2025年9月27日土曜日

成績ABCについての葛藤を言語化してみる

ABCの世界にカムバック


成績のシーズンが終わりました。今年は、久々の成績付けでした。2019年に一般学級の担任をしてから、その後の5年間は特別支援学級の担任をしていたので、3観点で成績表を作成するのは、私にとって初めての経験でした。


特別支援学級では、ABCで成績をつけることは、ほとんどありません。それは、特別支援学級に在籍する児童は、その子一人ひとりの実態に応じた個別の指導計画を作成し、それに基づいた評価を行うからです。もちろん、指導目標や内容は学習指導要領に基づいて作成しますが、一人ひとりの置かれている特性や状況はさまざまです。知的に遅れをもつ児童や情緒が安定しない児童など、苦手な内容を学ぶときには基礎的な内容に的を絞ったり、下学年の内容を習熟することを目標に設定したりして、その子にとってちょうど良い目標を定めます。それを保護者や本人と一緒に決定して、一人ひとりにあった指導計画を作成します。その目標に合わせて達成状況を評価するため、一般学級のように一律の観点別の成績(ABC)をつけることはありません。


(学校や自治体によっては、交流している教科の成績を出されるところもあります。本人や保護者が希望すれば観点別評価をもらえる学校もあり、実態はさまざまです。)


本校の特別支援学級の成績表は、数字や記号ではなく、教科や領域によって枠のある記述式の評価でした。なので、その子の良さが発揮された活動場面がふんだんに書かれています。特別支援学級の担任だったときには、口頭でもその子の活躍を伝える取り組みを行い、照れ笑いを浮かべる子どもたち一人ひとりに成績表(成績はないので成績表という表現が適切ではないかもしれません)を手渡しました。成績表は、その子のがんばりを認めるような温かいものとなりました。


今年度は6年ぶりの一般学級担任です。気の進まない思いで成績をつけました。「成績をつけることが大好きだ」と言っている教師を、私は見たことがありません。教師を仕事にしている人の誰もが、成績をつけることに対して、前向きになれない気持ちで、決められた仕事だから仕方なくやっていることだと思います。


もちろん、最大限に所見欄に子どもたちのがんばった姿を盛り込んで、それを読んだ家族から子どもが食卓で褒められる姿をイメージしながら書きました。宮沢賢治のペア読書でどれほどに挑戦できたのか、社会科で問いを立てどんなよい発表ができたのか、一人ひとり丁寧に描きました。それでも、各教科の3観点のABCの羅列に、子どもたちもその家族も、目を奪われてしまいます。現実問題、大盤振る舞いでAばかりをつけるわけにはいきません。中にはCをつけなければならない子もいます。どんなに素晴らしいエピソードを所見欄で語ることができたとしても、ABCによってその物語は一瞬にして崩壊してしまうような気がしています。


朝日を浴びる北穂高岳


久々の成績の世界で聞いた言説



3観点での成績をつけるにあたって、これまでの旧来の観点でしか成績表を作ったことのない私にとって、初めて聞いた考えと出会うことになりました。

「知識・技能」がAでないと、「思考・判断・表現」はAにならない

「主体的に学習に取り組む態度」だけがAになるということはない


これらの考えは、各評価の観点は「主体的な学習に取り組む態度」を頂点に、「思考・判断・表現」の下に「知識・技能」が位置するという従属関係にあることを示しています。つまり、知識・技能が優秀でないと、他の観点でも優秀でないことを示し、各観点が独立的ではないことになります。

(この評価についての考え方の根拠は、学習指導要領の総則編や国立教育政策研究所「『指導と評価の一体化』のための学習評価に関する参考資料」などに登場する「「思考力・判断力・表現力等」は「知識や技能を活用して課題を解決するために必要な力」」という定義に基づいているようです。)


たしかに、まったく関係がないことはないでしょう。語彙が豊かな子どもはおそらく、根拠をしっかり示した論理的な文章を書くことができる可能性は高いでしょう。そして、そういう子は、振り返りをしながらもっと良い言葉がないか、もっと伝わる事例はないか、自分の学習を調整してよりよい学びに修正することができるかもしれません。


