2022年9月17日土曜日

自分のなかに他者の主張の居場所をつくる

 物語や小説といった「フィクション」を読むのは大好きだけど「ノンフィクション」を読むのは苦手だというひとは少なくないでしょう。私も通勤読書で読む本の大半は「フィクション」です。たいていは「フィクション」の筋や登場人物の言動の「面白さ」にひかれて読み進めています。ところが、日常の仕事で読み書きしているのは、仕事柄、圧倒的に「論文」や「研究書」という「ノンフィクション」です。

 これは私の特殊事情というだけではないと思います。多くのひとが日常的に読み書きしているのは「フィクション」よりも「ノンフィクション」の方が多いのではないでしょうか。
『理解するってどういうこと?』の第7章の後半で、エリンさんは次のように書いています。

「私たちは、子どもたちにノンフィクションの根底にあるさまざまな構造を教えないままにしてしまいがちなのです。その結果として、単に時間軸で並べただけの要約や、子どもたちが使った元となる文章を最小限書き換える以上の文章はめったに生まれないのです。すでに研究は明らかにしてくれています。もし私たちが子どもたちにノンフィクションで読んだことを身につけ、活用してほしいと望むのであれば、私たちはノンフィクションの構造の直接指導を国語科だけでなく、各教科の指導に組み入れなければならないということです。」(『理解するってどういうこと?』268ページ)

 日本の国語教科書で言えば「説明的文章」の読み書きに関することになります。エリンさんがこの引用の後に掲げている「ノンフィクションを読む際の障害」という表(269~273ページ)に書かれてある「障害」は、「説明的文章」を読む時に多くのひとが突き当たるもので、思い当たることも多いのではないでしょうか。続けて「ノンフィクションをしっかり読めるようにするには」という表も掲げられて、そこにはいくつかの原則と効果的な指導法が記されています。そのなかに「「理解するための7つの方法」のなかでも、特に、質問する、何が大切かを見極める、解釈する焦点を当てて指導します」というものがありました(276ページ)。三つの「理解するための方法」がとくに「ノンフィクション」の理解でどうして大事なのか。
 哲学者の山口尚さんの『難しい本を読むためには』(ちくまプリマー新書、2022年)は、現代日本の代表的哲学者たちの著作の読み方を具体的に示しながらこの問いに答えてくれます。
 山口さんはこの本のなかで「解釈学的循環」(全体と部分のあいだの循環)が、理解するために何よりも重要だということを繰り返し主張しています。

「「解釈学」は、全体と部分のあいだの循環構造に着目しながら、《どのような仕方で文献や人間や歴史や社会は理解されるべきか》を考察する学問です。したがって「解釈学的循環」という語は、文献の読解のさいに生じるグルグル回りだけでなく、人間や歴史や社会を理解しようとするさいの《全体と部分のあいだの循環》も指します。」(『難しい本を読むためには』89ページ)

 実は日本近代以降の国語教育での読むことの学習指導法も「解釈学」によるものです。それによって読むことが嫌いになったというひとも少なくないと思いますが、山口さんのこの本を読むと、それが「解釈学」解釈のせいだったのではないかと思われて仕方ありません。山口さんが大切だと言っている、理解しようとして対象の全体と部分との間を行ったり来たりして「グルグル回り」すること、を十分に実践してこなかったから、読むことが嫌いになる学習指導が行われることになったのではないか。山口さんの本を読むとそういうことを考えざるをえないのです。山口さんは次のようにも言っています。

「何度読んでもわからない本や一読してつまらない印象の本があるかもしれませんが、これだけで「この本はわからない」とか「この本はつまらない」と決めつけるのは性急です。むしろ、理解に〈循環〉がつきものであるならば、一冊の本をわかるようになることもグルグル回る手間の必要な作業でしょう。」(『難しい本を読むためには』93ページ)

 もちろん、闇雲に「グルグル回り」が奨励されているわけではないのです。全体と部分との「グルグル回り」が大事だいうのは、理解することの原理を読者に銘記してもらうためです。『難しい本を読むために』はその原理をいかす方法もしっかりと示されています。
 その一つは、理解しようとする文章の「前提」(結論を導き出す根拠を示す部分)と「結論」(文章全体の主張(=キーセンテンス)を「腑分け」することです。それだけで文章の「構造」が明らかになるというのです。そのうえで反論や批判を試みることで、その文章の「言っていることをよりはっきりと理解できる」ようになると山口さんは言っています。これが文章の「論理」を捉えるポイントです。
 もう一つ「本全体の話の流れ」をつかむことも、理解するために山口さんが大事だと言っていることです。「文章を読み進めるさい、《いま話の流れ全体のうちのどの段階なのか、そして何が行ばわれているか》を意識すること」ができれば、「《何がわかればOKか》」を考えることができるようになるというわけです。(『難しい本を読むためには』の135ページには、「本全体の話の流れ」をつかむための表が例示されています)こちらは、文章の「内容」を捉えるポイントですね。
 しかし、この二つだけでは、文章の理解が表面的に終わる危険性があると山口さんは言っています。そうならないためには「〈重要性を指摘すること〉」が必要だと言っています。これは、エリンさんの「何が大切かを見極める」という理解のための方法を使うことでもあります。「〈重要性を指摘すること〉」=「何が大切かを見極める」は、どうして文章を理解するために必要なのか。山口さんは次のように説明しています。

「それは読み手である自分の中に書き手である他者の主張の居場所をつくる作業です。たしかに書物や論文を読むさい、初めの一歩としては、《著者は何を主張しているのか》を正確に押さえることが必要不可欠だと言えます。とはいえ、その主張をせいぜい「ただ他人が言い立てていること」としか捉えられないのか、あるいはそれを自分にとって意味のあるものと捉えられるのかは、理解の深度に大きな違いを与えます。そして、もし深いレベルの理解に達したいのであれば、《当該主張はどこが重要なのか》を明確にする作業は避けることができないのです。」(『難しい本を読むためには』162-163ページ)

「読み手である自分の中に書き手である他者の主張の居場所をつくる」ために「何が大切かを見極める」という理解のための方法がある、ということがよくわかります。選択することで、自己の地平と他者の地平が融合するというのですね。そうすることによって、理解したことを自分の言葉にすることができるのです。

「《どこが重要なのか》を自分の言葉で説明できるようになれば、主張は自分のうちに場所を得ることになります。書物の言っていることが〈他人の意見〉であることを超えて〈自分の内部に位置を持つ考え〉になる――このときはじめてその本はきちんと理解されたことになります。」(『難しい本を読むためには』179ページ)

 そのために「具体例をあげる」ことが大切だとも言っています。ですが、自分では最適だと思える「具体例」も自分ひとりではその良し悪しはなかなか見えてきません。山口さんは「《そこで役立つのだが読書会だ》」(199ページ)と言って、同じ本を読んだ他のひとと「具体例」を出し合い、議論することの重要性を指摘しています。これは「修正しながら意味を捉える」という理解のための方法を駆使することになると思います。
 こうして私は、山口さんの著作に、「読み手である自分の中に書き手である他者の主張の居場所をつくる」という、あらたな理解の種類を教えてもらったことになります。そしてそれは、説明的文章や論説・評論文をはじめとした「ノンフィクション」を読むために、とても大事な理解の種類です。
 

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