2024年6月22日土曜日

「読書のノイズ性」との出会いをアシストする

 働き始めると時間がなくなるから学生時代の時間のあるうちに本を読んでおいたほうがいい、とよく言われます。また、読みたい本はたくさんあるけれども忙しくて時間がなくて読めないという言葉もよく聞きます。SNSやインターネットがあるのだから、もう本を読まなくてもいいのではないかという言葉も聞くことがあります。

 この4月に刊行された三宅香帆著『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(集英社新書、2024年)は、労働と読書との関係について、克明な調査に基づいて書かれた本です。明治以来の日本社会での読書と読者の歴史を踏まえて立論されているので、説得力があります。もともと読書家だった三宅さんも、会社員として勤め始めた頃、仕事は面白かったけれども忙しくて気がつけばしばらく本を読んでいないことに気づくことがあったそうです。しかし、仕事を辞めてからは再び読むことができるようになり、本を書くまでに至ったといことです。それだけなら、仕事が忙しくなければ読めるということになりますけれども、「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」という問いに対する答えはそういうことではないと三宅さんは考察を進めます。
なぜなら「読む」ことであれば、どんなに忙しくても通勤電車のなかでスマホを取り出して、あるいは自宅のパソコンの前で皆頻りにやっていることだからです。また自己啓発本や読書術の本はよく売れています。読むことそのものがなくなっているわけではないのに、働いていると本は読めなくなっている。これをどういうふうに考えればいいのでしょう。三宅さんは、ある現代映画の登場人物が「パズドラ」をしても読書はあまりしないということを取り上げて、次のように言っています(引用文中の「麦」はその人物名)。

 本を読むことは、働くことの、ノイズになる。
 読書のノイズ性――それこそが90年代以降の労働と読書の関係ではなかっただろうか。(中略)麦が「パズドラ」ならできるのは、コントローラブルな娯楽だからだ。スマホゲームという名の、既知の体験の踏襲は、むしろ頭をクリアにすらするかもしれない。知らないノイズが入ってこないからだ。
 対して読書は、何が向こうからやってくるのか分からない、知らないものを取り入れる、アンコントローラブルなエンターテインメントである。そのノイズ性こそが、麦が読書を手放した原因ではなかっただろうか。(『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』182~183ページ)

 「読書のノイズ性」を消去することで成り立つのが「スマホゲーム」という「コントローラブル」(制御可能)な娯楽だということです。それに対して「読書」は「ノイズ性」を帯びるがゆえに「アンコントローラブル」(制御不能)な「エンターテインメント」であるというわけです。また、「読書のノイズ性」に応じるとは、自らの知らない「文脈」に向かい合い、それを取り入れることでもあります。

 1冊の本のなかにはさまざまな「文脈」が収められている。だとすれば、ある本を読んだことがきっかけで、好きな作家という文脈を見つけたり、好きなジャンルという新しい文脈を見つけるかもしれない。たった1冊の読書であっても、その本のなかには、作者が生きてきた文脈が詰まっている。
 本のなかには、私たちが欲望していることを知らない知が存在している。
 知は常に未知であり、私たちは「何を知りたいのか」を知らない。何を読みたいのか、私たちは分かっていない。何を欲望しているのか、私たちは分かっていないのだ。
 だからこそ本を読むと、他者の文脈に触れることができる。
 自分から遠く離れた文脈に触れること――それが読書なのである。
 そして、本が読めない状況とは、新しい文脈をつくる余裕がない、ということだ。自分から離れたところにある文脈を、ノイズだと思ってしまう。そのノイズを頭に入れる余裕がない。自分に関係のあるものばかりを求めてしまう。それは、余裕のなさゆえである。だから私たちは、働いていると、本が読めない。
 仕事以外の文脈を、取り入れる余裕がないのだ。(『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』233~234ページ)

 ではどういう社会にすれば働きながら読むことができるようになるのかということについての三宅さんの結論は、是非この本を手に取って読んでください。「他者の文脈」を知り、「読書のノイズ性」を取り入れるためにどうすればいいのか。『理解するってどういうこと?』のはじめの方にあるエピソードを紹介します。テキサス州アリーフでの教員研修の日、学校のプールで泳いでいた小学校高学年の子供たちをそのままカフェテリアに連れ出して、そこで一冊の絵本を使って行われたモデル授業です。

 私はジャクリーン・ウッドソンの『むこうがわのあのこ』を読んでいる間、はじめのうち子どもたちに見られた緊張感が消えていくのがわかりました。そして、モデル授業の前に私が教えた理解のための方法を使って、今まで想像もしなかったような、この本に盛り込まれている深い意味を考えさせるいくつかの質問をしてくれたのです。私はもう少し子どもたちに迫って、自分たちの出したさまざまな質問がどのようにその絵本を理解する手助けになったのか説明するように求めました。すると、当初はバラバラだった反応が活発な話し合いへと発展していったのです。(中略)他にもたくさんの、それもすべての学年で体験した多数の経験のおかげで、理解することの指導を通して子どもたちを考える生活に誘い入れることが、未開拓だけれどもゆたかな原野のようなものであると私は考えるようになったのです。知的なレベルで参加することを可能にし、深く理解するとはどういうことなのかを話し合うことによって、子どもたちがさまざまな考えを身につけ、そして活用できるようになると、私は気づいたのです。(『理解するってどういうこと?』14~15ページ)

 この子どもたちは、三宅さんの言葉を借りれば、「読書のノイズ性」を自分のうちに取り入れて、「他者の文脈に触れる」経験をしたわけです。「理解するための方法」の「質問する」を使って語り合うことが、「読書のノイズ性」を消去するのではなく、むしろそれをいかして深く考えるためのサポートになったのです。「読書のノイズ性」との出会いをアシストすることになったのです。

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