しかし、たとえ言語技術が未熟だったとしても、文章作成の目的をしっかり捉え、一貫した考えを資料を生かして書けていたとすれば、「知識・技能」が優れていなくても、「思考・判断・表現」は優れていると評定されるかもしれません。また、振り返りを主体的に行いながら自己調整を繰り返し、稚拙ではあっても粘り強く自分の作文と向き合い続ける子どもがいれば、「主体的に学習に取り組む態度」だけは優秀ということにはならないのでしょうか。(しかし、残念ながら自己調整や粘り強さが成果に結びついていないという点では、教師の支援が必要な状況であることは否めません)成績作業を進めながら、その考えについての疑問を解くことができませんでした。


また、この評定の考え方に起きる別の問題もあります。この考え方をきちんと踏襲すると、Aが一つの教科、または特定の子どもに集中してしまいます。その逆に、この考え方をCの評定にも当てはめるならば、Cが集中してしまう子どももでてきます。成績表を見て、Aがたくさんあるという理由で喜び、Cがたくさんだという理由で意欲を無くす。所見にどんな素敵なエピソードが書かれていようとも、ABCの魔物は5年前よりもさらに恐ろしい姿にパワーアップしているように思えました。


決してこの評定に対する考え方は強制されるものではありませんでしたし、学校経営計画等の文書にしっかり記載されているものでもありませんでしたが、なんとなく先生たちから聞くこの考え方に、私は困ってしまいました。私たちの学年では各クラスの担任の対話を通して、上にあげた従属的観点別評価の視点の妥当性を一部認めつつも、「絶対ではないよね」という共通認識をもつことができました。

夕闇の中の雲の平山荘



成績をつけるという仕事、やっぱり変えなくちゃいけない



やはり、評価・評定は変わらなければならないように思います。例えば特別支援学級のように、記述式の評価のみにして、子どもの頑張りを認める機会にしたりすることもできるでしょう。一部の学校では、ABCの成績を子どもに渡さないという方針をとっているところもあるそうです。(法令上は、指導要録作成の必要があるので、そのあたりはどうしているのか、私もわかりません)また、令和7年7月に出された教育課程企画特別部会 第10回の資料の中には、「主体的に学習に取り組む態度」を「個人内評価」にする案が検討されています。子どもの主体性は最も大切な資質・能力であることは変わりませんので、それが維持されるのであれば、この方向性には共感しています。


評価とは、教師と子どものこれからの学習のための作戦会議であると思っています。子どもは励まされたり、これからの学習の役に立ったりして、さらにやる気になる評価が、本当の評価なのではないでしょうか? この考えに立てば、子どもも自分から他者に評価をもらいに行ったり、または自分で自分のことを評価するものが本物の評価です。教師も、私のようにためらいながら評価するものは本物の評価ではなく、子どものためにも、自分のためにも、積極的に行いたくなるものが評価のはずです。その評価の集積が総括されて評定になるのであれば、評定はその総括や表現の方法が間違っているのではないかと思います。


どうして本来の評価と評定のための評価にズレができてしまうのでしょうか? そこには、子どもと教師の間にさまざまなズレがあり、そのズレの橋渡しをできていないからであるように思います。

双六池にうつる夕焼け



子どもと教師の間にある評価・評定に関するズレ

  • 子どもは作品や作品作りについて助言や励ましをもらいたい
    • 教師はその作品の奥にある子どもの書く力を評定しなければならない

  • 子どもは様々な力を使って書くことを行っている
    • 教師はその単元の中で特定の限定された書く力を評定しなければならない
  • 子どもはその日その時、またはテーマや文種などによって、書く力はまちまちで一定ではない
    • 教師はその単元で発露された子どもの書く力だけを一般化して評定しなければならない
  • 子どもは自分の力をどうやって評定されるのか、説明を受けていない
    • 教師は評定するという威圧的な側面を隠しながら、それでも評定をしなければならない
  • 子どもは自分の力を評定されることを望んでいない
    • 教師は子どもの力を評定しなければならない
  • 子どもは自分の力が高まっていることを温かい言葉を通じて知りたい
    • 教師はABCで子どもの力をつけなければならない



