2019年9月21日土曜日

「対話」する意味-未知の自分を発見する旅


   『理解するってどういうこと?』の第8章では「夢中で対話すること」という「理解の種類」について次のように定義されています。「アイディアについての集中した対話に取り組み、これまで考えていた以上に言うべきことを自分が持っていたことに気づく。自分や他の人たちの意見やその根拠を理解するまで、他の人たちの考え方を考慮したり、疑問を投げ掛けたりする。自分の思考が思いのほかはっきりすることに驚くこともある。」(294ページ)

いろいろなことを話して、その中身はあまり覚えていないけれども言いたいことは出しつくしてて充実していたと感じる時もあります。しかし、まったく人と言葉を交わさなかった一日だったけれども、アートに触れたり、いい音楽に耳を傾けて聴き浸ったり、本や文章をじっくり読んで満ち足りた気分になる時もあります。これらに共通していることも「これまで考えた以上に言うべきことを自分が持っていた」とか「自分の思考が思いのほかはっきり」してきたという発見が自分のなかで起こったということのようです。

最近読んだ細川英雄さんの『対話をデザインする―伝わるとはどういうことか』(ちくま新書、2019年)には、この「夢中で対話する」という「理解の種類」に非常に近いことが書かれていました。



「自己の内部での思考と表現の往還と同時に、自分と相手との間で起こる相互理解、すなわち、相手の表現を受け止め、それを解釈して、自分の考えを述べる。そうして、自分の表現したことが相手に伝わったか、伝わらないかを自らが確かめることによって、自分の「言いたいこと」「考えていること」がようやく見えてくるということなのです。/しかも、このとき見えてきたものは必ずしも当初自分が言おうとしていたものとは同じではないことに気づくでしょう。というよりも、当初の自らの思考がどのようなものであるかはだれにもわからず、この自己と他者の間の理解と表現のプロセスの中で次第に形成されるものと考える方が適切でしょう。つまり、自分の「言いたいこと」というものは、そんなにすぐはっきりと相手に伝えられるようなかたちでは、ことばとして取り出すことがむずかしいということでもあります。/このように考えると、「私」は個人のなかにあるというよりもむしろ、他者とのやりとりの過程にあるというべきかもしれません。」(『対話をデザインする』32ページ)



細川さんが問題にしているのは、「自己と他者の相互理解のプロセス」のことです。おもに人と人とが言葉を交わす「対話」のことを言っているのですが、エリンさんが「夢中で痴話すること」の定義のなかで述べていることときわめて近い。話し合いやアートの鑑賞や本や文章をじっくり読んでいるときに起こる「理解」を丁寧に説明しています。

いま引用した文章の最後の部分で「「私」は個人のなかにあるというよりもむしろ、他者とのやりとりの過程にある」と書かれているくだりが、私にはとくに大切に思われました。これが「理解する」という営みの核心を言い当てていて、エリンさんの言う「これまで以上に言うべきことを自分がもっていた」「自分の思考が思いのほかはっきりすることに驚く」ということが起こるいわれを説明しているように思われるからです。「夢中で対話すること」が重要な「理解の種類」となる根拠を言い当てていると思われるからです。

相手が話していることや本に書かれていることの内容がわかるということは、半分以上「自分の言いたいこと」がかたちをとってあらわれることだということでもあります。そうでなければおそらく人の言ったことが「腑に落ちる」ということはありません。

翻って、「自分の言いたいこと」を人にことばで伝えるということは「自分に向き合う」ことだと細川さんは言います。そして「自分に向き合う」とは「このテーマと自分との関係、すなわち、自分自身の立てたテーマが、自分の本来の興味・関心とどのようにつながっているかを通して、自らを相対化し、自らが何者であるかを自覚すること」だと言うのです(『対話をデザインする』39ページ)。これは「理解する」ことで人が何を学ぶのかということ、あるいは「学び」にとって一番大切なことはどういうことなのかを示した言葉でもあります。これが起こるかどうかが「理解する」行為が成り立つかどうかの分かれ目だと思いますし、「本物の学び」となるかどうかの分かれ目だと考えます。

では「対話」を通して理解するためには何が必要か。細川さんが言うのは「ひたすら相手の話を聴きながら考えること」であり、その上で「物語を聴く」ことです。「物語を聴く」とはどういうことか。



「どんな相手にもまた、自分と同じ毎日の生活があり、そこには、さまざまな物語があることを受け止めるということが意味を持ってきます。この場合の物語というのは、その人個人の内部にある、さまざまな経験とその記憶です。/相手のことばに耳を傾けることは、相手の言いたいことの背景や事情の中に、必ずやその人固有の経験とその記憶としての物語のあることを知ることになります。/相手の中の物語を知ることは、たとえその人とは立場や考え方・価値観は違っていても、その人も同じ人間であるという思いを強くします。よりいっそう相手の話を聞こうという気になりますし、それはおのずと相手への共感へと結びつきます。」(『対話をデザインする』124125ページ)



細川さんは「物語を聴く」ことによって「自分の中の物語にも意識的になれる」と言います。「共感」とは、相手の「物語」を知るにとどまらず、「これまで以上に言うべきことを自分がもっていた」ことに気づくことであり、「自分の思考が思いのほかはっきりすることに驚く」こと、すなわち相手の「物語を聴く」ことによって「自分の中の物語」を発見して、それまでとは違う新しい自分と出会うことでもあります。私にとっては、この文章を書きながら、エリンさんの「夢中で対話すること」と細川さんの『対話のデザイン』がこのように重なってきたことが思いがけない喜びでもあり、発見でもありました。それは、他ならぬ私自身が二人の文章に「共感」を覚えている証なのかもしれません。

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