2015年11月20日金曜日

『聴能力!―場を読む力を、身につける―』と『理解するってどういうこと?』

  先週、電車の待ち時間にたまたま駅の近くにある大きな書店に行きました。ほんとうにたくさんの新刊書があるものです。電車の時間も迫ってきたので、新書のコーナーで表紙をこちらに向けて展示された本のタイトルだけをざっと眺めて、足早に歩き去ろうとしたのですが、目に飛び込んできた本のタイトルがありました。
聴解力?・・・理解についての本かな? と思い、手に取ってみると、違いました。本のタイトルは『聴能力!』(伊東乾著、ちくまプ新書、2015年)。一字違いだったので、本棚に戻しかけましたが、それにしても「ちょうのうりょく」と読めるけれども、「聴」の字を使ってあるし、副題に「場を読む力」とあるので、けっしてオカルトの本ではなくて、理解についての本らしいことはわかります。そして、目次の見出し語が魅力的です。

 はじめに
1章 「離見の見」で空気を読む-視覚と聴覚の二刀流
2章 コミュニケーションの聴能力-平板メディアとライブの奥行き
3章 トラと子猫の見分け方-耳で大きさを測る法
4章 聴かない「聴能力」-早口言葉と速読のテクニック
5章 耳にまぶたはついていない-日常に耳を澄ます
6章 耳は何のためにある?-進化から見た聴能力
7章 仮面の告白と「聴能力」-気配りから思いやりへ
 おわりに……命と思いをつなぐ

 買って電車のなかで読むことにしました。読み始めるとすぐ、次のようなことが書かれています。

 一部の「超能力」の正体は、間違いなく「聴能力」にあると思います。かつて人間は、大自然の中で、もっと多彩な能力を縦横に活用して、力強く生きていました。文明が発達すればするほど、そうした人間本来の能力が退化してしまったような気がします。(18ページ)

 『理解するってどういうこと?』の第7章で「よきメンター」となっていたパブロ・ネルーダの詩や文章を思い出します。『聴能力!』の著者伊東さんがここで「人間本来の能力」と言っているのは、世界と自分自身を、全体として感じ取り把握する力のようなものです。それは、日常のささやかな出来事をいとおしむように見つめ、考える力であり、ものごとの「悪い味わい」をかみしめるようにして世界を生きようとする意思のようなものです。
 そういうことを、空気を読むことや、コミュニケーションをすること、聴覚をとおして「見る」方法、ということなどを具体的に論じながら解き明かしていくのです。理解について考えるための本を探しているつもりが、人生の処方箋を読むような思いにもなります。次のような一節があるからです。

 だいたい、あがるとか緊張するとかいうのは、自分の中であれこれ思いあぐねたり悩んだりするから、体が硬くなるのです。一種の妄想でしょう。そういうときは虚心坦懐に耳を澄まし、全神経をあたりを察知することに集中するのがいいですね。自分が自分が、という意識がすーっと消えて、全身全霊がセンサーとして研ぎ澄まされてゆくと、余計な妄想は消えてしまい、クリーンファイトの青い炎で燃焼する心の準備が整います。(45ページ)

 そういえば『理解するってどういうこと?』の第4章ではアメリカの画家ホッパーの絵が取り上げられて「耳を澄ます」という理解の種類とその成果について書かれていました。伊東さんの本は「聴能力」についての本ですから「耳を澄ます」というフレーズがあらわれるのは当然と言えば当然なのですが、上に引用した部分などを読むと、「耳を澄ます」ということがどれほど「わかる」ことそのものなのかということがよくわかります。
 そして「読み方」についての示唆ももちろんあります。第4章「聴かない「聴能力」」のところです。伊東さんは幼いころ、自分の母親から「本は頭のなかで音にしてはいけない」と教わったそうです。速読する場合にはそれが一番大切だということを伊東さんは身をもって体験しました。音や声に出すこととのわかりやすい対比は次のようになされます。

目の前に置かれた楽譜を見ながら音を出して演奏することも出来ますが、全体を瞬時で見て、そこにどういう形式や構造があるかを一挙に掴むという楽譜の読み方も、非常に大切なものです。(124ページ)

しかし、ここからがおもしろい。伊東さんは別に音読することに価値がないと言っているわけではないのです。いろいろな例が使われますが、ここでは「楽譜」の読み方と演奏の場合に「頭の中で音にする」ことと「声に出す」ことがどうなるのかについての伊東さんの文章を引用します。

楽譜は先に先に読んでいかねばなりませんから、いちいち音にせずに譜面を読むのは実際に役立つテクニックです。
これに対して、頭の中で音にして高速で読むのは、歌を所見で歌うときに役立つ方法です。ピアノやヴァイオリンと違って、歌つまり声楽は自分で音程やリズムを取ってゆかねばなりません。
ある部分を歌いながら、その先を読むというような場合、頭の中に響きのイメージを高速でまわしながら譜面を読むと失敗が少ないのです。
そして一番ゆっくり、書かれたリズムの通りに音楽を反芻する、というのは、自分固有の解釈や、新しい作品を創りだすとき、何度も何度も繰り返し、試行錯誤する方法です。(130~131ページ)

この三つのやり方は、本や文章をまずざっと点検しながら情報を取り出すようにする読み方、本や文章の物語内容や組み立て方を追いかけるようにして読む読み方、そして、表現をじっくりと捉えて著者の意図性を読み取ったり、本や文章についての自分の解釈を深めたりする読み方、に対応すると思います。三つ目の後に話し合いがなされると、他の人が行った三つの読み方と出会うことができますし、自分の解釈がさらに深まることになります。伊東さんが例に挙げている「譜面」を本や文章に置き換えれば、こうした考え方は、『理解するってどういうこと?』第5章での、表面的な理解構造と深い理解構造についてのエリンさんの考え方と通じていると思います。
こうして、二冊の本が意外に多くの点で共通していることに驚いているうちに、電車は私が降りるべき駅をもう少しで行き過ぎてしまうところでした。伊東さんの本が私を「熱烈な」読者にしてしまったのです。

                 (パソコンと格闘している山元さんに代わって、吉田が貼り付けました)

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