おそらく、子どもは、「書く力」「読む力」「知識」「思考」「粘り強さ」「自己調整」など、自分を分類され、あたかも自分が製品のように扱われているかのように感じているのだと思います。子どもは、バラバラに切り分けられた自分のパーツではなく、まるのまま、そのままを見て欲しいのではないでしょうか? 書く力の中でも、単元で狙った焦点に合わせて細分化され、それぞれの書く力がどのように関連しているのかも検証されず、一部分の書く力を取り上げて、「書く力」として概評し、さらにそれを「話すこと・聞くこと」、「読むこと」の概評と総合して、国語の「知識・理解」や「思考・判断・表現」としてABCがつけられる。教師でも何をABCで評定しているのか分かりませんから、子どもにとっても、自分が何が得意で何が苦手なのか、掴めないだろうと思います。


これでは、僕が大切にしている「子どもを知る」「子どもを認める」ということにつながりません。学習は子どもを知らないと機能することはありませんし、学習が深まっていけば、子どものことをもっと深く知ることにもなります。


参考:本ブログ 2025年3月28日金曜日投稿 「作家の時間を通じて、子どもを見る」

https://wwletter.blogspot.com/2025/03/blog-post_28.html


また、自己評価、自分を知ることについても深まりません。学習が深まっていけば、これまで見たことがなかった自分の新しい側面と出会い、自分のことをより深く理解し、または、どうにもならない自分と向き合うこともあるでしょう。自己評価をすること、自分への理解を深めることは、評価の観点には欠かすことのできないことです。


2025年6月27日金曜日投稿 「作家の時間で自己表現「『推し』の魅力を伝えよう」ユニットを振り返る」

https://wwletter.blogspot.com/2025/06/blog-post_27.html


紙幅が足りなくなってきたので、これについては拙著『読書家の時間』や『社会科ワークショップ』の評価の章をご覧いただければと思います。



「『推し』の魅力を伝えよう」の子どもたちの中には、こちらが何も言わなくても、友達同士で読みあって、お互いの「推し」の文章を認め合ったり、さらに書くと説得力が高まる内容を提案したりする姿が見られました。私のところにも何人も「先生読んでー」と来て、私の反応を確かめたりする姿がありました。あのような魅力的な姿に、評定を下す必要があるのかどうか、やはり私には、自分の中でどのように整理をしたら良いか分からないのが、この評価・評定の問題であります。


コマクサと槍ヶ岳



2025年9月20日土曜日

理解の種類の一つとしての「わかってもらう」こと

  『理解するってどういうこと?』は「誰もわかるってどういうことか教えてくれたことはなかったわ。」という小学校2年生のジャミカの言葉に、著者のエリンさんが答えるために書かれた本です。2021717日のこのページで取り上げた『ヒトの言葉 機械の言葉―「人工知能と話す」以前の言語学―』(角川新書、2021年)の著者川添愛さんの近刊は『「わかってもらう」ということ―他人と、そして自分とうまくやっていくための言葉の使い方―』(KADOKAWA2025年)では、「わかってもらう」ために何が必要なのかということが、わかりやすい言葉で丁寧に論じられています。

 川添さんは「わかってもらう」ことを、「言葉を使うことで、他の人たちと、そして自分自身とうまくやってくこと」と定義し、そのことは「言葉を使うことによって、自分と他人の両方が幸せになること」への「第一歩」だとしています(『「わかってもらう」ということ』、18ページ)。「わかる」ことと「わかってもらう」こととは対照的な行為ですが、考えようによっては、同じ行為の両面でもあります。いや、「わかってもらう」ために頭と心を使うことによって、「わかる」が生み出される関係にあると言ってもいい。あるいは、「わかってもらう」ための配慮をすることができるからこそ「他の人たち」や「自分自身」の言葉を「わかる」のではないか。この本を読んで、私はその思いを強くしました。

 たとえば本書の第一章「わかってもらうための大前提」には「相手がどこまで知っているかを考える」という節があります。「わかってもらう」ためには「相手がどこまで知っているかを考え」ながら話すことが重要だと言うのです。つまり、「相手はすでに知っている」ことを想定した話し方を心がるということです。

 

〈たとえば、今日雨が降ることを相手に伝えたいときに「今日、雨がふるらしいよ」という言い方をすると、こちらが「この人は今日雨が降ることを知らないんだろうな」と思っていることが相手に伝わってしまいます。文末の助詞「よ」は、「私はこのことを知っているが、相手はこのことを知らない」というときに使われることが多いからです。

