2022年6月18日土曜日

頭のなかにうまれるご褒美

  わたくしの部屋には買ったばかりでしばらく積ん読状態になっている本がたくさんあります。ミシェル・クオ(神田由布子訳)『パトリックと本を読む―絶望から立ち上がるための読書会―』(白水社, 2020年)もその一冊でした。何しろ「訳者あとがき」を含めると400ページ足らずのノンフィクション。読み始めるのに少し勇気が必要です。この本は次のように始まります。


私は、ある明確なプロジェクトを抱えてミシシッピ・デルタに向かった。黒人文学を通して子どもたちにアメリカの歴史を教えよう、かつて私が心ゆさぶられた文学を子供たちに教えようと考えていた。八年生のときの自分とおなじように生徒がキング牧師の『バーミングハム獄中からの手紙』に奮い立ち、高校生のときの自分のようにマルコムXの自伝に魅了されるさまを私は思い描いた。それからジェイムズ・ボールドウィンも。嘲る群衆の中を通り抜け徒歩通学する子どもたちの勇敢な克己心について書いた作家、ボールドウィンの作品も読んでほしいと思っていた。ラルフ・エリスンの言葉を借りれば、「世界に立ち向かい、自らの経験を正直に評価しようとする一人の人間の意志」をたたえることを、私は本に教わった。私を変えたのも、私にさまざまな責任を引き受けさせたのも本だった。だから、生徒の人生も本で変えられると信じていた。臆面もないロマンチストだ。二十二歳だった。(『パトリックと本を読む』9ページ)

 この「私」は「台湾系移民の娘で、一九八〇年代にミシガン州西部で育った」人です。その「私」がハーバード大学を卒業してからどうして「ミシシッピ・デルタ」で生徒たちを前に「黒人文学」を教えるようになったのか、「パトリック」という男の子とどのようにして出会うようになったのか、そもそもこの本が『パトリックと本を読む』と題されているのはどうしてなのか。
 この本の「第一部」は、「私」が二〇〇四年に米国の教育NPO〈ティーチ・フォー・アメリカ〉に参加し、アーカンソー州の「ミシシッピ川畔の町ヘレナ」の「スターズ」というオルタナティブ・スクールに教師として赴任し、そこで十五歳の八年生であった「パトリック」と出会うところから始まります。「私」は「パトリック」たちとともにいろいろな本を読み、読み書きを教えながら彼らの人生に伴走することになります。
 しかし、不幸にも人の命を奪い、刑務所にはいることになった「パトリック」と「私」が再会するところから始まる「第二部」からがこの本の本領です。副題に使われている「絶望」は「パトリック」を見舞ったこの運命のような事件が彼にもたらしたことをあらわします。がそこから「立ち上がるための読書会」とは何か。「私」は、自分の生き方を模索しながらも、「パトリック」のいる刑務所にさまざまな文学作品を持ち込み、ともにそれを読みながら、寡黙な彼に自分をあらわす言葉を育てていくのです。
 自分と世界を「理解」するための言葉が生み出されていく模様が描き出されるこの本を、わたくしは息つく間もなく、三日間、息つく間もなく通勤電車のなかで読み終えることになりました。二人が読んだ作品からの引用や「パトリック」が「私」の用意したノートに書き続けた魅力的な文章の一節がふんだんに登場します。それは「パトリック」の奇跡的な成長の軌跡です。
 この本の終わり近くで「私」は次のように書いています。

パトリックと本を読んでいたとき、彼がまるで初めて出会った、私が理解しはじめたばかりの人のように思える瞬間が何度もあった。その一瞬一瞬、私たちのあいだには、不思議な、根本的な、ありそうにもない平等さがあるように思えた。本を読めば、たとえばつかのまだろうと、人は予測を超えた存在になれる。それが読書の力だ。本を読んでいるとき、その人は別のだれかが「こういうタイプ」と決めつけることのできる人間ではなく、あらかじめ規定されていない素のままの人になっている。パトリックに本を与えたのも、読むテクニックを教えたのも私だが、同じ言葉を読んでも私とパトリックとでは心の動かされかたが異なっていた。同じ鳥のさえずりでも、人によって違う歌がきこえるように。(『パトリックと本を読む』342ページ)

 『パトリックと本を読む』を読むわたくしはこのような「私」の発見を『理解するってどういうこと?』の一節と重ねていました。

子どもたちに読むことと学ぶことを「動機づける」ために、私たちは目に見えるご褒美を提供しなければならないと思い込んでいることを、私は危惧しています。頭のなかにうまれるご褒美なら、子どもたちは大喜びで受け入れることに気づいたのです。自分たちが一生懸命理解しようとしている本や概念についてじっくりと考えて発見したことをみんなで共有した後、子どもたちの驚きと信じられないといった表情を目にします。子どもたちはまだ自分がどれほどすばらしい能力を持っているのか気づいていませんから、それに気づいたときは、特別に気持ちがよい驚きがもたらされるのです。こうした、子どもたちはもっと多くのことを発見することになるのです。(『理解するってどういうこと?』146ページ)

 「パトリック」の頭のなかにも、きっとたくさんの「気持ちがよい驚き」が生まれたのです。その「頭のなかにうまれるご褒美」をもたらしたのが、本を読む行為のなかにそなわっている「不思議な、根本的な、ありそうにもない平等さ」であり、これが「パトリック」を「私」の「予測を超えた存在」にしたのです。同時に「私」も自分の「予測を超えた存在」になったからこそ『パトリックと本を読む』が生まれたのだと思います。この自己発見と他者理解の物語に突き動かされて自分の「頭のなかにうまれるご褒美」を電車のなかのわたくしは味わっていたことになります。

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