ

  • 子どもは作品や作品作りについて助言や励ましをもらいたい
    • 教師はその作品の奥にある子どもの書く力を評定しなければならない

  • 子どもは様々な力を使って書くことを行っている
    • 教師はその単元の中で特定の限定された書く力を評定しなければならない
  • 子どもはその日その時、またはテーマや文種などによって、書く力はまちまちで一定ではない
    • 教師はその単元で発露された子どもの書く力だけを一般化して評定しなければならない
  • 子どもは自分の力をどうやって評定されるのか、説明を受けていない
    • 教師は評定するという威圧的な側面を隠しながら、それでも評定をしなければならない
  • 子どもは自分の力を評定されることを望んでいない
    • 教師は子どもの力を評定しなければならない
  • 子どもは自分の力が高まっていることを温かい言葉を通じて知りたい
    • 教師はABCで子どもの力をつけなければならない



おそらく、子どもは、「書く力」「読む力」「知識」「思考」「粘り強さ」「自己調整」など、自分を分類され、あたかも自分が製品のように扱われているかのように感じているのだと思います。子どもは、バラバラに切り分けられた自分のパーツではなく、まるのまま、そのままを見て欲しいのではないでしょうか? 書く力の中でも、単元で狙った焦点に合わせて細分化され、それぞれの書く力がどのように関連しているのかも検証されず、一部分の書く力を取り上げて、「書く力」として概評し、さらにそれを「話すこと・聞くこと」、「読むこと」の概評と総合して、国語の「知識・理解」や「思考・判断・表現」としてABCがつけられる。教師でも何をABCで評定しているのか分かりませんから、子どもにとっても、自分が何が得意で何が苦手なのか、掴めないだろうと思います。


これでは、僕が大切にしている「子どもを知る」「子どもを認める」ということにつながりません。学習は子どもを知らないと機能することはありませんし、学習が深まっていけば、子どものことをもっと深く知ることにもなります。


参考:本ブログ 2025年3月28日金曜日投稿 「作家の時間を通じて、子どもを見る」

https://wwletter.blogspot.com/2025/03/blog-post_28.html


また、自己評価、自分を知ることについても深まりません。学習が深まっていけば、これまで見たことがなかった自分の新しい側面と出会い、自分のことをより深く理解し、または、どうにもならない自分と向き合うこともあるでしょう。自己評価をすること、自分への理解を深めることは、評価の観点には欠かすことのできないことです。


2025年6月27日金曜日投稿 「作家の時間で自己表現「『推し』の魅力を伝えよう」ユニットを振り返る」

https://wwletter.blogspot.com/2025/06/blog-post_27.html


紙幅が足りなくなってきたので、これについては拙著『読書家の時間』や『社会科ワークショップ』の評価の章をご覧いただければと思います。



「『推し』の魅力を伝えよう」の子どもたちの中には、こちらが何も言わなくても、友達同士で読みあって、お互いの「推し」の文章を認め合ったり、さらに書くと説得力が高まる内容を提案したりする姿が見られました。私のところにも何人も「先生読んでー」と来て、私の反応を確かめたりする姿がありました。あのような魅力的な姿に、評定を下す必要があるのかどうか、やはり私には、自分の中でどのように整理をしたら良いか分からないのが、この評価・評定の問題であります。


コマクサと槍ヶ岳



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