 こういうときは「よ」ではなく、「ね」や「よね」など、別の助詞を使うという手があります。たとえば「今日は、雨が降るらしいね」のように言えば、もし相手がそのことを知っている場合は「そうらしいね」という答えが返ってきますし、知らなければ「へえ~、そうなんだ」というリアクションが返ってきます。〉(『「わかってもらう」ということ』、3536ページ)

 

 言語学者らしくきわめて繊細に文末の「助詞」に目を向けています。「今日、雨がふるらしいよ」と「今日は、雨が降るらしいね」とで何が違ってくるのか。聞き逃してしまいそうな、そしてどちらもあまり変わらないような表現です。川添さんの言うように、後者(「今日は、雨が降るらしいね」)と言われると、何か反応したくなるのは確かです。川添さんが例に挙げているような肯定的な反応もあるでしょうが、「別の天気予報では、今日はまだ降らないと言っていましたね」という反論も可能です。「今日、雨がふるらしいよ」は「対話」を誘いにくく独話に終わることが多いですが、「今日は、雨が降るらしいね」は「対話」を誘います。その「対話」のなかで、それまで考えていた以上に言うべきことを自分がもっていたことに、聞き手も話し手も気づくかもしれません。『理解するってどういうこと?』の第8章で取り上げられている「夢中で対話すること」という理解の種類にあてはまります。「わかってもらう」ための大前提の一つは「わかる」ための方法でもあるのです。

 もう一つ「質問」をめぐる考察を引用します。

 

〈質問をより具体的にすることで、質問された側が感じる負荷を下げることができます。そしてそのためには、質問をする前に、自分がいったい何を知りたいのかを突き詰めておく必要があります。つまり、「この書類はどうしたらいいのかな」といったぼんやりとした疑問をそのまま口にだすのではなく、「この書類について何が明らかになれば、私は次の行動を決められるだろう」と考えるのです。そうすれば、「この書類の保管場所がどこかが分かれば、そこに書類を置くことができるな」とか、「この書類を誰に渡せばいいかが分かれば、その人に渡すことができるな」など、自分の行動を決めるために必要な情報が見えてきます。「はい」か「いいえ」で答えるyes/no疑問文や、「誰」「何」「いつ」「どこ」を問うタイプの疑問文は、比較的答えやすいものです。その一方で、「どう」や「どのような」、「なぜ」と問うタイプの疑問文は相手を考え込ませてしまう可能性が高くなります。「どう」や「なぜ」は解釈の幅が大きいため、欲しい答えが返ってこないことがあります。〉(『「わかってもらう」ということ』、76ページ)

 

 『理解するってどういうこと?』の310ページ以降にはクララという先生による「質問する」という「理解のための方法」のミニ・レッスンが掲載されています。その先生も、『ルビー・ブリッジスの物語』を読み聞かせ、自分の頭のなかで起きたことを考え聞かせながら、さまざまな種類の質問をしていますが、とくに書き手が何を取り上げて、何を取り上げていないかということに子どもたちを注目させる質問も入れ込んでいます。書きたいことを「わかってもらう」ためにその物語の作者が何に頭を悩ませているかということにも、子どもたちが目を向けるようにしたのです。

 川添さんは、フィクションの書き方について述べているわけではありませんが、読み手や書き手に「わかってもらう」ためにどういうふうに言葉を使っていけばいいのかということについての作家の判断もまた、川添さんの言う「言葉を使うことによって、自分と他人の両方が幸せになること」を願うものであることは確かです。「わかってもらう」ための言葉の使い方を考え、学ぶことは、「わかる」とはどういうことなのかを深く知るためにとても大切なことだと思います。そうです、「わかってもらう」ことは、理解の種類の一つなのです。

2025年9月12日金曜日

The Artful Read-Aloud: 10 Principles to Inspire, Engage, and Transform Learning (『心を動かす読み聞かせ―学びを刺激し、引き込み、変革する10の原則』)レベッカ・ベリングハム著のレビュー

