2022年12月24日土曜日

言葉の意味は言葉の「働き」

「表面の認識方法にあまりにも時間をかけすぎた指導をするあまり、深い認識方法による意味づけの指導がなされないとどういうことが起きるか、私たちの皆が目撃してきました。そのような指導を受けた子どもたちはロボットのように読みがちで、読みながら無意味な置き換えを行い、自分たちが読んでいるものが意味をなしているのか、確かめながら読むことはまずしません。こういう子どもはまた、読み・書きの全体的な過程にも無関心になってしまいます。そして、読み・書きは退屈だと嘆いたり、読むのは嫌いだといったり、あまりに長すぎると文句を言ったり、しなくてもいいことをいろいろしたり、そして読み・書きのできが悪いという悪循環に陥っていくことがあまりにも多いのです。こうして、さらに表面の認識方法の指導を受けることになり、いつまでも同じことが繰り返されていくのです。教師たちは表面の認識方法と深い認識方法との適切なバランスをとるようにすべきなのです。子どもたちがまだ文字と音声の領域を学んでいる場合であっても、少なくとも指導の時間の半分は、深い認識方法の指導にあてるべきです。すなわち、指導時間全体のなかで深い認識方法の指導にあてられる時間の割合を劇的に増やすべきなのです。」(『理解するってどういうこと?』174175ページ)

漢字にしても文法にしても「覚える」ことがまずは学習だと学校で言われてきた経験を持つ人は少なくないと思います。上の文章でエリンさんが言っていることは、たとえば高校1年生の「古文」や「漢文」の授業で起こることを思い浮かべればよくわかります。助動詞の活用についてのプリントをひたすらにこなした思い出を持つ人も少なくないでしょう。わたくしもそうでした。 

そのプリントは、日本の複数の古典文学作品からそれぞれ一文だけ抜き出して、そのなかの助動詞に傍線が引かれていて、その活用の種類や活用形を答えさせるというものです。『竹取物語』や『枕草子』のなかから一文だけ。その一文がこうした作品のどの一節かということもわからぬまま、文法的な説明を考えるのですから、「わかる」どころか、かえって難しい。高校1年のわたくしはせっせとそのプリントに取り組みながら、問題を解くことはできても、その一文の「意味」がわからずにいらだったものです。とても居心地のわるい体験でした。エリンさんが言うように、そのプリントをこなせばこなすほど「ロボットのように読みがち」になり、「読み・書きの全体的な過程に無関心」になっていったと記憶しています。ぎくしゃくとした「現代語訳」を一応は書くことができたとしても、どのような場面なのかがわからないので、たとえ「正解」を答えることができていたとしても、その一文を「理解」したことにはなっていなかったことはほぼ確実です。

では、「表面の認識方法と深い認識方法との適切なバランスをとる」にはどうすればいいのか。信原幸広さんの『「覚える」と「わかる」―知の仕組みとその可能性―』(ちくまプリマー新書、2022年)には、このことを考えるヒントがあります。その第二章「わかる」には「言葉の意味」について次のように書かれています。

「言葉は私たちの日々の営みのなかでさまざまに使用される。言葉を用いて行われるこのような営みをウィトゲンシュタインは「言語ゲーム」とよぶ。それぞれの言葉は言語ゲームのなかでその言葉に特有の仕方で用いられる。」(『「覚える」と「わかる」』49ページ)

「言葉の意味とはその使用だということは、言い換えれば、言葉の意味とはその「働き」だと言えよう。(中略)意味が働きだとすれば、意味を理解することは働きを理解することである。言葉にせよ、物事にせよ、ただそれを暗記するだけではなく、その意味を理解することが重要だというのは、ようするにそれがどんな働きをするのかを理解することが重要だということなのである。」(『「覚える」と「わかる」』5051ページ)

そうです。高校1年のわたくしのプリント学習に足りなかったのは、信原さんが哲学者ルードウィヒ・ウィトゲンシュタインの言葉を引いて言う「言語ゲーム」に身を置くことでした。古語の「働き」を理解する場がなかったのですから、「意味」がわからずにいらだったのも当然のことです。助動詞についての知識すなわち「命題知」(信原さんによると「物事を命題で著して、その命題が正しいことを知るという形の知識」のこと)を、「技能知」(信原さんによると「物事のやり方を知っていること」、わたくしの例で言うと、「古文を読む上で助動詞についての知識の生かし方を知っていること」になりますね!)として生かすことができていなかったのです。「言語ゲーム」の場に身をおいて練習することができていなかったのです。エリンさんが「子どもたちがまだ文字と音声の領域を学んでいる場合であっても、少なくとも指導の時間の半分は、深い認識方法の指導にあてるべき」だと言っているのも、このことを言っているのです。

そして、信原さんは「では、言葉の意味はどのように習得されるのだろうか」という問いを立てて次のように考察しています。

「さきに述べたように、言葉の意味は言語ゲームにおける使用である。私たちは幼いころから、さまざまな言語ゲームに参加して、言葉の使用を学んでいく。大人がどう使っているのかを観察し、それをまねて自分でも使用し、間違っていたら修正を受け、やがて適切に言葉を使えるようになる。それはじっさいに言語ゲームに参加しながら実践的な練習を行い、それによって言葉を適切に応用する能力のことにほかならない。言葉の意味の習得は、言葉の使用能力の獲得なのである。」(『「覚える」と「わかる」』60ページ)

信原さんの言う「言葉の使用能力の獲得」のためにはどういうことが必要なのでしょうか。『理解するってどういうこと?』の175ページ以下に書かれているように、「教える言葉に関連した経験や感情や記憶を子どもから引き出して、子どもの使える言葉をゆたかで幅広いものにする」場をつくること(「意味づけの領域」の指導)、「新しいアイディアを自分がこれまで持っていた知識と関連づけること」(「関連づけの領域」の指導)、「本や文章について自分たちの考えたことを話し合うこと」(「優れた読み手・書き手になる」領域の指導)などを工夫していくことが必要です。

日本の古文の入門期の学習で言えば、わたくしが経験した、古典作品から一文ずつ抜き出してそれを数文並べたプリントによる学習ではなくて、信原さんの言う「言語ゲーム」ができるように、少なくとも学習対象となっている古語の「働き」を考えることのできる長さの文章を準備して、エリンさんの言う「深い認識方法」を使う学習ができるようにしていくことでもあります。たとえ古文学習の入門期であっても、「意味づけ」「関連づけ」「優れた読み手・書き手になる」という「深い認識方法」を使って言葉の「働き」を実感することで、読むことの面白さを覚え、読もうとする意欲を引き出すことが大切なのです。そのようにして「古文」と「現代文」が断絶しているのではなく、つながっていると学ぶことは、言葉というものがそれを使う者の育てる文化であり、知の仕組みであると学ぶことでもあります。

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