小学生の頃、水戸サツヱ著『幸島のサル』(もともと実業之日本社から出ていましたが、現在は鉱脈社の「みやざき21世紀文庫」の一冊)という本を読んで、宮崎県の幸島に暮らすサルたちの観察エピソードをとても興味深く読んだ覚えがあります。独自の「文化」を創造していくサルたちのエピソードがたくさん書かれていました。死んだ新生児がミイラ化するまでずっと抱えて過ごす母ザルの姿に強く感動したことを覚えています。砂浜に撒かれた餌を海水で洗って食べるサルたちや、やはり餌の芋を海水で洗って味をつけて食べるサルたちの姿も描かれていました。著者は、ニホンザルの生態を描きながら、人間のことを書いているのだと考えた記憶が残っています。
松沢哲郎『想像するちから―チンパンジーが教えてくれた人間の心―』(岩波書店、2011年)も、そういう一冊です。チンパンジーに、チンパンジーの似顔絵を与えると、彼らはその輪郭をなぞる、と書かれています。では、3歳2ヶ月の人間の子どもにまったく同じことをするとどうなるか。人間の子どもはその似顔絵にないものを描き入れるというのです。目を描き入れると。松沢さんは「たぶん、チンパンジーはそこにあるものを見ている。一方、人間はそこにないものを考える」(179ページ)と解釈しています。また、急性脊髄炎になって首から下が麻痺し、寝たきりになっても「めげた様子が全然ない」チンパンジー・レオのことを思い出しながら、松沢さんは次のような考察を展開します。
今ここの世界を生きているから、チンパンジーは絶望しない。「自分はどうなってしまうんだろう」とは考えない。たぶん、明日のことさえ思い煩ってはいないようだ。
それに対して人間は容易に絶望してしまう。でも、絶望するのと同じ能力、その未来を想像するという能力があるから、人間は希望をもてる。どんな過酷な状況のなかでも、希望をもてる。人間とは何か。それは想像するちから。想像するちからを駆使して、希望をもてるのが人間だと思う。(180ページ)
この「想像するちから」こそ、理解の源ではないでしょうか。松沢さんによれば、それは「絶望するのと同じ能力」でもあります。「そこにないもの」をみる「想像するちから」を持つゆえに、人間は、過去の学習体験から得た情報をすでにもっている知識つきあわせ、それを新しい知識に変えていくことができ、明確に書かれたり、話されたり、示されていないことを推測することができるのです。「想像するちから」があるから、詳しくイメージを描きながら文章や絵のなかに浸ることができるし、考えや解釈が変わる過程を捉えたり、自分の理解内容をチェックして、修正したりしながら意味をつくり出すことができるのでしょう。『理解するってどういうこと?』「資料A」に示されている「理解するための方法」はまさに「想像するちから」のもたらすものだと思います。
もう一つ。チンパンジーと人間との「大きな違い」について、松沢さんが言っている次のようなことも心に残りました。
チンパンジー流の教育がわかると、人間の特徴もはっきり見えてくる。
一番目は、教えるということ。チンパンジーは教えない。でも、その「教える」の一歩手前に、人間は「手を添える」ということをする。これが二番目の特徴だ。人間だったら、ちょっと手を取って、「こうやって割るんだよ」とか、「この種がおいしいよ」「こっちの石のほうがいいんだよ」とか、さらにはもっとかすかに、手の位置を修正したり、指さし位置を示したりするだろう。チンパンジーはそれをしない。
その「手を添える」ということの、さらに一歩手間に、これはほんとうに人間しかない三番目の特徴として、「認める」というものがある。具体的にいえば、「うなずく」「微笑む」「ほめる」。チンパンジーのお母さんは、そんなことはしない。チンパンジーはうなずかない。(140ページ)
考えてみれば、理解することを教えるときに効果的な方法である、「考え聞かせをする」「モデルで示す」「実演してみせる」「カンファランスをする」「共有する」(『理解するってどういうこと?』「資料C」「理解することを教えるときに効果的な方法」)は「手を添える」ことの多彩なありようです。また、「認める」ということは、6月17日の「『共感』という宝物」で取り上げたフランス・デュ・ヴァールの『共感の時代へ』では、人間が生まれながらにして手に入れている一番大切な「道具」とは「他者とつながりを持ち、他者を理解し、相手の立場に立つ能力」としての「共感」能力だとされていましたが、松沢さんの指摘する「認める」は、その根にあたるものです。
「認める」→「手を添える」→「教える」―――理解するとはどういうことかを子どもと一緒に考え、「そこにないもの」をみる力を育てていくために大切なことです。
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