 このレビューを書いたのは、中学校で国語を教えるジェニー・ランドール先生です。

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私は本を読むのが大好きです。財布やスマホ、鍵を持たずに家を出るなんて考えられないのと同じで、本を持たずに出かけるなんてありえません。ところが、私の中学校のクラスで読み聞かせを続けるのはとても難しいと感じてきました。そんな思いから、レベッカ・ベリングハムの著書『The Artful Read-Aloud』を手に取りました。

ちょうどこの本を読み進めていたころ、私の教師としての日常が一気に崩れました。世界中の学校と同じように、私の学校も閉鎖になったのです(4年半ほど前の話です!)。離れ離れになった生徒たちとつながり続け、学びを続ける方法を探しながら過ごしました。そんな中で「読み聞かせ」についての本を読むのは、なんだか皮肉なことのように感じました。

でも、毎晩『The Artful Read-Aloud』に戻るうちに、読み聞かせが不安定な時期にどれほど強力なツールになるかに気づきました。物語は、時間も距離も越えて私たちをつなげてくれるのです。だから、私が生徒たちのために撮った最初の動画は読み聞かせでした。そして気づいたのです——私は流暢に、感情を込めて読むことはできるけれど、まだまだ学ぶべきことがたくさんある、と。

ベリングハムは本書を、「生徒の心を動かす読み聞かせのための10の原則」を中心に構成しています。たとえば「本文になりきる(Embody the Text)」「顔を上げて読む(Look Up)」「(生徒たちの本に関する)会話を引き出す(Invite Conversation)」といった原則です。それぞれの原則には、具体的なコツが例や写真とともに紹介されています。

読み聞かせで実際に使える資料――アンカーチャート、グラフィック・オーガナイザー、本文への書き込み例――も掲載されていて、読者が具体的な場面をイメージしやすくなっています。ベリングハムは、生徒への読み聞かせの経験、教師へのコーチング★経験、そして女優やリテラシー・コーチ★としてのキャリアから得た知見を惜しみなく紹介しています。

 

国語の授業を超えて

ベリングハムは、読み聞かせがリーディングとライティング・ワークショップを支える方法を示すだけでなく、国語以外の授業にも広げて考えています。

たとえば、第七の原則「驚きを大切に(Be Awed)」では、生徒を「わくわくさせる」ことを勧めています。「理科や社会などのユニットの導入で絵本を使えば、生徒の興味を一気に引き出し、すぐに背景知識を与えることができます」(p.91)。

昨年の秋、私は個人叙述のユニットで、6年生(アメリカでは中学1年生)のクラスにジャクリーン・ウッドソンの『Brown Girl Dreaming』(わたしは夢を見つづける ジャクリーン・ウッドソン作 ; さくまゆみこ訳  小学館 2021年)を読み始めました。私の落とし穴の一つは、読みながら自分の思考をすべて声に出して説明してしまったこと★★です。ある日読み始めたとき、生徒の一人が「先生、ただ読んでくれますか?」と尋ねました。「あれこれしゃべらずに?」と、私が言葉を補いました。恥ずかしくなって、そのあとはウッドソンの美しい作品そのものに語らせました。だからこそ、ベリングハムが「読むこと」と「語ること」のバランスについて丁寧に考察している部分が、とてもありがたく感じられました。

The Artful Read-Aloud』を読み終えたあと、私はパム・ムニョス・ライアンの『Mañanaland』(明日の国  パム・ムニョス・ライアン著 ; 中野怜奈訳  静山社, 2022年)を読み始めました。すると、物語を主役に据えつつ、生徒たちを引き込むチャンスを探しながら読む、自分の読み方が変わっていることに気づきました。

第四の原則「顔を上げて読む(Look Up)」で、ベリングハムはこう提案しています。「子どもたちを共演者にすることで、場面のドラマ性が高まり、子どもたちは場面の細やかなニュアンスにアクセスできるようになります」(p.59)。私も読みながら、どこで立ち止まり会話を促すかを探しましたが、それは慎重に選ばなければならないと感じました。

ベリングハムは、授業での対話を支えるためのツールも用意しています。読み聞かせ以外の場面でも使えるコツや発問が紹介されているのです。中でも秀逸なのが、文章の難易度別に整理された質問の一覧表(p.68)。また、「正しいかどうかをすぐに言わないで待つ」(p.50)といった対話のヒントや、理解に苦しむ生徒をうまく導くための工夫など、授業全般に応用できるアイディアも多く紹介されています。

