2022年10月22日土曜日

「狩猟者」としての読者

  少し大きめの帯が巻かれていて、その中央(ですから表紙のほぼ真ん中)に「本を読む、それは「狩り」だ―。」と記された本を今年のはじめに手に入れたままでした。進化生物学・生物統計学を専門とする三中信宏さんの『読書とは何か―知を捉える15の技術』(河出新書、2022)です。読書とは何か? その問いへの答えが帯に記された「狩り」というわけです。ずいぶん昔に、フランスの批評家ミシェル・ド・セルトーがその著『日常的実践のポイエティーク』(山田登世子訳、国文社、1987:ちくま学芸文庫、2021)のなかで読書について使った比喩を使えば、それは「密猟」に近い行為なのかもしれません。それが頭のどこかにあって、この本の帯の言葉に惹かれたのだと思います。

 三中さんによる読書は「狩り」であり、読者は「狩猟者」であるという魅力的な喩えのおおもとは、セルトーではなくて、ティム・インゴルド『ラインズ:線の文化史』(工藤晋訳、左右社、2014)の「経験に鍛えられた読者」は「原始の狩猟者のように読み進むことになる―地図を見るのではなく踏み跡を辿ることによって」という考え方でした(『読書とは何か』41ページ)。

 「狩猟者」としての「読者」はどういうことをおこなうのか。三中さんは次のように説明しています。

 「ある“文字空間”を旅する読者=狩猟者は、マップやチャートをもっていないので、著者がその本を書き記すときに残したさまざまな“踏み跡”―単語や文章など―を手がかりにして、いま自分がいる場所を進むべき方角を推論し続けなければならない。(中略―引用者)あるキーワードは本全体の中でどんな役割を果たすのだろうか。あるキーセンテンスが張る伏線とはどのようなストーリーにつながり、最終的に回収されるのか。本を読み始めるとともに読者が出会う数多くの“踏み跡”や“目印”や“痕跡”などなど、本の“文字空間”の構成する各「部分」で目に留まるあらゆる証拠の断片が、最終的には一つの「全体」像としてまとまって立ち上がってくる。そのときまで、読者は“狩猟者”であり続ける。」(『読書とは何か』4143ページ)

  三中さんによれば、このような読者の行為を特徴づけるのは「アブダクション(abduction)」(部分から全体への推論)です。書かれていることをわかろうとする読者の頭のなかでは「アブダクション」が営まれているというわけです。

 「読書という行為をこのアブダクションの観点から見れば多くの点で理解が深まるだろう。まず往路(「読者がある本を読み進むときの“道行き”」のこと―引用者注)で読者が拾い集めた痕跡は、読者個人にとって“既知”となる情報源である。読了後の復路(「読書中の本の内容に関して得られた知識を体系化する」段階―引用者注)で構築ようとする知見の体系はいわば“未知”の全体に相当する。読者ひとりひとりがつくりあげた全体はあくまでも暫定的な結論であり、その真偽を問うことに意味はない。むしろ読者が狩猟者として育つとともに、“既知”なる情報が増大し、技量が身に付くにつれて、推定される全体は限りなく改良されていくだろう。」(『読書とは何か』74ページ)

  「アブダクション」を繰り返しながら意味をつくり出そうとする、きわめて能動的な読者の姿が描かれています(ちなみに三中さんが依拠するインゴルドは、シャーロック・ホームズの推理を支える思考法も「アブダクション」だとしています)。確かに、三中さん言うところの「既知」と「未知」との境にあって「暫定的な結論」を更新し続けていくのが読書行為だということができます。読者の意味づけ行為を説明する原理として納得のいくものです。ただ、これだけなら、能動的に意味をつくり出す、個人としての読者の意味づけ行為の解明ということになるのですが、三中さんが「読書の技能訓練」として指摘している二つのことは、読書行為を個人の枠内にとどめないという点で重要です。その二つとは、

A「その同じ本を他の読者がどのように読んだのかを知ること」(『読書とは何か』67ページ)

B「同じ著者が書いた他の著書をひもとくこと」(『読書とは何か』68ページ)

です(「A」「B」は説明の便宜のために私が付けました)。この二つの行為によって「狩猟者としての技能はまちがいなく向上する」というのです。

 Bは、理解するという行為をいま読んでいる本や文章だけにとどめないで、同じ著者が書いた他の本や文章と関連づけながら、著者の文脈や執筆の背景のなかで、いま読んでいる本や文章の意味を広く深く捉えるという行為になります。いま読んでいる本や文章と同じテーマで書かれた他の著者の本や文章との比べ読みもここに位置づけることができるでしょう。

 Aについて、三中さんは、いま自分が読んでいる本について書かれた他の本や文章のことを取り上げていますが、共通の本や文章を複数の読者が読んで語り合ったり、書き合ったりすることも含まれると思います。

『理解するってどういうこと?』では、第5章に書かれている「深い認識方法」のなかの、「優れた読み手・書き手になる領域」がこのAにあたります。

 「毎月開かれる貴重な話し合いの場のひとつであるブッククラブを終えて、会場になったご近所の家から帰るときに、今日自分はみんなと同じ本を読んだのだったかしらと不思議に思うことがよくあります。年齢も、背景も、人生経験もさまざまに異なった女性たちは、一緒に読む本のページに極めて多彩な色彩を加え、私なら絶対に想像しなかったようなものの見方や、考えや、解釈を持ち込むのです。その本のなかで、もう自分がすっかり理解していると思っていた部分を意外な新しいレンズを通して読み直すことになります。そうすることによって、私がそれまでは少しも気付かなかった意味を発見するきっかけを、他のメンバーは私に与えてくれるのです。みんなで読んでいる本について彼女たちがしっかり考えて発見したことの質と深さ、思いがけない解釈に私が驚いていることを話すと、彼女たちはあなただってまったく同じことをしてくれるのよと教えてくれます。」(『理解するってどういうこと?』180ページ)

  「優れた読み手・書き手になる領域」とは、深い理解や認識を生み出すために、実際に他の読者はどのように読み・考えるのかを知って、自分の読みや解釈と照らし合わせて、それを修正していく営みです。「修正しながら意味を捉える」という理解するための方法を使うことになりますが、三中さんの言う「読書の技能訓練」も「修正しながら意味を捉える」を実行することになるからこそ、それが「狩猟者としての技能」を向上させることになると考えられます。

 なお、『読書とは何か』の第2章から第4章には、【完読】【速読】【猛読】【拾読】【熟読】【難読】【精読】【数読】【解読】【図読】【復読】【休読】【歩読】【積読】【未読】という15の読み方が提案されています。これが副題にもなっている「知を捕らえる15の技術」でもあります。それがどういうものかということ本書をひもといて確かめてください。これらはいずれも理解の仕方であり、理解の種類であると考えることができるでしょう。

 

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