2013年3月1日金曜日

鶴見俊輔の『文章心得帖』


 今回は、鶴見俊輔著の『文章心得帖』(1980年)から、私がメモした中でWWに関連するところを抜粋して紹介します。

 これは、京都で行われた文章教室をまとめたものです。実際に参加者に書かせることと、それに関連することの知識やスキルを提示することをうまくミックスさせながら進めていたようです。ある意味では、WW的アプローチをとっていた、と言えるかもしれません。すでに70年代の終わりにこんなことをしていたわけです。
 会場が、京都四条柳馬場の美容院の2階というのも、なんともいいです。いい規模で行われていた、ということですから。しかも、講師陣には鶴見さんをはじめ、桑原武夫や多田道太郎などですから、すごい顔ぶれです。★

 数字は、ページ数です。

14 他人のうまい文章を書き抜く意味(鶴見さんは、小さいときからこれをずっと続けてやっているようです!) ~ 一つには、自分の文章はまずいなという感じを保つことができる。もう一つは、自分の文章を別のものとして見る目ができる。自分の書いた文章をもう少し形を整えようとするとき、役に立っていると思う。花田清輝、竹内好、梅棹忠夫、山田慶児、多田道太郎などの文章は、自分の陥りやすい紋切型をつきくずす助けになる。
15 文章を書く上で大事なことは、まず、余計なことをいわない、ということ。
16 私は名文家ではないが、もっといい文章を書こうという理想を持っているものです。ですから皆さんと理想を共有することができる。常に紋切型との殴り合いに終始している。その問題をおたがいに自分の前に置いてみましょう。その問題を前に置かなければ、文章はなかなかうまくならないと思う。

18 理想(いい)の文章の3つの条件
       誠実さ ~ 紋切型の言葉に乗ってスイスイ物を言わないこと。つまり、他人の声をもってしゃべるんじゃなくて、自分の肉声で普通にしゃべるように文章を書くことです。人のつくったある程度気の利いた言い回しを避けることです。普通の光らない言葉、みんなの共通語を主に使って、これというところについては、その普通の言葉を自分流に新しく使うこと。それが自分の状況にかなう言葉なんです。
       明晰さというのは、はっきりしているということ。そこで使われている言葉を、それはどういう意味か、と問われたら、すぐに説明できるということです。・・・行動とか経験による定義になる。自分で定義できない言葉を使うのは具合が悪い。明晰さは事実に合っていることが重要です。推論の正しさもそれには含まれる。ほかの人の推理に寄りかかるというのはだめです。
       特定の読者に対してわかりやすい。<読者に対して>というときの読者は、自分であってもいい。自分にとってわかりやすいということでもいい。読者としての自分というのは重要であって、文章はまず自分にとって大事なんです。自分の内部の発想にはずみをつけていくものが、いい文章なんです。文章を書いているうちにどんどんはずみがついてきて、物事が自分にとってはっきり見えてくる。そういう場合に、少なくとも自分にとっては、いい文章を書いていることになる。


  <メルマガからの続き>


24 けれども、わかりやすさというのはたいへん疑わしい考え方で、究極的にはわかりやすいなんていうことはない。自分の言いたいと思うことが、完全に伝わることはない。だから、表現というのは、何か言おうとしたならば、必ずうまく伝わらなかったという感じがあって、出発点に戻る。
  そこで、文章をまとめてゆく段階を考えてみると ~
(1)       思いつき
(2)       裏づけ
(3)       うったえ
 これを表現という行動の3つの段階だと考えましょう。<思いつき>というのは、各個人の心の内部にあるものです。<裏づけ>は、どういう言葉を使っているか、その言葉がどの程度に定義だれているか、どの程度に整理されているか、どの程度に事実に合っているか、どの程度に資料の裏づけがあるか、という用意。<うったえ>は、ある社会、ある状況のなかに、文章あるいは言葉を投げ入れることです。 ← 題材選び、下書き、修正、校正、出版の流れに即している!?
 そのとき、読者とそれをとりまく人に、なかなかうまく伝わらずに、何か残ってしまう。そうすると、それはまた振り出しに戻る。こうやって無限の循環をする。それが表現というものなんです。完全に伝わるということはない。だから一種の無窮運動だというふうに考えられます。 ← 一方通行の流れというよりは、行きつ戻りつしながらのサイクルを回し続ける
 この<うったえ>のところで、社会に向かって、たとえば手紙で相手に出すとか、活字になって人が読むとか、いろんなことがあるわけですが(出版)、その時になってはじめて社会とかかわるかというと、そうではない。実ははじめに自分が内部に思いつくということは、自分のなかに社会が入ってくるということなんです。
25 言葉をもつということは、外側の社会がわれわれのなかに入り込んできたことで、内面化された会話です。他人とのやり取りが内面化されて、自分一人でそれをもういっぺん演じている。ですから、思いつきそのもののなかに、すでに社会というものがある。
26 こういう図式を考えてみると、文章を書くことは他人に対して自分が何かを言うという、ここで始まるものではない。実は自分自身が何事かを思いつき、考える、その支えになるものが文章であって、文章が自分の考え方をつくる。自分の考えを可能にする。だから、自分にはずみをつけて考えさせる文章を書くとすれば、それがいい文章です。 ← 構成を考えてから書くのではなく、筆に語らせる/Free writingの大切さ。
 自分の文章は、自分の思いつきを可能にする。それは自分の文章でなくても、人の書いた文章でも、それを読んでいると思いつき、はずみがついてくるというのはいい文章でしょう。自分の思いつきのもとになる、それが文章の役割だと思います。 ← まさにWW

50 文章には、絶対的な法則などありません。
117 なるべく日常語に近い普通の言葉で書くのが重要。
118 終わりは強くしないほうが利く。なるべく単純化して、強調しないほうが効果がある。

 後半はほとんど紹介していませんが、鶴見さんはメンター・テキストを豊富に持っている人なんだな~、と感心してしまいます。それらを知ることも含めて、一読する価値のある本です。



★ この人たちが、「現代風俗研究会(略称ゲンプーケン)」というのをつくっていて、その一環として1979年に実施された文章教室をまとめたものだそうです。参加者は15人限定。職業も年齢もあえてさまざま。


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