 

日々の授業準備を超えて

教師に役立つのは、授業準備を導くための工夫も紹介されている点です。たとえば、「子どもの本を読むときに心に留めておきたい意味づけのための質問リスト」(p.38)、自分自身の読書生活を豊かにするための方法、そして厳選された読み聞かせ向けテキストのリスト(引用文献一覧 p.152)などです。

ベリングハムがもっとも私を惹きつけたのは、彼女自身の学びの旅、迷いや成長を正直に見せてくれる部分でした。たとえば「ひと呼吸おいて(Take a Breath)」という章では、忙しさについてこう書いています。「忙しさは、私自身、人としても、友人としても、もちろん母親としても、そしていつも教師としても、取り組んでいる課題です。」

一方で、この本にはとても深い思索と共感に満ちた部分もあります。読み聞かせが、教師とすべての生徒とのつながりをつくり、学年相応の読書力に達していない生徒にも公平な学びの場を提供する方法について語る中で、ベリングハムはこう述べています。「読み聞かせをすると、どんな日でも、たとえちょっとやっかいな気分の子や問題を抱えている子でも、私はもう一度、彼らを愛おしいと感じられるのです」(p.60)。

第八の原則「深く掘り下げる:公平性・行動・変革を育む(Dig Deep: Promoting equity, action, and change)」では、読み聞かせを通して「社会正義のための教育」を支える方法を探ります。ベリングハムは「自分の視点が限られていることを認めつつ、複雑な会話の場を設ける」ことで、生徒と一緒に難しいテーマに向き合うための具体的な方法を提示しています。

私自身も、深呼吸して覚悟を決め、Google Meetや録画動画を使って『Mañanaland(明日の国)』を生徒たちに読み聞かせ始めました。第1章では2回立ち止まり、生徒たちが感想を書き込める時間を取りました。ペアトークではなく、チャット欄に生徒の言葉が次々と流れました。本を閉じたとき、私は生徒たちの表情に気づきました。それは、少なくともその瞬間だけは、彼らが別の世界へ旅していたことを示す表情でした。そして私は改めて思ったのです——読み聞かせは確かに「安心感とつながり、そして最終的には愛の源」なのだと(p.61)。

 

★コーチおよびコーチングに興味のある方は、10月に出版予定の『インストラクショナル・コーチング』と『The Art of Coaching(邦訳タイトル未定)』を参照してください。欧米では、過去20年ぐらいの間に、学校や授業改善に欠かせない存在になっています。

★★「考え聞かせ」という方法です。詳しくは、『読み聞かせは魔法!』を参照ください。しかし、ここに書いてあるように、やりすぎると問題があります。逆に、ほどほどだと効果があります(特に、ノンフィクション系で有効と言えるかもしれません)。

出典:https://www.middleweb.com/43154/ten-principles-of-artful-read-alouds/

10 Principles Read-Aloud また、10の原則については、https://blog.heinemann.com/10-principles-of-artful-teachingを参照。

2025年9月5日金曜日

国語で一番大切なのは、生徒一人ひとりが(正解を言えることではなく!)自分で読み書き続ける力を育むこと★4

 タラ・バーネット先生とケイト・ミルズ先生はニュージャージー州で国語を教える教師(ケイトは、現在は読み書きのコーチ)です。二人が特に好きだったのは、協力してティーム・ティーチングをした年でした。教師としても生徒としても、協働がもたらす大きな力を実感できたからです。二人はhttps://taraandkate.wordpress.com/ というブログを一緒に運営しています。

  *****

「ひたすら読む時間」は、私たちのリテラシーの授業(日本の国語の授業)の命綱です。私たちは、尊敬し学び続けている教育者(や本の虫)たちと同じように、「生徒に合った本」「読む時間」「読んだことに反応する時間とその方法を学ぶ機会」を与えれば、生徒は情熱的で好奇心あふれた読み手/学び手になると強く信じています。

しかし残念なことに、アメリカ心理学会(APA)の調査などを見ると、10代の読書習慣は急激に減少しています。1970年代後半には、12年生(日本の高校3年生)の60%が「ほぼ毎日、本や雑誌を読んでいる」と答えていましたが、2016年にはわずか16%にまで減ってしまいました。さらに、2016年の調査では12年生のおよそ3分の1が「この1年間に一度も読書をしなかった」と答えており、これは1970年代のほぼ3倍です。★1

