2019年7月19日金曜日

「わかりやすさ」が「理解」を奪う?



 「理解」の関連本を探して、広島駅前の大きめの書店の書架の間を歩いていると・・・「わかりやすさの罠」という書籍タイトルが目に飛び込んできました。池上彰『わかりやすさの罠―池上流「知る力」の鍛え方―』(集英社新書、2019年)。「この講義はわかりやすかったですか?」というのは、授業や講習会・講演会アンケートの質問項目「定番」ですね。

 

「難しいことをわかりやすく」というのは、私がこの三〇年間ずっとモットーとし続けてきたことです。しかし、最近になって、どうも、少なからぬ人たちが「わかりやすさ」の罠にはまってしまっているのでは、と心配になってきました。/「罠」とはつまり、「わかったつもり」になってしまうということです。(『わかりやすさの罠』22ページ)



 本書の前半では新聞やニュースやネット報道を取り上げながら、「わかったつもり」になってしまう実例が取り上げられ、わかりやすい説明が展開されます。しかし、この本の本領は、「わかりやすさ」の「罠」にはまらないようにするために」「私たち社会を構成するひとりひとり」が鍛えなければならない「知る力」を探っているところにあります。

 たとえば、「複数の新聞を読み比べる意味」(128ページ~)には、ニュースについて、複数の新聞を読み比べたり、ネット情報と新聞記事を読み比べたりするということがあげられています。同様のことは、現在の国語教科書等にも見られますが、注目したいのはその目的です。それぞれのメディアがどのように「偏っているか」を確かめるために「比べる」というのです。



 つまり、「この新聞は偏っている」などと糾弾するのはおかしな話なのです。新聞である以上、偏っていて当然といえます。偏っているのはあたりまえであり、それぞれの違いをおもしろがるぐらいの冷静な視点が欲しいものです。(『わかりやすさの罠』132ページ)



なるほど!と思わされました。「それぞれの違いをおもしろがるぐらいの冷静な視点」の獲得のために新聞記事を比較して考えてみれば、その比較活動に熱心に取り組むことができます。その過程で「知る力」が育つというのです。キーンさんの言う「質問する」「推測する」「大切なところを見極める」といった理解するための方法を駆使することになるのではないでしょうか。「違い」を生かす「知る力」です。そして池上さんは本書の至るところで「ネット」ではこうした「知る」とは逆に「放っておけば、どんどん自分とは異なる意見が排除されていく」(133ページ)と言っています(「本書の至るところ」はどこか?読んで探してみてください)。「自分とは異なる意見」の「排除」は、けっして「理解する」ことにはなりません。

 そのほかにも「新聞は全部読もうとしない」「迷ったら買う」「しっかり読めるのは一〇冊のうち一冊」「積ん読のすすめ」など魅力的なアイディアについて語られていくのです。そして、これだけネット書店が便利になっても、「リアル書店」を使う理由を述べたくだりもあります。



「今度の番組ではどんなニュースを解説しようか」「来週締め切りの原稿に何を書こうか」と悩みながら書店に行くと、ときどき本が「おいでおいで」と言ってくれているような気になることがあります。ふっと気になって見ると、「ああ、こういうタイトルだとおもしろいしわかりやすいな」「そうか、この分野のこの話ができるぞ」などと発想が浮かんできます。こういう偶然の発見は、ネット書店では経験したことがありません。/「思いがけないものを発見する能力」をセレンディピティーといいますが、リアル書店は、まさにそんなセレンディピティーの宝庫です。行かない手はないと思いませんか?(155ページ)



 学生時代(わたくしにもあった、10代の最後のころ!)に恩師から「考え続けていると、文献の方から自分の方に飛び込んでくることもあります」という話を聴きました。そんな夢のようなことがあるはずがない、などと浅はかにも思ったものです。が、40年ほど経つうちにそれに似た経験を幾度かしました。そして、池上さんの「ときどき本が「おいでおいで」」というのも同じですね。そこから「思いがけないものを発見する」ということが起こります。「知る力」を発揮するみなもとではないでしょうか。

 「わかりやすさ」が「罠」だというのは、このような「セレンディピティー」の芽を早々に摘み取ってしまうからです。でも、間違えてはいけません。池上さんは「わかりやすくすること」が悪だと言っているわけではないのです。「わかりやすさ」の主語が問題なのです。読んだり聞いたりする立場で「わかりやすさ」を求めることは「わかった」と思っても「わかったつもり」になってしまい、「偶然の発見」の芽は摘み取られてしまいます。しかし、誰か身近な人に「わかった」と言ってもらえるように、自分の「わかった」を伝えようとすればどうでしょう。「わかりやすさ」を生み出す側に立った場合です。



「わかった」と思うことと、「わかった」と言ってもらえるように説明できることは、まったく違います。その違いを知るには、まず「わかった」と思っていることを、自分が納得しただけで終わらせず、そばにいる誰かに説明してみるのが一番です。(199ページ)



 「わかりやすさ」が理解を奪うわけではありません。そうではなくて、「わかりやすさ」を生み出すように、「「わかった」と言ってもらえるように説明できること」が可能になるようにつとめることによって、そのことについての深い理解が自分のなかに生まれると言っているのです。その過程でいくつもの「偶然の発見」があらわれるということです。理解が奪われるのは、どこの誰がつくったかどうかわからない「わかりやすさ」に、自分で考えることをその「誰か」に預けてしまう時だと、池上さんは伝えているのです。

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