こうした統計を見ると、私たちはなおさら、生徒たちが自主的に読む生活を大切に育てたいと強く思います。そのために、私たちが実践しているいくつかの方法を以下に紹介します。

クラスメイトがすすめる本

私たちは、リテラシー(国語)の授業のそれぞれのクラスに「リーダーズ・チョイス(読み手が選んだ本)」と書いたかごを置いています。23週間ごとに、一人の生徒を選んで、その生徒が自分のおすすめ本を23冊選び、なぜその本をすすめるのかを簡単に書いた付箋を表紙の内側に貼ってもらいます。昨年は、『The Hate U Give』(邦訳、『ザ・ヘイト・ユー・ギヴ : あなたがくれた憎しみ』アンジー・トーマス作、服部理佳訳、岩崎書店、2018年)がこのかごに入ったのをきっかけに、何冊も買い足すことになりました。実際のところ、生徒たちはクラスメイトのおすすめをとても信頼しているのです。

〇シドニーがすすめる2冊の本 (写真参照)

〇『ミラクルズボーイズ』(ジャクリーン・ウッドソン作、さくまゆみこ訳、さわだとしき絵、理論社、2002年)の表紙の内側に、シドニーが書いた短いレビューがあります。


レビューの訳:シドニーのおすすめ

Feathers』は気に入りましたか?
同じジャクリーン・ウッドソンの作品なので、『ミラクルズボーイズ』もきっと気に入ると思います。
もしお母さんが亡くなって、お兄ちゃんがあなたの面倒をみなきゃいけなくなったらと想像してみてください。(続きは本の中で)

読んだ本への反応の仕方:

本を読むのは好きなのに、読んだことについて書く意味がよくわからない生徒は少なくありません。私たちもその気持ちはわかります。夏に海辺で本を読んでいるとき、わざわざ感想を書いたりはしませんから。

でも、これまでの経験から、読んだことについて書くと、その本から受け取った印象や考えがより深く、長く残ることもわかっています。

私たちは短い文章や長編小説を読むとき、読んだことへの反応の仕方を示し、生徒にいろいろな反応の仕方の選択肢リストも渡しています(以下の質問を参照)。すべての方法を毎回使う必要はありませんが、この「選べるメニュー」があることで、生徒は自分らしい、本物らしい方法で読んだことに反応できるようになるのです。

読んでいるときに考える質問
読んだことについて何を書けばいいか迷ったら、以下の質問をヒントにしてみましょう。質問をページのいちばん上に書いて、それについて自分の考えを広げていきます。

  1. 登場人物をひとり選ぶ。この人と友達になりたい? それはなぜ? それともなりたくない? その理由は?
  2. 本を読むことは、今まで知っていることを深めたり、新しい見方をくれたりして、あなたの考えをゆさぶるものです。次の文のどれかを使って、考えを書き出してみましょう。
    • この本を読んでから
    • この本を読んでいて、私の考えが変わったのは
  3. 「黄金の一文」と思える行はある? なぜその一文が特別?
  4. 主人公と自分に共通するところは? 逆に、主人公と自分とでまったく違うところは?(たとえば、主人公がどんなふうに問題を解決したか、それを自分ならどうするかを比べてみる)
  5. 舞台はどんな場所? 自分の生活の場とどう違う? どんなところが同じ?
  6. もしその本の舞台に行けるとしたら、どんな感じ? どんな景色や雰囲気?
  7. この本のいちばん大事なメッセージを表すワンシーンを、150字以内で書いてみよう。
  8. 今読んでいる本を表すのにぴったりな言葉を三つ選んでみよう。それを選んだ理由も書こう。
  9. 本の新しい表紙をスケッチして、出てきたテーマを表そう。
  10. この本で特に大事だと思う言葉は何? その言葉を使って詩を書こう。(たとえば、やなせたかしの詩のように)

「本の世界に入ったらどこにいる?」掲示板

Goodreads★2のX(旧Twitter)アカウントでは、「もし今読んでいる本の舞台にいるとしたら、どこにいる?」という投稿がよく流れてきます。私たちはこのアイディアがとても気に入り、教室の掲示板に取り入れました。掲示板は数週間ごとに更新し、付箋で飾っています。

生徒は自分の本の舞台を書き、時々、掲示板を見ながら12分おしゃべりする時間もつくります。ひたすら読む時間には、ただ掲示板を眺めるだけのときもあります。とてもカジュアルなやり方ですが、クラスメイトからおすすめの本を知るきっかけになり、互い本へのこだわりや好奇心がぐんと高まることがわかりました。

 

読書目標と読書記録

私たちは、読書の目標を立てることで、ペースを保ちやすくなることを知っています。学校では、生徒に1週間単位で自分の読書量を記録させ、平均してどれくらい読んでいるかを確認します。そして、目標を書いたカレンダーを用意し、毎日読んだページ数を記録させます。本を読み終えたら、その記録用紙を読書ノートに貼らせます。これによって、生徒と「読書を続けること」について簡単に話し合うきっかけができます。

リストづくりというミニ・レッスンの後には、私がこれまで読んだ本のなかで特に印象に残っているもののリストを生徒に見せます。そして、そのリストを作ることがなぜ大事かを説明します。リストがあると、もっと読みたくなるからです。たとえば、「2025年夏に読んだ本」などのリストを作り、振り返ると達成感があり、自分がどんな本を読んでいるかも見えてきます。生徒にもノートに「読んだ本のリスト」のページを作らせ、年の途中でも追加するように声をかけます。学年末にはそのリストを見返すことで、自分の一年間の読書生活をふり返ることができます。

次に読む本のリスト

正直に言えば、計画があると読書が続けやすくなります。学年の最初の週に、生徒全員に読書ノートの1ページを「次に読むの本リスト」として使うように指示します。こうすることで、本を読み終えたあとに「次は何を読もう?」と迷い、12週間も新しい本なしで過ごしてしまうという事態を防げます。

まず、私たちが過去数か月に読んだ本を短く紹介する「ミニブックトーク」をして、生徒に「面白そう」と思った本をそのリストに書き込ませます。そして、私たち自身の「次に読む本のリスト」も見せます★3。

授業中に本を読むための時間を確保する

ここまで紹介したアイディアはすべて、「本を読むことは大切!」というメッセージを生徒に伝えるためのものですが、いちばん大事なのは、実際にそのための時間を確保することです。私たちは毎回のリテラシー(国語)の授業を、必ず10分間のひたすら読む時間から始めます。日によってはもっと長く取れることもありますが、10分より短くなることは絶対にありません。

この時間、私たちは教室を回りながら生徒とミニ・カンファランスをします。読書ノートを確認したり、今週書いている読書についてのメモや次に読む予定の本について話したりして、教室全体の「本を読む空気」を感じ取ります。

こうしたルーティーンを積み重ねることで、リテラシー(国語)の授業でいちばん大切な目標である「生涯にわたって本を読む人になること」を常に中心に据えておくことができるのです。

★1 日本の同様の調査結果については、https://chatgpt.com/share/68b5621f-a7e0-800e-bd58-39e0c0bd5a51 をご覧ください。

★2 Goodreadsの日本版としては、読書メータ、ブクログ、ビブリアなどがあります。

★3 これは、「読んだ本のリスト」と同じかそれ以上に大切です。これがあると、途切れることなく読み続けられる可能性が高まりますし、このリストを増やし続けるために努力もするようになります!

★4 日本の国語には、このことは国語を12年間も学ぶ目的には含まれていません! 結果的に、https://wwletter.blogspot.com/2025/04/blog-post_18.htmlで紹介されているような本が売れ続けるという、極めておかしな現象が起こり続けます。多くの人が読める人にはなりたいのだと思いますが、12年間+大学での4年間でも上で紹介したような「生徒一人ひとりが自分で読み続け(明日の自分を選ぶ)」ための練習をする機会が提供されないのです。正解あてっこゲームのような国語の授業は極力減らし、上で紹介した方法を少しでも多く練習する時間を増やしてください。一人ひとりの生徒が自分にピッタリの本を選べるようにならない限りは、読み続けられませんから!

出典: https://choiceliteracy.com/article/nurturing-independent-reading-lives-in-middle-school/